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人類最大の宿命を解き放ったイエス!

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月24日(木)11時23分16秒
 
約2,000年前かねてから人類最大の解けない宿命であり、人類に課せられた

「死」(聖書ではこれを神から課せられた原罪と記されていた・・・)を

自らの十字架刑と言うもっとも過酷な刑罰に進んで挑み、その壮絶な苦しみと

孤独の中から、悲痛な叫びにも似た、創造主「神」への許しと原罪(死)からの

解放を懇願し神の許しを勝ち取ったイエス。この犠牲により神から3日目に蘇生(復活)

の恵みと全て人間の「もはや死もなく病もなく永遠の安息の日々の続く天国への帰郷が

許された・・・」

この恵みと驚くべき神の恩寵を「馬鹿げたたわごと・・・」と一笑に付し、残された

わずかな人生を、死に向かう恐怖(年老いて死に直面していく恐怖)とこの世の快楽消失や、唯

一のよりどころであった、自らの肉体の朽ち果てる様(さま)に恐れおののきながら死を迎えるか・・・・

前述の輝かしい、「イエス・キリストの十字架の贖いによる、それを信じる信仰による

救い(天国への凱旋)を信じ安心立命の境地で肉体の「死」を迎えるか・・・は

個人の自由であるが、私はあの偉大な科学者パスカルの後世の人々にのこした・・・・・

「天国があるか、救われるか救われないかは、コインを投げて裏(ない)がでるか

表(ある)がでるかは、わからないが、私は表(おもて)神の国があり、イエス・キリスト

の贖いによりこれを信じることにより、天国への凱旋が約束される・・・とする表(おもて)

に賭ける・・・と・

以下(ウキペディアによる参照事項)・・・・

パスカルの賭け(パスカルのかけ)を信じたい。これは、フランスの哲学者ブレーズ・

パスカルが提案したもので、理性によって神の実在を決定できないとしても、

神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す、

という考え方。
 

カトリック信徒のマリア信仰と日本人の観世音菩薩信仰や阿弥陀如来信仰

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月22日(火)14時58分7秒
  カトリック信徒のマリア信仰と日本人の観世音菩薩信仰や阿弥陀如来信仰

聖書のキリストの母とされるマリアについてプロテタスタントの初期の神学では

下記のようにマリア信仰は偶像礼拝である・・・というような極端な論調は

なく、著名なプロテスタント神学者ルッターやカルヴァンも初期神学において下記のような

見解をとっていた・・・。

初期プロテスタント神学

初期のプロテスタント神学者にはマリアへの尊敬を表した者がいる。マルティン・ルターはマリ

アを「最も気高い婦人」、「私たちは決して十分に彼女に栄誉を与えられない」、「マリアへの

崇敬は人間の心深くに刻まれる」、またクリスチャンの「すべてが彼女を尊敬する」べきである

と言った。

カルヴァンは「否定しようもないのは、神がマリアを選んで定め、彼女に高い栄誉を与えたこと

である」と言った。ツヴィングリは「私は神の母を尊敬する」と言った。ここで見られるように

初期プロテスタントはマリアへの尊敬と栄誉を退けなかった。

しかし、現代においては、マリア信仰は偶像礼拝と決めつけるプロテスタント教会も多く

見解の分かれるところであるが、私の思いは、前回、下段に述べた日本の歴史上に大きく影響し


カトリック教会の貢献は日本人として決して無視すべきものではない・・・と思われる。

従って私自身は、心情的にもキリストの母であるマリアを尊敬することが罪になる・・・とは思

いたくない。

このような日本人の心情をうまくとらえ、小説化したカトリック信徒で著名な作家である

遠藤周作氏は、それぞれの小説の深い部分で日本人の信仰心の土台となっている、母への

思慕、崇拝、愛着、の心情を浄土真宗の信仰の原点である阿弥陀如来崇拝心や

仏教信仰の観世音菩薩の救済心などを引き出させて、キリスト教信仰との重複・同化を

意図的に試みたのではないかと・・・思われるのである。

彼の著書「深い河」や「沈黙」はその現れのよくわかる内容であり、安土桃山時代に

日本の当時の人口の30%近いキスト教信者がいた歴史的事実と併せ、彼は現代における

クリスチャン人口の復興を心から願ったのではないかと・・・思うのである。
 

日本人のキリスト教に対するイメージ

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月21日(月)22時41分38秒
  日本人は仏教寺院の宗派や寺院については、知識も豊富で詳しいが

キリスト教会についてはどのようなイメージを持っているのだろうか・・・

日本史に登場するキリスト教は、ほとんどカトリック教会であり、長崎など

にのこされた教会は世界遺産に指定されたり、観光の名所としてもよく知られている。

更に今年に入り、九州の五島列島の島々に点在する教会が建物の外観でなくその周辺の

隠れキリシタンをも含めた歴史遺産として包括的に世界遺産として認定されたいきさつもありど

ちらかといえば、カトリック教会のイメージがキリスト教のイメージとして

伝わっているような気もする。

これは、プロテスタント教会が敗戦後アメリカや西洋諸国の主導で広まっていったいきさつが

うかがわれることに起因するも知れない。そして、今一つ日本で古い歴史をもつカトリック教会

歴史は中学や高校で詳しく学んでおり、

その歴史に登場する安土桃山時代の華やかな教会や、その後のキリシタン禁令による幕府の

迫害の歴史、特に島原の乱や26聖人の殉教・それらの歴史を赤裸々に描いた作家遠藤周作氏

による「沈黙」の小説・映画化など私達日本人にはキリスト教のイメージとしてはすぐに

浮かんでくるものである。

私は、教理・経典からではなくこうした日本人のキリスト教に対する本能的な共感としては

遠藤周作氏が描こうとした浄土真宗的なキリスト教に対する共感のほうが受け入れやすいような

気がしてしてならない。

それは私がいつも主張している、イエスキリストの復活後約300年あまり続いた弟子たちにる

命がけの伝道活動が、日本における約300年近く続いた隠れキリシタンによる命がけの

集会や礼拝と相通じるものがあるからである。今回、形ある教会の建物や遺跡ではなく、無形の

九州の五島列島を中心とする隠れキリシタンの存在を、無形の世界遺産として世界に認定されたされた

ことも大きな意義のあることだと思うのである・・・。
 

中東情勢の緊迫化とその行方の一考察

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月13日(日)21時44分27秒
  昨日イスラエルはシリアのイラン軍施設を攻撃したが、これはイラン軍のミサイル発射に報復し

た結果だと報じた・・・。

中東では1980年代以降、クーデターや革命、外部からの侵攻、代理戦争のような紛争はあって

も、主要国が直接対決する戦争は起きていない。しかし今日ではシリアを舞台にイスラエルとi

イランが直接対決する戦争のリスクが高まっている。

イスラエルのリーバーマン国防相は「イランが設けようとする拠点はことごとく破壊する」とロ

ンドンを本拠とするサウジ系新聞エラフに語り、イランの現体制は「末期的な状況にある」と加

えた。一方、イラン革命防衛隊のサラミ副司令官は、イスラエルに向けて「10万発のミサイルを

発射する準備が整っている」と述べ、イスラエルの「壊滅と崩壊」を招くことになりかねないと

テヘランから警告した。

米国のイスラエルの米国大使館をアラブ側の猛反対をおして、エルサレムに移すことを

決定したことを、中東はきな臭い不穏な動きとなってきた矢先であり、先日の米国大統領のイラ

ン核合意廃棄と相まって中東情勢はシリアを舞台に一触即発の状況となってきた。

以上、海外の報道文を一部引用したが、私はこうした対立の背景には、キリスト教圏と

イスラム教圏の根深い対立が底辺にあり、近年長い期間にわたって論じられてきたことでもある。

一部のキリスト教徒の間には、聖書で予言されている「ヨハネの黙示録」の序奏が始まった

とする説が秘かにささやかれ、中東戦争をきっかけに、第3次世界戦争が勃発し、

いよいよ世の終わりが訪れる・・・と秘かにささやかれたりもしている。

これが「キリスト千年王国」の始まりなのかは、キリストの再臨の「前キリスト千年王国説」に

あてはまるのかは、定かではないが、聖書の予言通り、近年突然、イスラエルの国が

復活したことも考え合わせると、着々と聖書の預言が実現されつつある感がするのも事実である
 

この世は力(ちから)と力(ちから)の支配する世界

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月 9日(水)09時57分31秒
  米国はイラン核合意を廃棄した。一方で北朝鮮とは和平の方向で動いている。かってイラクや

リビアは核兵器を持たない国だったのに、徹底的に米国にたたかれ国を滅ぼされた。

しかし、北朝鮮は米国に届く大陸間弾道弾(ICBM)をほぼ完成し米国を悩ませる現状を

造りだした結果、事態は急変しあれだけ罵り合っていた、両国首脳が対談を決意し和平に

むけて動き出した。両首脳はノーベル平和賞受賞候補の声も聞こえている。

こうした現状をつぶさに見るとき、社会の構造は、資本主義・共産主義に関係なく、

力(ちから)=戦力、特に現代は核戦力をもつことと、資力、資源・金融力、技術力

を持つものがそれを持たない者を支配し服従させている現状を痛感するのである。

やはりこの世はイエス・キリストが予言したように善意や愛が支配する世ではないような

気がする。イエスは常に「私は世に属していない・・・」と断言されていた・・・。

私達(イエスに従う信徒)は、国籍は天(天国)にありやがてくる最後の審判(世の終わり)の

時までじっと耐えて信仰を貫き通し生きることがイエス・キリストの信徒としての務めでは

ないかと…思うのである。
 

日本の多くの人々のつぶやき・・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月 8日(火)22時09分3秒
編集済
  現代の若者のつぶやき・・・


幼少のころの思い出は本能に導かれて父や母に自分の欲望をそのまま

ぶつけて生きてきた・・・そのため、自分自身が何のために生まれてきたのか

何のために生かされているのかもよくわからなかった・・・・。

しかし、中学・高校と成長するにうちに、色々考え事が多くなったが、しかし

受験勉強や日々の学校での授業などに追われ自分自身の足元を見つめ、なぜ

今、生かされているのかも本当のところよくわからなかった・・・。


現代の青年のつぶやき・・・


学校を出て就職し仕事についたが、しかし学校で教わった世の中の仕組みや

世間の様子は現実の職場とは大きく異なっていた。

これはおかしい・・・と思ったこともそのまま反論など決してできない厳しい

現実があり、正義感から内部告発したり反論したりする同僚は、ほとんどその職場から

除外されていった。

そうした現代の世相は近隣との付き合いや友人どおしにおいてもその延長線上にあり

決して自分の憤まんやるかたない気持ちを吐露し慰めあうことも不可能であった。


現代の壮年のつぶやき


こうして幼少から青年へと生きてきたが、気づいてみればいつのまにか、職場では責任の

重い仕事につき、家庭に於いても子供の親としての責任が課せられ、日々の暮らしはひときわ精

神的にも経済的にも厳しくなっていた。

こうした時に、自分の根本をみつめることのできる心の余裕は見いだせずただ、ひたすら

職場と家庭と子供達への重責に耐えて生き抜く以外にはなかった。


定年退職後の初老の人々のつぶやき


こうして壮年期を経て仕事からも解放され、やっと自分自身を見つめなおすことのできる

初老を迎えたが、しかし多くの人は仕事・仕事で押しつぶされるような人生を歩んできただけに

この間、人生を見つめなおす哲学や宗教の思索はほとんどしたことがなかったため、突然

訪れた定年後の自由な時間もほとんどどのように過ごしていいのかただぼんやりと脱力感

だけが自分を大きく包み込んでいることに気付くだけだった・・・・・

人生の最後に直面して・・・

こうした、脱力感の抜けきらない、老年期をぼんやりとすごし気づいてみれば、自分の

周りには、かっての友人も先立たれ少なくなっていた。また、唯一の心のよりどころで

会った親や兄弟ももうこの世にはいなくなっていた。

そうした孤独な状況の中で、ぼんやりと自分はもうすぐこの世を去るんだと・・・・自覚

できるようになった。

この時初めて、今まで真剣に考えたことのなかった、「死」の意味や「生」の意味、そして

「死後」のことを考えめぐらすのである・・・。

でも、深く宗教にも接せず、哲学的な人生の思索も真剣にしなかった人々には、突然訪れ

ることになった自分自身の「死」の問題に対してただただ唖然・・・とするしかない現実を悟る

のである・・・・。

以上が、現代の日本に生きる人々の大半の人生模様であり、誇張のない本音の社会や人生に

対する吐露であろう・・・と思われる。

ここで、いつも私が論じている、イエスの教えはこれらの人々にどのように作用しまた

受容されるのであろうか・・・・。

確かに、実社会で生き抜いていた壮年時代においては、イエスの教えは出世や仕事をこなす

上で妨げになったかもしれない・・・・。

特に日本国内においては、仏教徒が多く自分の家の菩提寺やお墓を守るためには、親族が

同じ思いで結束しなければならない日々も多かったであろう。

この意味において、よほど死ぬか生きるかの瀬戸際で、キリスト教の洗礼を受け信徒と

なった人以外は、私が先日書いた、「日本のクリスチャンの多くは二重人格とならなければ

実社会では生きて行けない・・・」という現実も納得できるような気がする・・・。

しかし、これらは実社会の人々と交わり、親族も多く周りにいた年齢に於いて・・・である。

自分自身が、余命いくばくもない状況となり、たった一人きりでやがてくる自分の「死」と

向き合わねばならなくなった時こそ、こうした二重人格の衣は脱ぎ捨て、

「人間の「死」が創造主の神から課せられた「原罪」(生まれ来てこの地上で地を這うように

働かせられ、その結果として体力・知力も衰えていき、老いる苦しみを負わせられ、

そしてその終着点は病に落ち入り、身体は朽ちて死の苦しみを味あわされながら

のたれ苦しんで死んで行かねばならない・・・・)この神から課せられた「原罪」

は重くのしかかっているのである・・・・。

しかし、人間の創造主である神は、歴史に於いてただ一つの救いの道を開いていて

くださったのである・・・。

それは、神ご自身の一人子(イエス)をこの世につかわし、この原罪(死んで行かねば

ならない宿命)をイエスを信ずる信仰によって救おう・・・とされたことである。

その信仰の真髄は「イエス自身の十字架の贖い(私達人間の罪のために身代わりとなって

自ら進んで神の許しを乞うために死なれた・・・)を信じることにより、イエスが天にのぼられ

たように私達も原罪(死ななければならない宿命)から解放され、創造主の神のもとへ

もはや「死」もなく「病も」「老いること」もない世界(天国)に行けることが約束

されているのだ・・・・と堅く堅く信じていこうと思うのである。
 

一般的で平凡な世界史の検証

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月 3日(木)00時18分11秒
編集済
  私個人の主観的なイエス像については、この掲示板の過去の随所で述べてきているので

今回はあえて自分の主観や信念を主張せず、ごく一般の世界の(特に日本の)人々が

思うであろうイエス像について書き留めてみた・・・・。

彼は確かに下段の「世界史を変えたイエス・キリスト・・!」で述べているように

不思議な復活などの出来事により後世にのこる事実をつくりあげているのだが

しかし、ここには内面的な彼(イエス)の信念や思想は語られていない。

後世の世の人々が彼の名をここまでおしあげ人類の脳裏の奥深くまで浸透させた原因は

別なところにある・・・と思う人が多いのも事実である。

最近、話題になっている I CAN の活動や思想の背景には平和を主張し続けたイエス

そしてイエス自身が自分の命を投げ打っても主張した人類の平等思想や病人や社会的弱者

に対するつきることのない愛などが影響しており、国連の人権擁護の基本的立場や核戦争

の廃絶思考や難民(弱者)救済の根本的施策など全ては小規模であったが約2000年前

イエスがその布教活動において主張し実践してきたことと一致するのである。

そして、最終的にはすべての人間が背負わなければならない宿命(年老いて死んでいかねば

ならない)人間本来の死の問題に対して、勇敢にも自らの罪なき罪(十字架刑)を進んで

受けその苦しみの中で人類を創造した神に対しての許しを・・・・・十字架刑と言う

もっとも苦しい残酷な場で自ら全人類の死んでいかなければならない宿命の許しを
創造主に乞い願ったことであった・・・・。

その後、先日下段に述べたような死後3日後の復活の事実を目撃し、このことにより

イエスが伝道中に弟子たちに語りさとしたイエス自身の十字架の贖いがこれを信じる全人類に

伝えられ生老病死の宿命をもつ全人類の希望として受け入れられあるいは語りつがれて

来たのである・・・と確信するのである。

参考までに讃美歌121番を掲載します。

       この人を見よ

          一

馬槽(まぶね)の中に うぶごえあげ、

木工(たくみ)の家に  ひととなりて、

貧しきうれい、 生くるなやみ、

つぶさになめし この人を見よ。

         二

食するひまも  うちわすれて、

しいたげられし ひとをたずね、

友なきものの  友となりて、

こころくだきし  この人を見よ。

         三

すべてのものを  あたえしすえ、

死のほかなにも むくいられで、

十字架のうえに  あげられつつ、

敵をゆるしし  この人を見よ。

        四

この人を見よ、 この人にぞ、

こよなき愛は  あらわれたる、

この人を見よ、 この人こそ、

人となりたる 活ける神なれ。

参考事項

ノルウェー・ノーベル委員会は2017年のノーベル平和賞を核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)に授与すると発表しました。
 
 

続 世界の歴史を変えたイエス・キリスト

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月 1日(火)10時59分6秒
編集済
  先日のコメントで世界が核戦争や悲惨な生物化学兵器で何故滅びなったのか・・・・

その理由を述べたが、しかし人々はイエス・キリストが現代の国々の信じられて

いる宗教や常識を既成事実として認めた場合は納得いくかもしれないが、2000年前の世界の

情勢や国々の実情を詳しく分析していくと、人類の歴史の実情とは全く違った不思議な

事実が浮き彫りにされてくる。

今回はこの不思議を現代の科学や政治学・歴史学の立場から検証してみたい。

まず、現代の常識として我々現代人に認識されているイエス・キリスト像やその知名度など

もろもろの彼に関する知名度であるが、現代人はなんの不思議も感じないまま、とびぬけた

著名人として受け入れている。これはキリスト教信者であるかないかにかかわらずである。

しかし学術的に世界の歴史を振り返るとこんな不思議があっていいのかどうか、知識人で

あればあるほど困惑するのである。私の随想「希望の光」でものべているが、彼(イエス・

キリスト)が世で活躍した期間はたったの2年たらずである。それも当時の世界史では

ほとんど名も知られていないローマの支配する片田舎の属国(ユダヤ)の小さな小さな

町(エレサレム)近郊においての地味でささやかな活動だけなのである。

この間の事情を、私のこのホームページ「幸福の楽園」の中の「希望の光」のコメントを

引用しながら検証してみたい。

先ず、世界の年号となっている2018年の現在の年号はAD2018年とされ、このADの意味は

ラテン語の「AD」が使われている。ADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、

「主(イエス・ キリスト)の年に」という意味である。(西暦紀元、キリスト紀元ともいう)

また紀元前はBC(before Christ)キリスト誕生前の年号とされている。

さて今から約2000年前、その年号の出発点となったADの1年には一体何が起こったのか・・・。

AD 1年12月25日にイエスキリストは、今のイスラエル(ユダヤ)の国のベツレヘムに誕生した。

当時ユダヤはローマの支配下にあり、ローマ帝国からみれば片田舎の

小国であった。その後歴史によれば、イエスキリストは十字架にかけられ処刑された。

しかし彼が当時のユダヤ教の洗礼者ヨハネから洗礼を受け、独自の宗教活動をしたのは

わずか2年にすぎない。そしてその前の成人するまでの約30年間については、彼の記録は少なく

大工ヨセフの子として育った・・・と記されているのみである。

そして布教活動した2年間もエレサレム近郊のみであり、アレキサンダー大王のようにヨーロッパ

大陸を縦横無尽に活躍したわけでもない。本当に当時のローマの属国であった片田舎

での小さな小さな布教活動に過ぎなかった。では何故この小さな世界の片隅で行われた

イエス・キリストの布教と彼の活動が世界の歴史を変えることになったのか・・・

それは彼が十字架に処せられた後、三日後に甦(よみがえ)られた事に始まります。

一度死んで甦った人は、世界の人類史上で彼一人です。この死からの甦(よみがえ)り、

即ち復活の事実は、彼の死後500人もの人々が証明しています。

しかし、もう一つの大きな出来事は、当時イエスが十字架に架けられた直後は弟子の

失望は大きくほとんど弟子たちは離散しそれに従っていた大衆も失望し、この時点では

イエスの教えは、壊滅状態に近く彼の十字架上の死をもって世界の歴史からも忘れ去られる

はずでした。そしてイエス・キリストを取りまいていた12弟子も、イエスの処刑後、逃げ去り

キリストの教えそのものも消え失せようとしていたのです。

さて、この様にほとんど壊滅状態であったイエスの教えと離散した弟子と大衆が、何故再び、

力強くキリストを証しする証人として立ち戻り、大衆を再びイエスの教えに耳を傾けさせるほどの

不思議な事態が起こったのでしょうか。

それは、三日後に、イエスはたびたび12弟子の前に現れ、12弟子の一人であったトマ

スには彼自身に槍で突かれた脇腹の傷口に手を通うさせ確かめさせいます。また、その後、

一カ月余りの間に多くの人々の前に現れ、彼を目撃した者は述べ500人にも及んでいま
す。

即ち、500人もの人が彼の復活を証言しているのです。そして何よりも不思議な出来事は、

イエスの死後逃げまわり、あれだけ弱気になっていたペテロが、イエスの復活を目の当りに見るや、

まるで人が変った様に力強くイエスの教えを広めて行ったことです。

そして今ひとつ、不思議な出来事はイエスの死後イエスに従っていた弟子や大衆を逮捕する目的で

迫害にまわっていたパウロが、突然雷の様な光に打たれその後イエスの声を聞き一転して

力強くイエス・キリストの福音を述べ伝える弟子に転身したことでした。

一般の人々の中にはパウロはもともとイエスの弟子であったと錯覚しておられる方もあるかも

しれませんが、パウロは離散したイエスの弟子達や信者をとらえ当時の国教であったユダヤ教に

立ち帰らせる為につかわされた役人だったのです。

私はこのイエスの死後に起った数々の不思議な出来事を知るにつけイエスキ・リストは

彼の死後、何等かの方法で当時の人々に霊的心的な影響を与え勝利したはずのユダヤの為政者達へ

脅威的な打撃を与えたと確心できる様になりました。その後AD400年頃まではローマ帝国の為政者達

による言語に絶するキリスト教徒の迫害があり、決してトントン拍子の布教活動は、

出来ませんでしたが、暴君ネロ皇帝のコロセウムでのキリスト教徒の処刑(生きたライオンを

コロセウムに放ち逃げまどうキリスト教徒をおそい食い殺させる処刑)などを経て遂にAD 392年には、

イエス・キリストの教えは、ローマの国教にまでなったのでした。

十字架の処刑により一時完敗したイエスは彼の復活によりAD392年に於いて逆転完全勝利へと

状況は一変したのでした。そして今、彼の誕生後2000余りを迎える現代に於いてもその誕生は

全世界で祝われアジアの仏教国であった日本に於いてもクリスマスの日はケーキが食卓に並べられ

ローソクの灯のもとに「メリー・クリスマス」の言葉と共に家族揃ってその誕生を祝うまでに

なったのです。こうした不思議な歴史的事実を知る時、彼の復活が医学的・肉体的復活(蘇生)で

あったかどうかは私にとって問題ではなくなりました。

諺に「結果よければ全てよし」「結果が全てを物語る」と言う言葉がありますが当時の為政者で

あったユダヤの祭司やパリサイ人との戦いに於いてイエスは十字架上で処刑され完敗となったが

その三日後の復活と一ヵ月余りの人々の前での蘇生の証明により事態は逆転したのです。

「いかなる世界の歴史におけるよりも、聖書の中には、よりたしかな真理がある」・・・・

アイザック・ニュートン・・・・著名な科学者 ニュートンの言葉が ズシリ と 重く 胸に響きます。
 

世界の歴史を変えたイエスキリスト !

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 4月26日(木)23時41分13秒
編集済
  人間が地球上で現在、動物や植物などの生き物を支配し、その他の地球資源も、その知恵と能力により支配しているが

これは、ひとえに人間が他の生き物と比較して頭脳がすぐれ知力を持ったからだと言われている。

落雷などで発生した火も人工的に造りだし、他の動物以上に人間同士の意志の疎通を容易にする言語を話し、またそれを文字にして

あらわし後世にのこすこともやってきた。

そうした人類史をひもとけば人間の頭脳のすばらしさが今日の人類による地球支配・万物の支配を可能にしたとも思われる。

しかし、この人類史を別の観点から検証してみると、人間は破滅を招くかも知れない試練を何度も経てきている。それは

第1次世界大戦もそうであり、特に第2次世界大戦では、原爆が使われ、生物化学兵器も実際の戦場で使用できる段階まで

研究がすすめられていた。第2次世界大戦後もアメリカと旧ソ連の対決があり、キューバ革命を経て一触即発の核戦争が勃発

する危険もあった。

しかしこれらの危機が乗り越えられたのは、イエスキリストの人類の平和を説く教えが全世界に伝えられて、人間の脳裏の奥底に

深く刻み込まれたおかげではないかと・・・思える。

また、アメリカ合衆国の歴史をみても、黒人や原住民と白人の対立は長く続いたが、イエスキリストの教えや活動の中で人種や男女の

差別を優しくつつみ平等を主張した教えや行いが、人々の心の中に深く定着しこれらの争いのなかにいつも平和と平等を意識する思いが

埋め込まれてきたからではないかと思える。

正直なところ人類は自滅に至るべき世界戦争(核戦争)を思い留め、また奴隷のように虐げ人間以下の扱いで重労働を強いられた黒人、

また女性は権力者のなぐさめ者の扱いを受けてきた、当時弱者と思われた人々も

イエスキリストの教えの根本である人類平等思想によって救われ、今日のような人権が擁護される

世界に変えてくれた気がしてならない。

もし、2,000年前にイエスキリストが現れなかったら、人類史は大きく変えられていたであろうと想像できる。あるいは、核戦争や

各地での悲惨な生物兵器をつかった争いによりこの地球上に人類は消えていたかもしれない・・・。

世界の歴史を振り返る時、私たちはイエスキリストが与えてくれたあたたかい人類愛と平和主義を深く心に刻み歩んでいかねば

ならないと思うのである。

 

孤独に耐えうる人生を送ろう・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 4月20日(金)23時04分18秒
編集済
  孤独に耐えられず人恋しさから悪い人につけこまれたり、悪の世界に

引きずり込まれたり、犯罪の犠牲者になったりすることは 日々の新聞の三面記事でも散見されるが、

孤独に 耐え得る人間に成長し、孤独の中にあっても強くたくましく生きて行くには,

具体的にどのような心境でいればいいのであろうか。

このことを検証する前に、世界の偉人であるそれぞれの人生をみてみよう・・・。

先ず、釈迦であるが彼は王子の華やかな身分を捨て、6年間ひとり山にこもり修業を続け断食と瞑想の孤独の日々を続けた。

この間における人間としての孤独感は一言では言い現せない苦しみであったと思う。

また、モーセもエジプト王の王子同様の華やかな暮らしから突然 ユダヤ人であったことが露見してエジプトを追放されたが、

その後長期間砂漠の荒野をさまよった。その孤独は言葉ではいいあらわせないほどの体験だったと思われる。

また、イエスも自らの信仰を確かめるために40日間荒野をさまよい

いろいろな誘惑にもめげず、孤独の恐ろしさと怖さを身をもって体験している。

このように、歴史にのこる偉人はみんな偉業をなしとげる前に

大変な孤独に耐えているのである。

私は、現代においてもこうした世捨て人のような環境下に自分を置き

その寂しさと苦しさに堪え得たならば、本当の意味での人生の意味が

わかってくるのではないかと思うのである・・・・。

僧侶ならば多くの財政的基盤の上にあぐらをかき、大勢の信徒や

同僚の僧侶に支えられた日々の暮らしは、およそ孤独感とは縁遠い

ものであるが、一度、檀家や家族から離れた心境でただただ釈迦の辿られた

求道のみちを追い求めることが大事なのではないかと・・・思うのである。

キリスト教徒もまた、牧師や教会員の信徒に支えられて安穏な日々を

ただ感謝して暮らすことが、本当の意味での信仰の向上につながるとは

解釈せず、自らを律しこれらの支えから外されたとしても、微動だもしない

信仰と信念を持ち続け孤独に生きてみてはどうだろうか・・・・。

このことにより、社会的地位もすべてを捨て去ることになったとしても

微動だもしない信仰を持ち続けられるように、日々孤独との戦いの

なかで自己のゆるぎない信念を育て上げるべきではないかと・・・

思うのである。

本当の意味での孤独を堪え得た人間こそが、この世がどのようなものか、

また、日々の人と人との交わりが、表面的なきれいごとだけでなく

いかにドロドロとした醜悪なものかを見抜き、すべてのこの世の争いが人と

人の利害関係やねたみや恨みによって派生しているかを看破し

孤独の中で孤独に耐え続けてじっくりと人生の実相をみつめられる

人間に成長すべきではないかと・・・・ふと、そう思うのである。
 

かすかな記憶をたどりながら・・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 4月19日(木)22時00分11秒
編集済
  まだ訪れてはいないが、人生の本当の意味での晩年とはどういう

場所で、どういう心理状況のもとにあるのだろうか・・・

誰しもが人生の本当の意味での晩年を迎えなくても、若い時代の

人生の一瞬一瞬に、ふとヒトコマの映画の瞬時のシーンのような

フラッシュバックに似た思いがよぎったのではないかと思う・・・

自分が年老いていくと、幼少の頃や青年時代に周りに沢山いた仲間や知人は

年と共に一人去り二人去りして気が付いてみると、まるで自分が浦島太郎のように知らない土地で、

知らない人ばかりの場所にポツ~ンと存在していることに気付くのかもしれない・・・・・。

その寂しさと悲しさは言葉では言い現せないかもしれない。

否、自分は一人ぼっちでこの世を去っていかねばならない現実を全身にずしりと感じながら、それでも生きている意識だけは

はっきりとしているその寂しさは説明できない悲しさであろう・・・。

この時点において、自分の所属していた宗教教団やその教えがどれだけ心の支えになってくれるのかは・・・まったく予測がたたない。

同じ信徒の友とて、それぞれ有限な身体(からだ)を持っていて、自分と一体ではないのだ・・・・。

仏教の逸話に、あの世に渡る彼岸の向こう側にある「三途の川」の

岸辺まで来てくれる(と言うより自分の記憶にもある)友人はまさに岸辺までであり、さらによりそってくれるであろう

子供達や兄弟姉妹も川岸までと言われている。

そして唯一三途の川のぎりぎりのほとりまで出迎えてくれるのは配偶者だけとか・・・

いずれにしても、これは客観的にみた状況の説明で死に行く本人そのものの心境や

感情は語られていない。自分はもう誰もいない三途の川を渡り始めたときは寄り添うものは

一人としてなく、まさに孤独と絶望の真っただ中なのである・・・。


以上は、日本における平均的な人々の内面的な心境や感情であり

日本に於いては、仏教徒が多いことから一般論として書いた・・・

しかし、キリスト教徒の場合はどうであろうか・・・・

キリスト教徒と言っても親がキリスト教信者だったので、必然的に

キリスト教を引き継いだ信徒もいるし、深刻な思索や決断からでな

く教会の信徒が友人であったとか、牧師が好感がもてたから、信徒と

なったと言う信徒もいるだろう。前回書いたキリスト教信者にはこのような

本来の信徒から大きくかけ離れた信徒も多いと思う。

このような日本における大半のキリスト教信徒は、上述の仏教徒

と同じく死に直面した時は、孤独で淋しい臨終を迎えるかも知れない。

それは、洗礼を受けた動機が、この世的な生活から決別し死に行く時の

心境で洗礼を受けたか否かにかかっていると思う。

真のキリスト教徒は洗礼を受けた時点でこの世と決別している。

私たちの本籍は天国にあり、全世界の人類に課せられた原罪(

必ずいずれ死に行かねばならない宿命)から、イエスキリストの

十字架上の死を身をもって示された極限・限界状況の中で、

私を信じなさい・・・!あなたがたの死んで行かねばならない

宿命から、「もはや死もなく、病気も苦しみもない世界(天国)

に私のこの十字架受刑とその後の復活を信じる信仰によって

あなた方の罪(死にいかねばならない宿命)から解放され罪が

ゆるされ天国に入ることが許される・・・・という約束・・・

この信仰を堅く堅く信じることによって、上述のような仏教徒のような

孤独と悲しみは払しょくされるのだと・・・・・!

この希望があるかぎり、この約束を信じるかぎり、もはや死に行く

孤独や寂しさや苦しみは消失して、大きな喜びに転換するのだと

信じて信じて疑わないで行こう・・・と思うのである・・・・。
 

著名な宗教・教派の教祖や思想家の思い

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 4月13日(金)15時46分20秒
編集済
  歴史にのこる著名な宗教・教派の教祖や思想家がもし現代社会に

生きていてこの世界の現状を見た場合、はたして正しく自分の創始

した宗教や思想が正しくその教団や思想集団に伝わっているか、疑問に思われることもあるのではないかと・・・・

ふと思ったのでその個々人になりきって本音を書き留めてみた。

先ず・・・・仏教の教祖の・・・・

釈迦=私が教えを広めて世界は大きく変わり今はいろいろな宗教が

あり、それぞれの国でその教えが広まっているが、タイやブータンなどではそれなりの、

国民の倫理観や生きがいに私の教えがなんらかのいい、影響を与えているように思う。

日本に於ける仏教は、色々な教派に分派しておよそ私の教えとは程遠いような、宗派もみうけられるが、

教団が大きくなりすぎたこともあり、巨大な組織の教派 では、

葬儀と法事などの行事を取り扱う営利団体のような様相を呈している教派もあり、また一方で政治権力と結びついて政治集団の

ような教派もあり、ずいぶん私(釈迦・仏陀)の原始仏教時代のような純粋な思想

活動は観られないような感がする。

次に世界で一番信者数が多いとされているキリスト教は

イエスキリスト=私が予言したように私(イエス)の教えは全世界に広まり

現代の世界の数十種の言語に翻訳され、その教えの集大成とされる

「聖書」は全世界の人々に読まれている。

しかし、私の教えをもとにした教団は何十種の教派に分かれ中には

私の教えから程遠い異端的な教派も現れている。

そういった特殊な教派の教えは今回は無視して、おおよそ現代の社会でかなりの信者と大きな組織に発展した教団の教理や活動を

もとに分析してみる。

まず、言えることは、私の根本教理であった、「私の教えはこの世に属していない・・」・の私の主張からは大きく離れている・・・と思う。

原子爆弾を広島・長崎に投下し何百万人もの犠牲者をだした

戦勝国で今も世界の警察官を自認するアメリカ合衆国は、表向き

キリスト教国であり、すべての裁判や国会の証言や決議でも「聖書」

に手をおき宣誓する国ではあるが、ある意味でこの国の偉大さは

かって、私(イエス)を十字架刑にかけたローマ帝国と酷似して いる。

したがって私が12弟子に伝え、その後弟子たちやその弟子に教えた原始キリスト教(苦難時代のローマの地下信徒)紀元1~300年ころの

信徒の思いとは大きく異なるものである。

そのころまでは、「剣によってたつものは剣に滅びると・・・」として、私の直弟子ペテロにローマ兵に向って切りつけたことを厳しくしかり

思いとどめさせた私の無抵抗・平和主義はその後の現代のキリスト教理からは大きく逸脱した。(これは紀元後392年にキリスト教が

ローマの国教となった時からである)

こういう意味では、現在の世界のキリスト教の教えがその歴史的 背景に無い、日本のキリスト教(キリスト教会・各派)をみれば

おおよその事情が浮き彫りにされる。前述したアメリカ合衆国や 英国などキリスト教を国教としてその後長い年月を経ている国は

宗教思想というより国の権威と裁判(犯罪)などの抑止力として扱われている面が多いので純粋な宗教批判や思想を評価するには場違い

的外れのような気もする。しかし日本のように多様な宗教が存在し、キリスト教とは離れていた時代の歴史をもつ国における

国民(日本のキリスト教)感情はある意味で現代のキリスト教を前述の原始キリスト教時代のキリスト教と区分けして

評価しているのではないかと思うのである。

それは日本のおよその人口1億人の1%前後の人しか信徒がいないと言う現実、そして、教会教理と一般社会人としての倫理観の使いわけ

(一部ではこれゆえに日本におけるキリスト教徒は二重人格者 とも揶揄されている)

そのほか、信徒を守るべき教会教団も財政難と信徒数の漸減に苦しみこの結果、NPO法人や他のボランティア団体よりも薄情な教会信徒の

高齢者切り捨て(実質的に献金や清掃・布教に寄与しにくい高齢者は別帳会員(正式の教会員ではない)として親族の葬儀や

結婚式に日々の交わりがないためほとんど知らなかったことと無視 している現状など、およそイエスキリストの教えとは程遠い現実の

教会活動がみられる悲しい実情である・・・・。

しかし、過去の歴史を振り返れば、紀元1年~392年までの、原始キリスト教会に似た

教会も出現していたことも事実である。

その一つは13世紀にアッシジのフランチェスコは、フランシスコ会

(フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士。「裸のキリストに裸で

したがう」ことを求め、悔悛と「神の国」を説いた[1]。中世イタリアにおける最も著名な

聖人のひとりであり、カトリック教会と聖公会で崇敬される。

また、、20世紀中ごろ活躍した、アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師の

キング牧師は、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として活動し、黒人人種差別撤廃

運動にも参加し殉職している。

また、日本においても・・・・・

賀川 豊彦氏は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家で、社会改良家。

戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を

担った人である。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者。キリスト教における博愛の精神

を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。

茅ヶ崎の平和学園の創始者でもある。

また、マザー・テレサ(、コルカタの聖テレサ (Saint Teresa of Calcutta) は、

カトリック教会の修道女で修道会「神の愛の宣教者会」の創立者であるが、カトリック教会の

聖人とされている。

カルカッタで始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって

全世界に広められている。

生前からその活動は高く評価され、1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞

、1980年のバーラト・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、

1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けた。

1996年にはアメリカ名誉市民に選ばれている(アメリカ名誉市民は彼女を入れて、わずか7人し

かいない)。

このように、歴史を振り返れば、原始キリスト教会時代のような信徒は多く見受けられ

イエスキリストが後世の真の弟子・信徒として称賛されているのは、このような信仰

このような福音活動ではないだろうか・・・・・?




 

続  時空を超えた世界観から人の一生を見ると・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 3月 5日(月)14時01分20秒
編集済
  前回は歴史的な観点と全般的に外部から眺めた人間の一生の概説であったが、今回は個々人の内面的な思いや感覚も考慮しながら

それぞれの時代に人々はどういう思いで人生を過ごしていったか見て観たい。

個々人が自分の一生は幸せであったかどうかの判断は同じ境遇にあっても捉え方によってそれぞれ違った人生観になるような気がする。

というのも、幸せ感はその人その人のもつ心情や宗教や感性によって異なった捉え方になるためである。

アウシュビッツ強制収容所で捉えられた、囚人の心境を赤裸々に描いた「夜と霧」にも克明に描かれているように、大部分の人間は

決して逃げ出すことのできない、強制収容所の中で、ただじっと処刑の日を待つだけ心理的極限状況の中で、大方の人は初期の頃は

必死で逃亡を企てたりするが、ある一定時期が来るとそれも絶対に不可能であることを知り、高圧電線の鉄条網に向かって走り

自殺を企てるようになり、それも出来ない人々はだた放心状態で生きようとする意志も失い人格的に崩壊し、自己意識は薄れて

内面的な死(精神面ではすでに死んでしまった状態)に陥っていく。こうした人間の崩壊を同じ同朋であった精神科医で心理学者の

囚人(筆者:ヴィクトール・フランクル)は克明に書き綴ったのである・・・。しかし彼の記述はここで終わっていない。彼は、この地獄のような収容所の中で

信じられない光景をまの当たりにした・・・・。ほとんど骨と皮だけに痩せ衰えた数人のグループが、精神的に崩壊しただ自殺を

考えている同胞の囚人たちを励まし、残り少ないスープを分け与えながら「生きよう・・!こうした非人道的な行為をしている

国(ナチスドイツ)が長く続くはずがない・・・!自由と民主主義をそして信仰を土台に戦っている連合軍が私たちを救ってくれるに

違いないと・・・! こうして、自らの愛を示しながら心身ともに疲弊し沈んでいった同朋の魂を呼び覚まし続けたのである。

この光景をまのあたりにした、精神科医で心理学者であった彼は「人間が生きる力を持つのは、物理的な環境や食物や外部的な影響だけではなく

心の奥にどれだけ人々に対する愛をもち連帯感をもって支え合おうとする意志を持っているか・・だと悟ったのである・・・・。

この例は本当に一つの例にすぎないが、これと似た世界の出来事は多くあり、インドのガンジーの平和運動やキング牧師の黒人差別撤廃運動

マザーテレサ女史のインドや中東の激戦地での人道支援などほとんど地獄にもにた環境のもとでも、このような異彩を放つ生き方も可能で

あることを歴史は証明しているのである。

私たちも自分の人生に行き詰ったとき、今一度こうした先人たちの最悪の環境を180度吹き飛ばす生き方を思い出し、自分の人生を意義ある

ものにしたいと思うのである。


 

時空を超えた世界観から人の一生を見ると・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 3月 4日(日)19時53分22秒
  人の一生を有史以来、今日に至るまで正直にみていくと、生まれ落ちた時代、時代によって大きく人生が異なることに気付く・・・。

封建時代に生まれ落ちれば、身分やその位の高低によって、ほぼ人生は決まってくる・・・。

また、生まれ落ちた国やその時代の状況(戦争や騒乱の真っただ中)で、その人の一生の悲惨さや苦しみが決定される。

こうした状況の赤裸々な描写は世界の国々の小説や映画などで紹介され、現代の我々でもおおよそのことは知ることができる。

第2次世界大戦中の、硫黄島の玉砕時やガダルカナルの陥落など、また国内に於いては、ひめゆりの塔の映画にも紹介された

沖縄戦の壮絶な状況、広島や長崎の原爆投下直後の地獄絵図など、数え上げればきりがないが、こういう壮絶な歴史の現場に

遭遇せざるを得なかった人々の人生はこの世の地獄の真っただ中を生きたわけである。

しかし、こうした第2次世界大戦以後の、民主化された表面的には平和の真っただ中にある日本には、過去の壮絶な悲惨な人生は

もう完全になくなっているのであろうか・・・・・・?

私は、そうではないと実感している。

士農工商などの身分制度はなくなったが、正規雇用者と非正規雇用の人たちの生活は最近の政治学者や知名人が指摘しているように

格差社会を歴然と表面化している。

また、正規雇用者の人たちも職場における競争も激しく、過重な労働を余儀なくされ、その勤めに耐え切れず過労死したりうつ病になり

自殺に追い込まれる者もでてきた。

こういう意味では時代が変わっても、その内容は異なるが一人一人の人間の心の痛みは続いている。

また社会全体でみても、昭和30年~40年代の中ごろまでの日本は、まだ終身雇用制度がベースにあったため、およその自分の人生の設計は

できたが、現代では長期の人生設計はよほどのエリートでないと描けない・・・。

こういう意味では、将来がまったく見えない世の中にいる・・・と言わざるを得ないのかもしれない・・・。

では、こうした不安の時代にいる我々は具体的にどのような人生設計と将来像を描いて生きて行けばいいのか・・・次回の投稿では

この点を書いていこうと思う・・・。


 

(無題)

 投稿者:雪だるま  投稿日:2018年 3月 3日(土)11時29分24秒
  その通りだと思います
1日一生の思いで生きることが大切だと思います
 

人生の素晴らしい過ごし方・・・!!

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 3月 3日(土)11時07分21秒
  誰もが自分の人生を有意義に過ごしたいと思ってはいるが、いざ日々の暮らしに役立つ具体的な方法となると

なかなか一言では言い切れいない面もあり、特に文章にするのは難しい・・・。

しかし、具体的でなくてもぼんやりと、こういう思いでいたら多分有意義な日々が送れるかもしれないと思うことはある・・・。

それは、この肉体は永遠には生きられないことなのだが、自分の心の中だけは希望と夢に満ちた思いを一杯に秘めて、

自分の魂(思いは)永遠に希望と夢を一杯抱いて生き続けられる・・・と思うことである。

これは、科学的には自分の肉体の存在は永遠ではないことは事実なので、そういう意味では不可能なことなのであるが、しかし

心は(思いを自由にめぐらすことは)無制限で思うことに制約は無い。

とすれば、最高に明るく希望を輝かせて自分の魂を歓びと希望に満たして生きることは可能である。

そういう意味で「心に太陽を・・・常に希望を・・・魂一杯輝かせて一瞬・一瞬を生き抜きたい・・・!」

さて、しかし現実の自分の命は有限であり、そういう意味では永遠のこの世での生活は不可能なのではあるが

しかし、永遠の命があるつもりで生きることは可能である。そういう意味では、「一日一生」の思いで、今日限りの命であっても

悔いのないように誠一杯明るく明るく、希望を持って死の瞬間まで生きていようと思う・・・!!

聖書やキリストがのこされた言葉の中には、永遠の命や肉体の死ののちにも素晴らしい永遠の世界(天国)がある希望を、自らの

死の苦しみの中から叫ばれていることを思い出し、永遠の命、永遠の魂の輝き(不死)を信じて信じて疑わないでおこうと思う・・・。

 

訪問件数 11万件!達成!!

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 2月17日(土)11時32分35秒
  ありがとうございます!!

訪問件数 11万件を達成しました。!!

今後共、よろしくお願い致します!!
 

(無題)

 投稿者:雪だるま  投稿日:2018年 2月16日(金)19時58分50秒
  私は生まれ変わったらなんて、やわな事は言わない
今を懸命に生きているからだ
辛いことを何度も経験した
自殺未遂も何度もした
でも、生きている
神様に生かされている
これからも感謝して生きていきたい
生まれ変わったらなんて夢みたいなことは考えない
 
    (管理人 Angel77) 力強いメッセージをありがとうございます!!

そうですね、私たちは私達を創造してくださった方(創造主)に全てをゆだねて

おまかせして生きていきたいですね・・・。
 

散文詩(思いつくままに・・・)

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 2月16日(金)16時39分37秒
編集済
 

もしも、もう一度生まれ変わることができたなら・・・・

あなたは、何がしたいですか・・・誰に逢いたいですか・・・

もしも、もう一度生まれかわることができたなら・・・

私は、優しかったあの人に会いたい・・・あの人の笑顔がみたい・・・

もしも、もう一度生まれかわることができたなら・・・

私を支え育ててくれたあの人に会いたい・・・あの人に感謝の言葉を心を込めて言いたい・・・

もしも、もう一度生まれかわることができたなら・・・・

無駄に過ごした時間を悔いて、生きていられる一瞬・一瞬を心の底から感謝して、満身の笑みで母や友や隣人に

つくし、支え生きる勇気を伝えたい・・・・

もしも、もう一度生まれかわることができたなら・・・

暖かい太陽の陽射しを一身に浴びて、緑のさわやかな森の中で生かされている歓びを全身で感じながら

感謝と感動の素晴らしいこの世での一瞬・一瞬を大切に大切に過ごしたい・・・・・。



 

幸せな日々を生きる為のヒント

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 1月 6日(土)08時51分37秒
編集済
  これだけ世の中の移り変わりのスビードが早く、また複雑な世界情勢の

中では、どのような思いで日々を送るべきか・・・・難しい選択になる。

世の中の移り変わりや、情勢分析は怠ることはできないが、かといって

長期的な予測や近未来の断定的な判断はいろいろな問題が交錯している

現代社会では断定はむつかしい。

と、すれば具体的に我々はどのような心構えで日々を送ればいいの

だろうか・・・・。結論ではないが下記のような心情と生活態度で

いれば、大きな失望や挫折がおこるリスクは下げることができるような

気もするので、自分自身に言い聞かせるつもりで列挙してみた・・・。

① まず、あまり長期的な予測をたてて動かないことだと思う。
  このことは、複雑な世界情勢の中でどのような突発的なことが
  起こるか予測が立たない現状であるだけに長期予測は意味がない
  ようにも思えるからである。
② 以前に時間の概念について述べたことがあるが、私は現実にある
  のは、この現在の一瞬・一瞬しかないと思えるので、この一瞬・
  一緒の今、この時間を大切に精一杯生きてみることだと思う。
③ 上述の今現在の一瞬一瞬を精一杯生きるためには、悲しみや
  不安をすべて自分の心から追い払って底抜けに明るく・明るく
  楽しい思いを自分の脳裏に埋め込んで思考し行動することだと
  思う。
④ 具体的には今、自分が一番楽しくなれることが、あればそのことに
  全力投球し、楽しい幸せな思いをそのことに集中させることだと
  思う。(音楽家なら作曲や演奏に、画家なら絵を書くことに、作家
  なら、心温まる著作活動に没頭することだと思う)
⑤ 日々の日常生活においては、笑顔を絶やさず、どんなことにも感謝
  して、自分と接点のある近隣の人や家族・職場の同僚とも仲良く
  いい面を認め合って明るく明るく接していくことだと思う。
⑥ 自然の中で、季節の折々の花を鑑賞して、自然を散策したり、
  緑の木々の公園や山々を歩き澄んだ空気をいっぱいにすい、
  小鳥の鳴き声や太陽の暖かさを身に感じながらこうして生かされて
  いることに感謝して幸せな気持ちでこの一瞬一瞬を過ごせたら
  ただ、それで十分だと思う。
⑦ こうした心境になるためには、以前に書かせていただいた
  私自身、まだまだ未熟な信仰生活だが・・・・
  若いころ読んだ聖書の一節・・・・
  「いつも喜んでいなさい」
  「絶えず祈りなさい」
  「どんなことにも感謝しなさい」
 (テサロニケ5章16~18節)
  以上の聖句をそのまま何の抵抗もなく受け入れ、日々の生活に
  活かすことだと思う。

 この御言葉は、上から目線で説教じみて命令している口調の
 御言葉のようにも思えるが、最近はそうでなくこの後に続く聖句

 「これこそ(上記の3つの御言葉こそ)、キリスト・イエスにおいて
 神があなたがたに望んでおられることです・・・・」と書かれている
 意味に気づいたのだ。
 これは、命令ではなくこの世の苦しみや悲しみにもまれて生きている
 私たち人間を本当に哀れみ愛してくださっている創造主(我々人間を
 創ってくださった神)が具体的な幸せな生き方として示し導いてくださって
 いる御言葉なのだと気づいた。
 悲しく苦しいときは、私を支えて生かしてくださっている太陽や家族や
 友人や隣人に感謝し、それを喜びと感じていよう・・・・
 そして、苦しく将来が不安な時には、とにかく祈ってみよう・・・・
 そして、いま現在、なんとか生かされていることに喜び、感謝してみよう・・・と。
 苦しい時には、下記の讃美歌を思い出し口ずさんでみようと・・・・・・。

 (讃美歌 298番)

 安かれ、わが心よ
 主エスは共にいます
 痛みも苦しみをも
 おおしく 忍び耐えよ
 主イエスの 共にいませば
 耐ええぬ 悩みはなし

 安かれわが心よ
 なみかぜ猛(たける)ときも
 父なるあまつ御神の
 みむねに委ねまつれ
 み手もて導きたもう
 望みの岸は近し

 安かれわが心よ
 月日のうつろいなき
 御国はやがて来たらん
 憂いは永久(とわ)に消えて
 輝く み顔仰ぐ
 命の幸をぞ受けん

http://

 

新年おめでとうございます・・・!!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年12月28日(木)17時18分28秒
編集済
  新しい年が幸せなすばらしい、年になりますように・・・!

http://

 

真の宗教者(信仰心をもった人)は、いかにあるべきか・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年11月30日(木)17時38分28秒
  私は今日まで、多くの宗教者(信仰を持っている人)と接してきた。

宗教宗派の違う信仰であっても、本当に偉いなぁ~と思い尊敬した

人物には、共通点が多いのに気付いた。

それは、宗教宗派を超えた自分に何等かの縁で接している人々への

優しさ・・・であった。

宮澤賢治のあの有名な詩「雨にも負けず・・・」は、一人の名もなき

クリスチャンの生きざまを観て作られた・・・と言われているが・・・

私が感動しているのは、彼(宮澤賢治)が熱心な仏教徒(法華経の信奉者)で

あったことである。

彼はあえて、おそらく彼自身も交流があったであろう著名な高僧や僧侶の

ことは書かず、彼が親しくしていた名もなき一信徒(クリスチャン)の生きざま

を克明に書き綴ったことである。

下記は、宮 沢 賢 治 詩 碑に記された詩をあえて書き写すが、これはすべての

宗教者(信仰を持っている人)の模範となるものであり、私自身もかくあるべきだと・・

堅く信じるからである・・・・・。

雨にもまけず
風にもまけず
雪にも夏の暑さにもまけぬ
丈夫なからだをもち
欲はなく
決して怒らず
いつもしずかにわらっている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜をたべ
あらゆることを
じぶんをかんじょうに入れずに
よくみききしわかり
そしてわすれず
野原の松の林の蔭の
小さな萓ぶきの小屋にいて
東に病気のこどもあれば
行って看病してやり
西につかれた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北にけんかやそしょうがあれば
つまらないからやめろといい
ひでりのときはなみだをながし
さむさのなつはオロオロあるき
みんなにデクノボーとよばれ
ほめられもせず
くにもされず
そういうものに
わたしはなりたい

(以上は、下記のURLの宮澤賢治 詩碑 からの書き写しで
 本文を見たい人は最下段のURLに行ってそのHPから見て下さい)

以上、私が主張したいことは、自分が真の宗教者だと自負するのであれば

まず、自分自身が所属し信奉している教派の教義や戒律をあたかも人生を

生きる掟のように他人に押し付けないことである・・・・・。

イエス・キリストが罪を犯した女性(当時は、姦淫すれば石で打って殺す

刑罰を科していい・・・と言うユダヤ教の戒律があった・・・・)その女性

を救ったり、行き倒れになっている異邦人(ユダヤ教徒以外の民)をあえて

助け宿舎に連れて行きお金を出してたすけたサマリヤ人(ユダヤ教徒以外の民

⇒異邦人)を褒め称えたように、戒律や教理の掟に縛られることを最優先するので

なく、何よりもまず、自分と何等かの縁で交流・接触のあった隣人に対しては

宗教や宗派の違いをこえて、何よりも深い愛をもって接しなければならない・・・と

思うのである。

http://www.ihatov.cc/monument/034.html

 

思いつくままに・・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年11月23日(木)00時15分46秒
  今日一日が、健康で心身ともに爽快であり、心が満たされ喜びが全身に

あふれているような日であれば100%感謝していいのでないかと思う。

何故なら、過ぎ去った過去のことを思い出し暗い気持ちになってみても

もう、その過去を今生きている私が変えることもどうすることも出来ないし

また、まだ確実にやって来るのかどうかもわからない将来のことをあれこれ

悩んでみても、それも無意味な空しいこと・・・かも知れないと思う。

こうした考え方は、刹那主義と批判されるかも知れないが、人生は今、現在の

一瞬・一瞬だけが本当の意味で存在し、人間はある意味でこの現在の瞬間・瞬間

を生きているのが本当のところはっきりと認識できる事実・・・・とすれば

この今の一瞬・一瞬を精一杯大切に全身全霊で恵みを受けている面だけを感じ

感謝して満面の笑みで過ごすべきだと思えるのである。

そうした、幸せの一瞬・一瞬の連続が振り返ってみれば本当に納得のいく、悔いの

ない人生の過ごし方・・・かも知れない・・・・!!
 

あの世のこと・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年11月20日(月)10時30分37秒
編集済
  あの世とは、世俗的には人間が死んでから行く世界・・・とも言われている。また、学問上は科学などと区分けして哲学の分野では

形而上学(感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野)

とも言われこれらのことを論ずるのはキリスト教系の世界では、神の領域とされタブー視されている。

しかし、私はあえて論じてみたい。

この衝動に駆られるのは、私がまだ学問も知らずまた、宗教心もなかった幼少のころのあの「ぼんやり」としたあの世の感覚を思い出すからからである。

私がこの世に生を受け気づいてみれば、生きているという意識があり、さらに痛い・心地よい・などの感覚ははっきりとあり、なぜここ(この世)に今

私がいるのか・・・・の本質的な疑問も感じないまま、私は気が付いてみたら「この世」に存在していたのであった。

こういう感覚は私が世間一般で言う「臨終」を迎え「死」の世界に向かう折も同じような感覚になっているのではないかと・・・ふと・・思うのである。

そうしてみれば、私はまたいつの瞬間か、「あの世」と言われる世界にいて、丁度私が生まれてきた時の感覚と同じ感覚で次の世界にいるのでは・・ないかと・・

ふと、そう思うのである。

それが、いわゆる地獄の場なのか天国の場なのか、あるいはごく普通の俗世の場なのかそれは全く予想もつかないが、それはすべて私たちを創造した神が

判断し導かれることであるので、私はただ被造物として、すべてをお任せしていればいいのではないか・・・・とそう思うのである。

これらのことを、仏教では「輪廻転生」といい、カトリック神学では「煉獄」といいプロテスタントでは天国・地獄と言うのであろう。

この意味でまさに地獄としか言いようのない第2次世界大戦下の激戦地やアウシュビッツ強制収容所や広島・長崎の原爆投下現場などがこの地獄を示して

いる気がしてならない。


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私なりの世界観・終末観・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年11月13日(月)22時33分10秒
編集済
  私は今まで生きてきて、色々な人に接し本当に多種多様な人々と 関わってきた。

この経験をもとに、人々を大雑把にわけると以下のようなことが ぼんやりと判ってきた。

それは、一般の社会で判断の基本的基準ともなっている、個々の人間が もつIQ(知能指数)による分類である。

そして今一つの分別の材料はその人、その人の学歴や専門分野での レベル分けである。

ただこれら2つの分別は大きな危険と落とし穴のあるのに最近特に 気づくようになってきた。

それは、IQも学歴も専門知識もある仕事をこなす能力の判断材料に

なっても決して人間的な魅力や包容力や他の人々への助け合いの精神の

高低の主要因とはなっていない・・・と言うことである。

もう少し具体的に話すと、高学歴で社会的に立派な仕事につき頭の回転も

早いと思われる人がカッとなって金属バットで相手の人をたたき殺したり

医者の知識を利用して殺人を犯す人間を過去三面記事で何度も見てきたから である。

学歴も低く社会的に高度な高給の仕事にもついていない人でも、おぼれようと

している少年を自ら海に飛び込み自分の命を犠牲にしても、その幼い人命を助けた

人も多く見かけるからである。

イエス・キリストが自分の弟子を集めるとき,まさに世間的にインテリと思われている

人を弟子にはせず、漁師や取税人などごく普通の人物を彼らの霊的レベルの高さのみを

基準にして選んでいることを勘案しても、人間の本当に選ばれる基準は別のところに

あるような気がしてならない。

以上のことから勘案して、ホーキング博士の「終末論」も人間が外に向かって考え得る

高度な終末の回避論を展開しているだけにすぎないように思えてならない。

それは、万一、今後100年以内に人類が移住できる惑星に到達することが可能に

なっても、それは外に向かって展開される世界のことだけで、その惑星においても

地球と同じ環境にあるとすれば、人間の80歳程度の寿命と肉体の「死」は必ず

訪れるものであるし、一人一人の人間の意識下での「死の恐怖」と絶望感の除去には

何の貢献もしていないことは明白で、この意味で本当の意味での人間の「生」の本質と

意識下での死の恐怖感の除去にはなっていないことに気付くのである・・・・。
 

続 「ホーキング博士」の終末論

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年11月12日(日)21時51分35秒
編集済
  近年、中東やアフガニスタンでも戦闘が絶えず、

個人レベルでも地域間でも、些細ないざこざから流血騒動、そして人種や宗教が絡まり、紛争や

テロが絶えない有様だ。さらに、昨年から北朝鮮の地下核実験に端を発する、米国と北朝鮮の

緊迫化した状態は、一触即発の危機をはらんで、第3次世界大戦(地球規模の核戦争)へと進み

つつある。こうした状況に加えて、人類が自ら首を絞めるような行為を重ねた結果、「地球温暖

化」という脅威が出現した。トランプ大統領は「地球温暖化はフェイクニュースだ。そんなもの

は存在しない」と啖呵を切ったが、テキサス州を襲った前代未聞の大洪水やフロリダ州やカリブ

海を飲み込むようなハリケーンは紛れもなく、温暖化のなせる業であった。

以上のような地球内部で起きている切迫感に加え、見逃してはならないことは、小惑星や流星の

地球に衝突する危険性と確率が近年異常に増加したことにもふれており、国家間の紛争による

戦争の拡大や温暖化の危機を免れたとしても、小惑星や流星の地球衝突の危険性は増しており

このことだけで地球は一瞬のもとに吹っ飛び消え去るとも警告している。

いずれにしても、これらのことを勘案すると少なくとも今後100年以内に地球が滅びる可能性

が高いと指摘し、人類はこれらの危難から逃れるためにも他の惑星に移住することを真剣に

考え無ければならない時期に来ている・・・と結論している。
 

著名な科学者「ホーキング博士」の終末論!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年11月12日(日)00時06分51秒
  「知の巨人」と異名を取るホーキング博士が、2017年6月15日のBBC放送のドキュメンタリー番組『新たな地球を求めての旅立ち』

で紹介され、世界各国で大きな反響を呼んでいる。

同博士は「人類の未来はあと1000年で終焉を迎える」との見通しを語っていた。

ところが、この予測を全面的に見直した結果、「人類に残された時間は、せいぜい100年しかない」と軌道修正。

なんと、900年も人類の未来を大幅にカットしてしまったのだ。

聖書に予言されている地球と人類の終焉はそんなに早く訪れるのだろうか・・・・。

同博士は、このため、人類は早急に他の惑星に移住しなければならないとも警告している。

火星への移住もNASAでは計画されているが、本格的に人類が永住できる惑星に改造するには

何百年もの歳月を要するとされている。

こうしたわけで、人類は早急に太陽系以外の宇宙で地球とよく似た環境の惑星を探し出さねば

ならないとされているが、100年内の移住は難しいと思われるのが定説である。 
 

幸福(しあわせ)な人生とは・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年10月30日(月)16時27分17秒
編集済
  幸福(しあわせ)な人生とは・・・・!

真に幸福(しあわせ)な人生とは、どんな人生だろうか?

このホームページの表題でもある「幸福の楽園」とは

どのような世界なのだろうか・・・・・・?

私は、この問題を考えるとき、どんな人でも今まで受けてきた

知識やその国々の風習・宗教に影響されて考える場合が多いのでは

ないかと・・・・ふと思うのである。

しかし、一人一人の幸福(しあわせ)感はそれぞれ異なると思うし

本当の意味の定義できる幸福(しあわせ)感などはないかも知れない。

ただ、もし今まで自分を潜在的に縛ってきた知識や道徳観あるいは

歴史感など全てをとっぱらって自分自身にとっての本当の意味での

幸福(しあわせ)を追求してみると、意外なことに気付くのである。

それは、ある意味で思考をとっぱらった幸福(しあわせ)感である。

その幸せ感は文章で定義したり、論理的に説明しにくい幸せ感である。

私は、釈迦が6年の苦行の末たどりつき発見した・・・とされる悟り・・

の境地がその幸せ感かも知れない・・・と思えてならない。

これかから述べるその境地は、仏教学者に言わせれば、それは間違った

解釈だと・・・・指摘されるかも知れない。

しかし私はあえて書き留めたい・・・・・。

釈迦が菩提樹の下で悟った悟りの瞬間・・・・・

「嗚呼・・・奇なるかな 奇なるかな・・・一切の衆生は燃えている・・・」

・・と・・。

これを私なりに解釈すると・・・・・「今まで難行苦行を重ね修業に励んで

来たが・・・」

私がついに観た世界はただ、創造主の豊かな燃えるような力に支えられて

生きとし生けるすべての者は、生きようとする意志に支えられて豊かに

燃えるように生きている・・・・!」

この実相の世界こそが、創造主の愛の意志であり大いなる力なのだ・・!

そこには、難行苦行も必要としない世界であるし、釈迦が断食をやめて

少女が差し出した温かいミルクを味わいながら飲み干した、その時の

釈迦の心境こそが幸福の瞬間ではなかったか・・・・と思うのである。

私は人生において、既定の道徳や宗教の戒律に縛られて生きていることが

果たして本当の意味の自分にとっての幸せを得ているのであろうか・・・?

と疑問に思うことがしばしばあった。これは、ある意味で危険な思想で

あり、釈迦が少女からミルクをもらって飲んだ行為を当時の弟子たちは

「釈尊は修業をすて悟りに至る道を諦められた・・・!」と解釈した

ことにも通うじるのであるが、私の思う幸せ感は、このあとで釈迦が

説いた「八正道」に通じるものであり、決して本能にまかせた気ままな

生き方を推奨しているのではない。

むしろ、修業も日々の生活も両極端に走らないようにつとめ、難行苦行の

自分を苦しめる日々でもなく、また本能のままの快楽と悦楽、強欲に振り

回される日々でもない・・・正しい思い・中道の行い・それでいて自由な

日々に専念することこそが、真の意味での「幸せな人生」を送る秘訣では

ないかと思えるのである・・・。
 

聖書で示されている深い真理・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年10月21日(土)11時53分11秒
編集済
  人間の祖先であったアダムとイブがエデンの園を追放された原因は

イブが蛇の誘惑にのって、神から堅く禁じられていた、禁断の木の実

を食べたことから始まった。この禁断の木の実は「知恵の木の実」とも言われ

この木の実を食べると人間が神のように賢く知恵者となる・・・とも蛇から

教えられたのである。

この掟を破った人間はエデンの園から追放され、地上に降ろされた。このことにより

人間は、「死ななければならない運命」を知り、また死ぬまでは地上で苦しい

生きていくための労苦を背負わされた。こうして、人間は自ら滅びていく

「死」と言う十字架を背負い地上を這うようにして額に汗して生きていくための

労働を課せられた。

しかし、一方で他の動物にはない、知恵が与えられたため、人間は他の動物を

支配できる地位を得、さらにこの地球さえも支配できる力を得た。

これを、具体的に説明すると「人間は知恵の木の実を食べたおかげで、地球を

一瞬に破壊できる核爆弾を造る知恵を得たのである。また一方で他の動物には

絶対にできない、クローン動物、クローン人間を造り得る知恵を得たのである」

これらの事実は、人間が限りなく神の存在に近い知恵と力を「禁断の知恵の

木の実」を食べたことにより得たこととなる。

しかし、神はエデンの園で何故、神自身に似せて造った「人間」にこの神と

等しい知恵を得る「木の実」だけは絶対に食べてはいけないと…禁じたので

あろうか。

私は、聖書のこの箇所が最近まで本当のところよくわからなかった。

しかし、最近になってやっと、神の深い意志が読めるようになった。

それは、核爆弾によって、二度も被爆し言語に絶する悲惨な地獄絵を

体験した我ら広島と長崎の被爆日本人の歴史的事実を観たからである。

また、現在迫りつつある第三次世界大戦の核戦争の現実を知る時、

神の如くになり得る「絶大な知恵の木の実」が、このような悲惨な現実を

造りだしていることを知ったからであった。

また、東野圭吾氏がその著「分身」でも警鐘している「クローン人間」の

悲劇は、今後人間が自らの手で人造人間(クローン)を造りだして

行こうとしている人間の限りない欲望に対して警鐘が鳴らされている

のである。

チェリノブイリの放射能汚染や東日本大震災に起きた原子力発電所から

の放射能汚染もいまだ解決できないまま、その被害が長引いている事実

をみても、人間が神に近づく知恵を手にしたことによる原罪は底知れぬ

不安と恐ろしさを秘めていると言わざるを得ないような気がするので

ある。
 

切り番ゲット

 投稿者:雪だるま  投稿日:2017年10月12日(木)21時21分59秒
  十万九千五百の切り番をゲットしました
ますます、皆さんが掲示板をご覧になって、書き込みされるように
祈ってます
雪だるまでした
 
    (管理人 Angel77) 10万9千5百件目のキリ番ゲットおめでとうございます。

いつもお励ましありがとうございます。今後も皆様愛される

ホームページにしていきますのでよろしくお願い致します。
 

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