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幸せな日々を生きる為のヒント

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 1月 6日(土)08時51分37秒
編集済
  これだけ世の中の移り変わりのスビードが早く、また複雑な世界情勢の

中では、どのような思いで日々を送るべきか・・・・難しい選択になる。

世の中の移り変わりや、情勢分析は怠ることはできないが、かといって

長期的な予測や近未来の断定的な判断はいろいろな問題が交錯している

現代社会では断定はむつかしい。

と、すれば具体的に我々はどのような心構えで日々を送ればいいの

だろうか・・・・。結論ではないが下記のような心情と生活態度で

いれば、大きな失望や挫折がおこるリスクは下げることができるような

気もするので、自分自身に言い聞かせるつもりで列挙してみた・・・。

① まず、あまり長期的な予測をたてて動かないことだと思う。
  このことは、複雑な世界情勢の中でどのような突発的なことが
  起こるか予測が立たない現状であるだけに長期予測は意味がない
  ようにも思えるからである。
② 以前に時間の概念について述べたことがあるが、私は現実にある
  のは、この現在の一瞬・一瞬しかないと思えるので、この一瞬・
  一緒の今、この時間を大切に精一杯生きてみることだと思う。
③ 上述の今現在の一瞬一瞬を精一杯生きるためには、悲しみや
  不安をすべて自分の心から追い払って底抜けに明るく・明るく
  楽しい思いを自分の脳裏に埋め込んで思考し行動することだと
  思う。
④ 具体的には今、自分が一番楽しくなれることが、あればそのことに
  全力投球し、楽しい幸せな思いをそのことに集中させることだと
  思う。(音楽家なら作曲や演奏に、画家なら絵を書くことに、作家
  なら、心温まる著作活動に没頭することだと思う)
⑤ 日々の日常生活においては、笑顔を絶やさず、どんなことにも感謝
  して、自分と接点のある近隣の人や家族・職場の同僚とも仲良く
  いい面を認め合って明るく明るく接していくことだと思う。
⑥ 自然の中で、季節の折々の花を鑑賞して、自然を散策したり、
  緑の木々の公園や山々を歩き澄んだ空気をいっぱいにすい、
  小鳥の鳴き声や太陽の暖かさを身に感じながらこうして生かされて
  いることに感謝して幸せな気持ちでこの一瞬一瞬を過ごせたら
  ただ、それで十分だと思う。
⑦ こうした心境になるためには、以前に書かせていただいた
  私自身、まだまだ未熟な信仰生活だが・・・・
  若いころ読んだ聖書の一節・・・・
  「いつも喜んでいなさい」
  「絶えず祈りなさい」
  「どんなことにも感謝しなさい」
 (テサロニケ5章16~18節)
  以上の聖句をそのまま何の抵抗もなく受け入れ、日々の生活に
  活かすことだと思う。

 この御言葉は、上から目線で説教じみて命令している口調の
 御言葉のようにも思えるが、最近はそうでなくこの後に続く聖句

 「これこそ(上記の3つの御言葉こそ)、キリスト・イエスにおいて
 神があなたがたに望んでおられることです・・・・」と書かれている
 意味に気づいたのだ。
 これは、命令ではなくこの世の苦しみや悲しみにもまれて生きている
 私たち人間を本当に哀れみ愛してくださっている創造主(我々人間を
 創ってくださった神)が具体的な幸せな生き方として示し導いてくださって
 いる御言葉なのだと気づいた。
 悲しく苦しいときは、私を支えて生かしてくださっている太陽や家族や
 友人や隣人に感謝し、それを喜びと感じていよう・・・・
 そして、苦しく将来が不安な時には、とにかく祈ってみよう・・・・
 そして、いま現在、なんとか生かされていることに喜び、感謝してみよう・・・と。
 苦しい時には、下記の讃美歌を思い出し口ずさんでみようと・・・・・・。

 (讃美歌 298番)

 安かれ、わが心よ
 主エスは共にいます
 痛みも苦しみをも
 おおしく 忍び耐えよ
 主イエスの 共にいませば
 耐ええぬ 悩みはなし

 安かれわが心よ
 なみかぜ猛(たける)ときも
 父なるあまつ御神の
 みむねに委ねまつれ
 み手もて導きたもう
 望みの岸は近し

 安かれわが心よ
 月日のうつろいなき
 御国はやがて来たらん
 憂いは永久(とわ)に消えて
 輝く み顔仰ぐ
 命の幸をぞ受けん

http://

 

新年おめでとうございます・・・!!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年12月28日(木)17時18分28秒
編集済
  新しい年が幸せなすばらしい、年になりますように・・・!

http://

 

真の宗教者(信仰心をもった人)は、いかにあるべきか・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年11月30日(木)17時38分28秒
  私は今日まで、多くの宗教者(信仰を持っている人)と接してきた。

宗教宗派の違う信仰であっても、本当に偉いなぁ~と思い尊敬した

人物には、共通点が多いのに気付いた。

それは、宗教宗派を超えた自分に何等かの縁で接している人々への

優しさ・・・であった。

宮澤賢治のあの有名な詩「雨にも負けず・・・」は、一人の名もなき

クリスチャンの生きざまを観て作られた・・・と言われているが・・・

私が感動しているのは、彼(宮澤賢治)が熱心な仏教徒(法華経の信奉者)で

あったことである。

彼はあえて、おそらく彼自身も交流があったであろう著名な高僧や僧侶の

ことは書かず、彼が親しくしていた名もなき一信徒(クリスチャン)の生きざま

を克明に書き綴ったことである。

下記は、宮 沢 賢 治 詩 碑に記された詩をあえて書き写すが、これはすべての

宗教者(信仰を持っている人)の模範となるものであり、私自身もかくあるべきだと・・

堅く信じるからである・・・・・。

雨にもまけず
風にもまけず
雪にも夏の暑さにもまけぬ
丈夫なからだをもち
欲はなく
決して怒らず
いつもしずかにわらっている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜をたべ
あらゆることを
じぶんをかんじょうに入れずに
よくみききしわかり
そしてわすれず
野原の松の林の蔭の
小さな萓ぶきの小屋にいて
東に病気のこどもあれば
行って看病してやり
西につかれた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北にけんかやそしょうがあれば
つまらないからやめろといい
ひでりのときはなみだをながし
さむさのなつはオロオロあるき
みんなにデクノボーとよばれ
ほめられもせず
くにもされず
そういうものに
わたしはなりたい

(以上は、下記のURLの宮澤賢治 詩碑 からの書き写しで
 本文を見たい人は最下段のURLに行ってそのHPから見て下さい)

以上、私が主張したいことは、自分が真の宗教者だと自負するのであれば

まず、自分自身が所属し信奉している教派の教義や戒律をあたかも人生を

生きる掟のように他人に押し付けないことである・・・・・。

イエス・キリストが罪を犯した女性(当時は、姦淫すれば石で打って殺す

刑罰を科していい・・・と言うユダヤ教の戒律があった・・・・)その女性

を救ったり、行き倒れになっている異邦人(ユダヤ教徒以外の民)をあえて

助け宿舎に連れて行きお金を出してたすけたサマリヤ人(ユダヤ教徒以外の民

⇒異邦人)を褒め称えたように、戒律や教理の掟に縛られることを最優先するので

なく、何よりもまず、自分と何等かの縁で交流・接触のあった隣人に対しては

宗教や宗派の違いをこえて、何よりも深い愛をもって接しなければならない・・・と

思うのである。

http://www.ihatov.cc/monument/034.html

 

思いつくままに・・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年11月23日(木)00時15分46秒
  今日一日が、健康で心身ともに爽快であり、心が満たされ喜びが全身に

あふれているような日であれば100%感謝していいのでないかと思う。

何故なら、過ぎ去った過去のことを思い出し暗い気持ちになってみても

もう、その過去を今生きている私が変えることもどうすることも出来ないし

また、まだ確実にやって来るのかどうかもわからない将来のことをあれこれ

悩んでみても、それも無意味な空しいこと・・・かも知れないと思う。

こうした考え方は、刹那主義と批判されるかも知れないが、人生は今、現在の

一瞬・一瞬だけが本当の意味で存在し、人間はある意味でこの現在の瞬間・瞬間

を生きているのが本当のところはっきりと認識できる事実・・・・とすれば

この今の一瞬・一瞬を精一杯大切に全身全霊で恵みを受けている面だけを感じ

感謝して満面の笑みで過ごすべきだと思えるのである。

そうした、幸せの一瞬・一瞬の連続が振り返ってみれば本当に納得のいく、悔いの

ない人生の過ごし方・・・かも知れない・・・・!!
 

あの世のこと・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年11月20日(月)10時30分37秒
編集済
  あの世とは、世俗的には人間が死んでから行く世界・・・とも言われている。また、学問上は科学などと区分けして哲学の分野では

形而上学(感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野)

とも言われこれらのことを論ずるのはキリスト教系の世界では、神の領域とされタブー視されている。

しかし、私はあえて論じてみたい。

この衝動に駆られるのは、私がまだ学問も知らずまた、宗教心もなかった幼少のころのあの「ぼんやり」としたあの世の感覚を思い出すからからである。

私がこの世に生を受け気づいてみれば、生きているという意識があり、さらに痛い・心地よい・などの感覚ははっきりとあり、なぜここ(この世)に今

私がいるのか・・・・の本質的な疑問も感じないまま、私は気が付いてみたら「この世」に存在していたのであった。

こういう感覚は私が世間一般で言う「臨終」を迎え「死」の世界に向かう折も同じような感覚になっているのではないかと・・・ふと・・思うのである。

そうしてみれば、私はまたいつの瞬間か、「あの世」と言われる世界にいて、丁度私が生まれてきた時の感覚と同じ感覚で次の世界にいるのでは・・ないかと・・

ふと、そう思うのである。

それが、いわゆる地獄の場なのか天国の場なのか、あるいはごく普通の俗世の場なのかそれは全く予想もつかないが、それはすべて私たちを創造した神が

判断し導かれることであるので、私はただ被造物として、すべてをお任せしていればいいのではないか・・・・とそう思うのである。

これらのことを、仏教では「輪廻転生」といい、カトリック神学では「煉獄」といいプロテスタントでは天国・地獄と言うのであろう。

この意味でまさに地獄としか言いようのない第2次世界大戦下の激戦地やアウシュビッツ強制収容所や広島・長崎の原爆投下現場などがこの地獄を示して

いる気がしてならない。


http://

 

私なりの世界観・終末観・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年11月13日(月)22時33分10秒
編集済
  私は今まで生きてきて、色々な人に接し本当に多種多様な人々と 関わってきた。

この経験をもとに、人々を大雑把にわけると以下のようなことが ぼんやりと判ってきた。

それは、一般の社会で判断の基本的基準ともなっている、個々の人間が もつIQ(知能指数)による分類である。

そして今一つの分別の材料はその人、その人の学歴や専門分野での レベル分けである。

ただこれら2つの分別は大きな危険と落とし穴のあるのに最近特に 気づくようになってきた。

それは、IQも学歴も専門知識もある仕事をこなす能力の判断材料に

なっても決して人間的な魅力や包容力や他の人々への助け合いの精神の

高低の主要因とはなっていない・・・と言うことである。

もう少し具体的に話すと、高学歴で社会的に立派な仕事につき頭の回転も

早いと思われる人がカッとなって金属バットで相手の人をたたき殺したり

医者の知識を利用して殺人を犯す人間を過去三面記事で何度も見てきたから である。

学歴も低く社会的に高度な高給の仕事にもついていない人でも、おぼれようと

している少年を自ら海に飛び込み自分の命を犠牲にしても、その幼い人命を助けた

人も多く見かけるからである。

イエス・キリストが自分の弟子を集めるとき,まさに世間的にインテリと思われている

人を弟子にはせず、漁師や取税人などごく普通の人物を彼らの霊的レベルの高さのみを

基準にして選んでいることを勘案しても、人間の本当に選ばれる基準は別のところに

あるような気がしてならない。

以上のことから勘案して、ホーキング博士の「終末論」も人間が外に向かって考え得る

高度な終末の回避論を展開しているだけにすぎないように思えてならない。

それは、万一、今後100年以内に人類が移住できる惑星に到達することが可能に

なっても、それは外に向かって展開される世界のことだけで、その惑星においても

地球と同じ環境にあるとすれば、人間の80歳程度の寿命と肉体の「死」は必ず

訪れるものであるし、一人一人の人間の意識下での「死の恐怖」と絶望感の除去には

何の貢献もしていないことは明白で、この意味で本当の意味での人間の「生」の本質と

意識下での死の恐怖感の除去にはなっていないことに気付くのである・・・・。
 

続 「ホーキング博士」の終末論

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年11月12日(日)21時51分35秒
編集済
  近年、中東やアフガニスタンでも戦闘が絶えず、

個人レベルでも地域間でも、些細ないざこざから流血騒動、そして人種や宗教が絡まり、紛争や

テロが絶えない有様だ。さらに、昨年から北朝鮮の地下核実験に端を発する、米国と北朝鮮の

緊迫化した状態は、一触即発の危機をはらんで、第3次世界大戦(地球規模の核戦争)へと進み

つつある。こうした状況に加えて、人類が自ら首を絞めるような行為を重ねた結果、「地球温暖

化」という脅威が出現した。トランプ大統領は「地球温暖化はフェイクニュースだ。そんなもの

は存在しない」と啖呵を切ったが、テキサス州を襲った前代未聞の大洪水やフロリダ州やカリブ

海を飲み込むようなハリケーンは紛れもなく、温暖化のなせる業であった。

以上のような地球内部で起きている切迫感に加え、見逃してはならないことは、小惑星や流星の

地球に衝突する危険性と確率が近年異常に増加したことにもふれており、国家間の紛争による

戦争の拡大や温暖化の危機を免れたとしても、小惑星や流星の地球衝突の危険性は増しており

このことだけで地球は一瞬のもとに吹っ飛び消え去るとも警告している。

いずれにしても、これらのことを勘案すると少なくとも今後100年以内に地球が滅びる可能性

が高いと指摘し、人類はこれらの危難から逃れるためにも他の惑星に移住することを真剣に

考え無ければならない時期に来ている・・・と結論している。
 

著名な科学者「ホーキング博士」の終末論!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年11月12日(日)00時06分51秒
  「知の巨人」と異名を取るホーキング博士が、2017年6月15日のBBC放送のドキュメンタリー番組『新たな地球を求めての旅立ち』

で紹介され、世界各国で大きな反響を呼んでいる。

同博士は「人類の未来はあと1000年で終焉を迎える」との見通しを語っていた。

ところが、この予測を全面的に見直した結果、「人類に残された時間は、せいぜい100年しかない」と軌道修正。

なんと、900年も人類の未来を大幅にカットしてしまったのだ。

聖書に予言されている地球と人類の終焉はそんなに早く訪れるのだろうか・・・・。

同博士は、このため、人類は早急に他の惑星に移住しなければならないとも警告している。

火星への移住もNASAでは計画されているが、本格的に人類が永住できる惑星に改造するには

何百年もの歳月を要するとされている。

こうしたわけで、人類は早急に太陽系以外の宇宙で地球とよく似た環境の惑星を探し出さねば

ならないとされているが、100年内の移住は難しいと思われるのが定説である。 
 

幸福(しあわせ)な人生とは・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年10月30日(月)16時27分17秒
編集済
  幸福(しあわせ)な人生とは・・・・!

真に幸福(しあわせ)な人生とは、どんな人生だろうか?

このホームページの表題でもある「幸福の楽園」とは

どのような世界なのだろうか・・・・・・?

私は、この問題を考えるとき、どんな人でも今まで受けてきた

知識やその国々の風習・宗教に影響されて考える場合が多いのでは

ないかと・・・・ふと思うのである。

しかし、一人一人の幸福(しあわせ)感はそれぞれ異なると思うし

本当の意味の定義できる幸福(しあわせ)感などはないかも知れない。

ただ、もし今まで自分を潜在的に縛ってきた知識や道徳観あるいは

歴史感など全てをとっぱらって自分自身にとっての本当の意味での

幸福(しあわせ)を追求してみると、意外なことに気付くのである。

それは、ある意味で思考をとっぱらった幸福(しあわせ)感である。

その幸せ感は文章で定義したり、論理的に説明しにくい幸せ感である。

私は、釈迦が6年の苦行の末たどりつき発見した・・・とされる悟り・・

の境地がその幸せ感かも知れない・・・と思えてならない。

これかから述べるその境地は、仏教学者に言わせれば、それは間違った

解釈だと・・・・指摘されるかも知れない。

しかし私はあえて書き留めたい・・・・・。

釈迦が菩提樹の下で悟った悟りの瞬間・・・・・

「嗚呼・・・奇なるかな 奇なるかな・・・一切の衆生は燃えている・・・」

・・と・・。

これを私なりに解釈すると・・・・・「今まで難行苦行を重ね修業に励んで

来たが・・・」

私がついに観た世界はただ、創造主の豊かな燃えるような力に支えられて

生きとし生けるすべての者は、生きようとする意志に支えられて豊かに

燃えるように生きている・・・・!」

この実相の世界こそが、創造主の愛の意志であり大いなる力なのだ・・!

そこには、難行苦行も必要としない世界であるし、釈迦が断食をやめて

少女が差し出した温かいミルクを味わいながら飲み干した、その時の

釈迦の心境こそが幸福の瞬間ではなかったか・・・・と思うのである。

私は人生において、既定の道徳や宗教の戒律に縛られて生きていることが

果たして本当の意味の自分にとっての幸せを得ているのであろうか・・・?

と疑問に思うことがしばしばあった。これは、ある意味で危険な思想で

あり、釈迦が少女からミルクをもらって飲んだ行為を当時の弟子たちは

「釈尊は修業をすて悟りに至る道を諦められた・・・!」と解釈した

ことにも通うじるのであるが、私の思う幸せ感は、このあとで釈迦が

説いた「八正道」に通じるものであり、決して本能にまかせた気ままな

生き方を推奨しているのではない。

むしろ、修業も日々の生活も両極端に走らないようにつとめ、難行苦行の

自分を苦しめる日々でもなく、また本能のままの快楽と悦楽、強欲に振り

回される日々でもない・・・正しい思い・中道の行い・それでいて自由な

日々に専念することこそが、真の意味での「幸せな人生」を送る秘訣では

ないかと思えるのである・・・。
 

聖書で示されている深い真理・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年10月21日(土)11時53分11秒
編集済
  人間の祖先であったアダムとイブがエデンの園を追放された原因は

イブが蛇の誘惑にのって、神から堅く禁じられていた、禁断の木の実

を食べたことから始まった。この禁断の木の実は「知恵の木の実」とも言われ

この木の実を食べると人間が神のように賢く知恵者となる・・・とも蛇から

教えられたのである。

この掟を破った人間はエデンの園から追放され、地上に降ろされた。このことにより

人間は、「死ななければならない運命」を知り、また死ぬまでは地上で苦しい

生きていくための労苦を背負わされた。こうして、人間は自ら滅びていく

「死」と言う十字架を背負い地上を這うようにして額に汗して生きていくための

労働を課せられた。

しかし、一方で他の動物にはない、知恵が与えられたため、人間は他の動物を

支配できる地位を得、さらにこの地球さえも支配できる力を得た。

これを、具体的に説明すると「人間は知恵の木の実を食べたおかげで、地球を

一瞬に破壊できる核爆弾を造る知恵を得たのである。また一方で他の動物には

絶対にできない、クローン動物、クローン人間を造り得る知恵を得たのである」

これらの事実は、人間が限りなく神の存在に近い知恵と力を「禁断の知恵の

木の実」を食べたことにより得たこととなる。

しかし、神はエデンの園で何故、神自身に似せて造った「人間」にこの神と

等しい知恵を得る「木の実」だけは絶対に食べてはいけないと…禁じたので

あろうか。

私は、聖書のこの箇所が最近まで本当のところよくわからなかった。

しかし、最近になってやっと、神の深い意志が読めるようになった。

それは、核爆弾によって、二度も被爆し言語に絶する悲惨な地獄絵を

体験した我ら広島と長崎の被爆日本人の歴史的事実を観たからである。

また、現在迫りつつある第三次世界大戦の核戦争の現実を知る時、

神の如くになり得る「絶大な知恵の木の実」が、このような悲惨な現実を

造りだしていることを知ったからであった。

また、東野圭吾氏がその著「分身」でも警鐘している「クローン人間」の

悲劇は、今後人間が自らの手で人造人間(クローン)を造りだして

行こうとしている人間の限りない欲望に対して警鐘が鳴らされている

のである。

チェリノブイリの放射能汚染や東日本大震災に起きた原子力発電所から

の放射能汚染もいまだ解決できないまま、その被害が長引いている事実

をみても、人間が神に近づく知恵を手にしたことによる原罪は底知れぬ

不安と恐ろしさを秘めていると言わざるを得ないような気がするので

ある。
 

切り番ゲット

 投稿者:雪だるま  投稿日:2017年10月12日(木)21時21分59秒
  十万九千五百の切り番をゲットしました
ますます、皆さんが掲示板をご覧になって、書き込みされるように
祈ってます
雪だるまでした
 
    (管理人 Angel77) 10万9千5百件目のキリ番ゲットおめでとうございます。

いつもお励ましありがとうございます。今後も皆様愛される

ホームページにしていきますのでよろしくお願い致します。
 

挫折や失望のない信仰とは・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年 9月22日(金)22時41分51秒
編集済
 
現代社会、特に日本において挫折や失望をすることのない信仰生活 とは具体的にどういう信仰生活なの

だろうか。

まず、所属している教団側の教理に基づけば

① 毎週の礼拝を守ること。

② 決められた定期的な献金をおこたらないこと。

③ 教団の掃除や経理や事務など与えられた奉仕の仕事を忠実に

まもりその仕事をこなすこと。

以上、これらは②の献金の義務を除けば、ほぼ会社に勤務する

社員の義務規定のようにも思われる。

しかしこれらは、下段(前回)に述べたイエスの思想とはおよそ

程遠い思想である。

私は、上述の三つの義務をまったく守れなくなった信者でも

素晴らしい信仰を貫き通した信者を書物や教団内の信者から聞いて知っている。

それは、戦後若くして結核のため、病死した詩人の八木重吉氏であり、彼は中学の教師をしていたが、

戦後結核のため教会には出席できなくなった。(当時結核は伝染する不治の病と恐れられていたので

人の大勢集まる教会に出席できないのは当然のことであるが・・・)

このことで、教会への奉仕も物理的に不可能となり①及び③の義務は果たせなくなっていた。

彼の詩は、教会からはなれ、ただ家にいて信仰告白の「詩」を書き続けた結果、信仰はいよいよ深まり

彼の死後このすざましい信仰告白の「詩」は、世のクリスチャンや文壇からも高く評価されたのである。

では、彼の信仰告白の「詩」には、何がベースとなっていたのであろうか・・・。

私は、この彼の「詩」から、本当の意味の信仰とはいかなるものかを学べたような気がした。

真の信仰とは教会の教理や牧師や神父への帰依の度合いではなく、イエス・キリストの霊が魂の奥深くに内在し

いかにイエスの霊と共にあったか・・・の一点にかかっているような気がしてならない。

それは時代はことなり、宗教・宗派も全く違うが、天台宗の比叡山の延暦寺で修業し、ただ自分の気力と自力で

安心立命の境地に達しようとして挫折し、修業をすて浄土宗の法然のもとにたどり着き独自の絶対他力(ただ阿弥

陀仏におすがりし、「南無阿弥陀仏」をとなえる以外に極楽浄土にたどり着く道はないことを)悟った親鸞の境地

と上述の八木重吉の信仰とが重なり合うのである。

親鸞はただ、心に阿弥陀仏を念じ「南無阿弥陀仏」(お助け下さい 阿弥陀仏様!)と悲鳴にも似た念仏を

唱えることにより、生きとし生ける者(一切の衆生)を救わんとする

阿弥陀仏の一方的な慈悲の光にうたれて極楽浄土に行けることが約束されると…・・・・!

このように、八木重吉は教会での礼拝もできず、ただただ病床の床にあって、一身に手を合わせ、「御父様

(イエス様)~お父様(イエス様)とただ一心不乱に祈り、・・・祈りに祈った・・・彼は詩の中で、私には

ただそのように、泣きじゃくる幼な子のようにただただ、イエス様におすがりし、御名(みな)を大声でお呼び

するよりほかに何も出来ないのです・・・と書いている)

そしてその後の彼の詩に・・・

「私の体内の奥深くにイエス様が内在していてくださって、私をしっかりと抱き支えて下さっている」・・・・と

感じ取り穏やかな 心境のなかで、天国に入ることを信じ、信じきって臨終を迎えた様子を、彼の最後の詩の

随所に詳しく述べているのである。

親鸞の時代はまだキリスト教が伝わっていなかった時代でもあったが、私たちを創造してくださった天地創造の神

は被造物である人間をこよなく愛し、すがってくる被造物に対し見返りのない一方的な救いの道を示して下さって

いるのではないか・・・とそのように思えてならない。
 

イエスの思想と現代のキリスト教会の思想

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年 9月13日(水)00時47分27秒
  現代社会において、キリスト教信者の多い国で民主主義が徹底している先進国では
その国の法律(憲法など)に政教分離を明記していて、必ずしもキリスト教の教理
がそのまま国の法律とはなっていない。死刑制度しかり、その他の法律においても
キリスト教の博愛主義に基づくものよりハムラビ法典に起因する「目には目を」
の原則に基づく罰則が多い。法を犯した者への制裁は犯した罪の程度に応じた制裁(刑罰)
を課すのが基本となっているのである。
さて、聖書に示されたイエスの思想と現代のキリスト教会の教理はどうであろうか。
戦時中の日本の組合教会(戦時中にあった多くの教派のキリスト教会は日本基督教団
に統合させられ別名組合教会となっていた)は、日本が欧米と戦闘状態あったことを
容認し、日本の軍隊に対し軍用機を献納するなど、間接的ながら戦争を支援する態度を
明らかにしていた。戦後このことを反省し公にこの行為は間違っていたと公式見解も
発表しているがしかし、他の国に於いても同じような状況であったように思われる。
そういう意味でも、アメリカが広島と長崎に原爆を投下し一瞬にして何十万人もの
人間を殺傷した歴史的事実からもキリスト教を大半の国民が信じる国においても、
決してその母体となったキリスト教会は抑止力として働かなかったことになる。

さて、イエスキリストの誕生から三百年以上もたってから、当時の世界最大の大国で
あったローマ帝国の皇帝が聖書の編纂を行い当時の資料を取捨選択して編纂し、国の
正式な宗教(国教)として建てられたキリスト教会は本当の意味でイエスの思い、
イエスの思想をそのまま反映していたか・・・私は疑問に思っている。
その後、西方教会・東方教会に分かれそれぞれがさらに分派していったキリスト教会であるが、
はたしてイエスの霊とその弟子たちによって新たに発足した1世紀当時の原始キリスト教
(イエスの霊に導かれて集まり誕生したエクレシア(霊的集団))の経典や思想と一致して
いるとは思われないのである。

主な相違点は、イエスの思想の根本には、この世を納める国家権力に迎合しこの世の掟のみに
従うことが人間の究極的な目標ではないとしていること。
そしてイエスの思想の根本は、信仰の根底には、創造主(父なる神)への絶対的な信頼と信仰、
その信仰の上に立ったイエスキリストの十字架の贖いを信じることのみによって、救われると
する信仰義認の教理があり、信者の国籍はこの世ではなく、天国にあるとする次元の違う
聖霊の働きに支えられたこの世での生き方である。
こういう信仰は現代のキリスト教会では、理論的には排斥しないが、実情は政治にも
迎合し世間一般の法律と規範の中で信仰生活を送ることを第一義としている点で、もはや、
原始キリスト教会時代の教会(霊的集団(エクレシア))にほど程遠い信仰と教理になって
いるのではないかと思うのである。
 

数年前の信仰体験の再投稿です。

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年 9月10日(日)10時54分31秒
編集済
  下記のコメントは数年前の私の不思議な信仰体験の再投稿です・・・・。

みなさんは、どのような日々を今日まで過ごされてきましたか。

人によっては、今幸せの絶頂にあり自分が死ぬ時のことなど想像もできないし

そんな暗いことは考えたくもない・・・と思っておられる方もあるかも

知れません。しかし生きている人間が一人の例外もなくいずれ死を迎え

無くてはならないことは、明白な事実です。

そして、若い人でも明日、突然「死」を迎えなければならないかも

知れません。

その死は、突然の「死」であればなお更、言い知れぬ絶望感と

えも言われぬ孤独感、そしてこの世で得たすべてのものを失う恐怖

さらに肉体的な「死」の痛みによる苦しみ・・・・それらが相乗されて

いよいよ自分の感覚は孤独と絶望と寂しさと苦しみに七転八倒しながら

悲鳴をあげ阿修羅のごとくのたうちまわることでしょう。

この時、宗教なんてそんな暗いもの信じるものはバカだ・・・!とののしって

いた人も藁(ワラ)をもすがる思いで「助けて・・・!}と泣け叫び

狂い死にしていくのだと思います。

こうした自分(人間)の終末を思う時、信仰もある意味で大事であり

いちどは、信仰について考えてみるのもそんなに無駄なことではない・・・

と思ったのでした。

私は、公私ともに、多忙な日々でしたが、ようやく最近になって

不思議なイエス様との出会いがあり、私の一生にとっては貴重な

年となりそうです。

私は、この体験により、目に見えない聖霊の働きの不思議さを感じると

共に、およそ真の信仰とは、理屈では説明できない、超自然的な霊の世界での

交わり(聖霊の不思議な働きによる神様との全身全霊での感動)だということを

知りました。

それは、環境的にはかなり孤独な状況と、ある意味では精神的な葛藤の中での

出来事であったのです。

長時間の真剣な祈りの中で、突然雷鳴のような、感動が全身を走り、うれしさの

あまり涙があふれでてとまらなかったのです。

そして大声でイエスさまにやっと出会えた。イエス様、私は長い間あなたとの出会いを

待っていたのです。・・・・と大声で叫んでいました。

そうすると自分自身の全身があたたかいぬくもりを感じなにか、不思議な空気が私を

包んでいるのを感じたのです。

私は、夢中で「イエス様ありがとうございます~~~ありがとうございます~~~~

ありがとうございます~~~」と叫んでいました。

私は、やっと下記の賛美歌121番で歌われているイエス様にお出会いすることが

できたのです。

それは、教会の説教台の真上にある十字架上のイエス様ではなく、また、高くそびえ

ステンドグラスからまばゆいばかりの大冠をかぶられた権威あるイエス様のお姿

ではなかったのです。この賛美歌121番で歌われている、私たち人間の人生の

底辺をさ迷っている人としてのイエス様だったのです。このような体験ではイエス様は

私と一体でした。私たち人間が絶対的に背負はなければならない、原罪(死へ

向かう人生)をイエス様は共にその十字架(死への原罪)を背負って歩んでいて

くださったのです。私の真剣な祈りはそのままイエス様の十字架への道行きで、共に

歩んでくださっていたのです。私を見なさい、あなたの十字架を背負って私は苦しみを
分かち

あなたと共に歩んでいるのです。私はこの原罪(死)を一身に受けあなたに代わって

父なる神(あなたの創造主)の許しを得るために歩んでいるのです。

もう何もあなたは心配することはないのです。私は死に打ち勝ち死に勝利し天国に引き
上げられ

あなたがたの身代わりとなってあなたがたの罪の許しを得たのですから・・・・・と


そう、イエス様が私そのものを抱えていつも厳しい人生を共に歩んでいてくださったの

です。

私にとってのイエス様は、私の絶望そのものであり、私の悲哀そのものであり、私の

肉体の苦しみと共にあり、また、精神的な絶望と乾きと一体だったのです。

私の一呼吸、一呼吸そのものをイエス様がしっかりと支え私の苦しみを共に味わい歩んでいて

くださっていたのです。

それを知った私の喜びと魂のふるえは、いつまでもいつまでも消えることはありませんでした・・・・。

      讃美歌121番

(1)馬槽(まぶね)の中に うぶごえあげ、
   木工(たくみ)の家に  ひととなりて、
   貧しきうれい、  生くるなやみ、
   つぶさになめし  この人を見よ。
(2)食するひまも   うちわすれて、
   しいたげられし  ひとをたずね、
   友なきものの    友となりて、
   こころくだきし  この人を見よ。
(3)すべてのものを  あたえしすえ、
   死のほかなにも  むくいられで、
   十字架のうえに  あげられつつ、
   敵をゆるしし   この人を見よ。
(4)この人を見よ、  この人にぞ、
   こよなき愛は   あらわれたる、
   この人を見よ、  この人こそ、
   人となりたる   活ける神なれ。
 

多くの偉人の最後の言葉

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年 8月14日(月)10時33分6秒
編集済
  世界の歴史上にのこる偉大な人の、最後の言葉(後世の人々へのメッセージ)を読んでいると

人生の指針のヒントになる言葉が隠されていることに気付く・・・・。

最下段にアップルの創業者で巨万の富と名声を手にしたスティーブ・ジョブス氏の死と直面して

言い遺した「最後の言葉」を示したホームページのリンク先のURLを記載したが一度読まれると

今後の人生に何等かの生きるヒントを授けてくれるかもしれない。

また、私のホームページの「ここに希望がある」の随想にも記載しているが、世界の著名人が

「聖書」について感想を述べているがそれも併せて参考にしてもらえたら・・・と思う。

尚、下記のURLは、スティーブ・ジョブス氏の「最後の言葉」が掲載されているホームページ

のURLである。興味のある方はサイトでご一読下さい。


 

http://www.kota-tsushin.com/entry/2016/04/25/090500

 

(無題)

 投稿者:雪だるま  投稿日:2017年 7月23日(日)07時34分2秒
  素晴らしい
明るく感謝して生きましょう
 

自分の人生について思いつくままに・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年 7月23日(日)00時32分46秒
  自分の人生を振り返ってみて、思い当たることはその時々であまり深刻に悲観的であった時は幸せでなかった

ようなそんな気がします。それはあとから考えてそう思うので、その時はそれなりに深刻に思い沈んでいた

わけですが、もしその自分の気持ちを180度転換して、底抜けに明るく楽天的になっていたとしたら

それはそれでよかったのではないか・・・・と思えるのです。

少し、ふざけた思いですが、人間の一生は、別にこの世で人の迷惑になるようなことを一切せず真面目に

生き抜いてきても、すべての人に公平に「死」が待ち受けています。この厳粛な「死」だけはだれも

避けて通れません。聖書はこの人間の「死」をすべての人間に課せられた「原罪」としていますが、これが

課せられている以上、ある意味で生きている人間は、「死」という避けてとおれない「原罪」のために

近い将来、刑場にひかれていく罪人に似ているかもしれません。しかしどう考えてもこの「死」を自分自身

に置き換えて素直に直視するとあまりに理不尽な運命と思わざるをえません。

では、私はこの「原罪」を心の奥深くまで背負わなければならないのでしょうか?いいえ、聖書はその

ようには述べていません。パウロの「ローマ人への手紙」で私たちは、この世での行いによって裁かれるの

ではなく、ただ神の一方的な恵みによって、「イエスキリストの十字架の贖いを信じる信仰によって、この原罪

(死)から解放され、もはや死もなく病もなく平穏で平安な世界に生きる恵みを約束されているのです。」

このように、私の行いや努力からではなく、神の一方的な恵みによって私達人間は平等に救いに預かれるのです。

そうであれば、私のこれから人生は底抜けに明るく、楽天的に人生の明るい面ばかりを観て、いつも笑顔で

喜び、自分に注がれている太陽のあたたかさを感謝し、支えてくれている家族や友人や親せきに感謝し、野の

花や小鳥たちのように、ただただ無邪気に生き抜きたいと思うのです。こうした、喜びと感謝に満ちた生き方

こそ、神が私たちに望んでおられることなのです。
 

マザーテレサの名言集より学びましょう・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年 7月15日(土)05時35分56秒
編集済
  世界で一番恐ろしい病気は、孤独です。

あなたは、あなたであればいい。

いずれにせよ、もし過ちを犯すとしたら、

愛が原因で間違った方が素敵ね。

持ち物が少なければ少ない程、多くを与えることができます。

矛盾としか見えないことでしょう。

でもこれが愛の論理なのです。

今、この瞬間幸せでいましょう。

それで十分です。


その瞬間、瞬間が、私たちの求めているものすべてであって、他には何もいらないのです。

愛の反対は憎しみではなく無関心です。

私たちは、この世で大きいことはできません。

小さなことを大きな愛をもって行うだけです。

遊ぶ時間を持ちなさい。

愛し、愛される時間を持ちなさい。

与える時間を持ちなさい。

それは永遠につづく若さの秘密。


それは神が与えてくれた特権。


自分勝手になるには、一日は短すぎる。

大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたかです。

愛とは、大きな愛情をもって小さなことをすることです。

銃や砲弾が世界を支配していてはいけないのです。

世界を支配していいのは、愛なのです。

もし本当に愛したいと願うなら、許すことを知らなければなりません。

平和は微笑みから始まります。

1日5回あなたが本当は笑顔を見せたくない人に微笑みかけなさい。

それを平和のためにするのです。

日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。

愛はまず手近なところから始まります。

貧しい人々が一番求めているのは、哀れみではなく、愛なのです。

愛に対する飢えの方が、パンに対する飢えを取り除くことよりも、はるかに難しいのです。

あなたは、この世に望まれて生まれてきた、大切な人。

誰からも受け入れられず、誰からも愛されず、必要とされないという悲しみ、

これこそ本当の飢えなのです。

愛を与え、愛を受けることを知らない人は、貧しい人のなかでも、もっとも貧しい人です。

愛はまず家庭から始まるのです。愛は家庭に住まうものです。

善い行いは、一つ一つ繋がって愛の鎖を作ってゆきます。

愛されることより愛することを。理解されることよりは理解することを。

神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦することを望んでいるだけよ。

説教してきかせても、

それは人とふれあう場にはなりません。

ほうきをもってだれかの家を

きれいにしてあげてごらんなさい、

そのほうがもっと雄弁なのですから。

笑ってあげなさい。

笑いたくなくても笑うのよ。

笑顔が人間に必要なの。

昨日は去りました。

明日はまだ来ていません。

わたしたちにはただ、

今日があるのみ。

さあ、始めましょう。


愛とは、

大きな愛情をもって

小さなことをすることです。


誰かに微笑みかけること、

それは愛の表現であり、

その人へのすばらしい

贈り物となるのです。

http://

 

限りある人生の時間の中で・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年 6月12日(月)22時13分57秒
編集済
  人それぞれの人生の時間は有限であり限られている・・・・

みんなそれは知っていはいるが、果たして悔いのない日々が送られているだろうか・・・

あの時、ああしておけば良かった・・・とか、あの時は、あれが精一杯の生き方だった・・とか

あとになって思い返してはみるのだが、生きてきた瞬間・瞬間が…決して充実していた・・・

とは、言い切れない・・・・・。

こうして、自分の人生の過去を振り返るとき、せめてこれからの人生だけは、自分の思いのまま

残りの命を燃えつくして、赤々と輝かせて燃え尽きたい・・・と思う。

自分のしたいことを今、今日、この瞬間にして、悔いのない人生にしたいと思う。

自分の希望や夢を現実のものとするために、精一杯動いて表現し明るく輝かせたい・・・!

今日はあの時できなかったことを、実現するためにあの人に会いにいこう・・・

明日は、前々から思っていた自分にゆかりのある親戚のあの人のために、またなつかしい友人の

ためにお世話になったお礼を心から手紙に綴って届けよう・・・・・

そして、明後日は人生のそれぞれに思い出となったなつかしい町や野山や故郷の小川のほとり

を訪れ心行くまで懐かしみ散策してみよう・・・・・!

そうすれば、それぞれの人生における感動がよみがえってくるに違いない・・・!

ああ、いつも楽しく明るく喜びに満ちた心でいることは、私を創った創造主がそのように

望んでいることなのだと・・・深く深く自覚していよう。

いつも喜び、感謝して、来るべき人生の最後の時に、明るく喜びに満ちた心境でいられるように

この今の一瞬・一瞬を謳歌して魂をダイヤのように輝かせていよう・・・!
 

(無題)

 投稿者:雪だるま  投稿日:2017年 5月18日(木)08時57分43秒
  109000のキリ番です
念のため
 
    (管理人) Angel77
確認遅れて申し訳ありません。10万9千件目のキリバンゲットおめでとうございます!
登録されている住所に記念品、送らせていただきます。
今後ともよろしくお願い致します。
 

キリ番ゲット

 投稿者:雪だるま  投稿日:2017年 5月17日(水)14時35分24秒
  キリ番ゲットしました
エンジェルさん、これからも頑張ってください
新しい投稿楽しみにしています
 

いえ、いえ、私の話はこれで終わりではありません!!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年 4月29日(土)22時25分17秒
編集済
  私の以前の投稿記事を思い出してください!!

私も現在の日本の宗教団体には失望していますし、あまり期待をもつと、年取ってからの

教団組織の裏切りによるショックは大変なものですが、私自身はこの問題に対して

具体的に結論が出ています。

それは、仏教にしろキリスト教にしろその現在の教団・寺院・団体を信仰の対象にした結果の

当然の失望なのです。

私は、仏教の教祖である釈迦は「人類の偉大な先輩」と思っています。およそこの世に予想

される悲しみや苦しみ終末期の孤独はほとんど釈迦の説かれた言葉を自分の全身全霊で

理解しその教え通りに生きていれば、狂うほどの苦しみはあじあわなくてもいいのではないかと

思っています。

このことを、以前に私はこの掲示板で書いていますが、今もう一度自分にも言い聞かせるために

再度掲載させていただきます。

この世で幸せに生き抜くためには、人によってその方法は少しの違いはあるかも

知れません。しかし、その大まかな基本的なことは、私たち人間の先生(教師)

の遺された生き方や遺言(仏典や聖書)などによって知ることはできます。

お釈迦様は、人間はみんな平等に生まれる苦しみをもち、老いる苦しみを持ち

病になる苦しみを持ち、そして最後は死んで行かねばならない苦しみを背負って

この世に来た・・・と自らの修行によって悟った悟りによりこのように説かれ

ました。またイエスキリストは、自らの「死」によって、人間に課せられた

原罪(死ななければならない宿命)から解放し創造主のもとに無事還っていく

道を創ってくださいました。このようにこの世に生かさされている私たちは

もう悩まなくても、幸せに人生を送り死に直面してもあわてず余裕をもって

喜びのうちに死を迎えることができるのです。

そのためには、まずこの世のすべてのことがらに対し和解しょうと思います。

自分に恨みを持っている人には、満面の笑みで接しその人が自分の右の頬を

打てば左の頬をも向け、その人が人を傷つけ怒りを持つことがいかに虚しいこと

かを自覚できるまで愛し愛し愛し続け、その人につくそうではないですか・・!

こうして統治されている国や権力に対しても、全身全霊をもって働き尽くし

自分がこの世に生かされている幸せのみを感謝し感謝して博愛の精神で多くの

人々に尽くしていこうではないですか。もし間近に孤独でさびしく生きている

人がいたら希望を仏典や聖書から引用して励まし、病気の人がいたら精神面で

明るい希望をもつように慰め励ましてあげようではないですか・・・・

また、万一もうこの世に希望はない・・・・と絶望し自殺することを考えて

いる人がいたら、その時こそイエスキリストが説かれた天国に行ける希望と

約束があることを全身全霊で話して励ましてあげようではないですか。

こうした自分のことを忘れた他者のために尽くし生きていくことに人間の

本当の意味での生きる意義があることを・・・・自覚したとき、この世に映る

草木や小川や太陽などすべてのものが生き生きと自分を温かく包み込み生かして

いてくれることに・・・ハタと気づくのです。

もうこうした、心境になれた時は、もはや死の恐怖もふっとんでただ生かされて

いる喜びと感謝の思いが自分を包み込み「ありがとうございます。感謝です。

・・・・」という思いが全身全霊で感じられるようになるのです。このような

人生を生き抜くことこそが本当の意味で幸せな人生を生きていると言うのでは

ないでしょうか・・・・。



私を含め世の人々は遅かれ早かれ、この世で言う「死」に直面する

のですが、私は一般の人がイメージしている暗いイメージの「死」を

想像したことはありません。否、私の今の心境からは想像すら出来ないのです。

しかし、生から死の世界に移行するとき、多くの臨死体験者が体験する幽体離脱は

あると思います。この瞬間において私が、私を包み込んでいた肉体から解放され

私がこの世に来るときに吹込まれた本来の自分(霊体)に戻るのです。

この時点でもう歩かなくても、私の思う場所に瞬時に私は居ました。

おそらくまばゆいばかりの光に包まれて空高く舞い上がりふと地上を観ると

明るい赤や黄色や水色の虹のような花畑が私の帰還を歓迎してくれている様に

咲き乱れていました。

さらに天高くのぼっていくと、この世にいた時に常に天国を信じ共に歩んだ

父や母、そして先立った友人が出迎えてくれました。皆んな満面の笑みを浮かべ

天国での再会を祝してくれました。大空の周りは天使たちが舞っていてそれぞれが

この世でいつも歌っていた讃美歌を歌って祝福してくれました。

そして、私にはもはや自分の身体の重みも空腹感も痛みもなく平安な心(魂)の思い

だけで喜びに満たされる空間と時間が続いていくのでした・・・・。

 

(無題)

 投稿者:雪だるま  投稿日:2017年 4月29日(土)21時48分21秒
  エンジェルさんの投稿を読んで、あぁそうなんだなぁと少し悲しい気持ちになりました

年を取ると所属していた宗教の団体からもそのように扱われるのですね
ほとんどの日本の宗教がそうなんでしょう

老人ホームに入れる人も限られているだろうし、どうしたらいいのかなぁと思ってしまいますね

賀川豊彦やマザーテレサのような人が再び現在の日本に現れる事を望むのも難しいですね

どこかにいるのかも知れないけれど

本当にやりきれない難しい問題ですね
 

現代の日本で幸せな人生を送る方法を模索する

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年 4月29日(土)21時16分28秒
編集済
  現代の日本において幸せな人生を送る方法は多様で、思想面でも人道主義的左翼思想から

無宗教でもヒューマニズムをベースにした平和主義的な生き方もあり、人々はそれぞれ

自分にあった人生観で生活しているようだ。そういう意味では、魅力のある宗教が今の

日本に存在しない現状では、下段に述べた高齢になってから宗教教団から疎遠にされる

事態を免れる為にも、どこの宗教教団にも所属せず、ただひたすら生活のための仕事に

打ち込んで高齢になる前に一応の老後資金を獲得し、その資産的な余裕に支えられて

自分にあった老人ホームを探すなりして老後の物心両面の安定を確保することが賢明な

人生の歩み方かも知れない。

特に気を付けたいのは、新興宗教に深入りしないことだと思う。下段の随所で述べている

が、これらの教団は一見魅力のあるような信徒の獲得を展開しているが、その裏では

先日述べたような、入信後、高齢になり利用価値がないと判断されたときの切り捨て方は

親友に裏切られた以上のショックである。新規入会の折はお客様扱いで居心地のいい

信徒でいられたが、その信徒も高齢化し低所得になると、教団からもうこの信徒は利用価値

がないと判断された時の教団の対応は余りにも無慈悲でこの信徒はこの時点で信じていた

神や仏にも見放されたと自覚して孤独な心境で終末(臨終)を迎えるわけである。

しかし、歴史を振り返ると世界の宗教がすべてこのようなものであったわけではない。

少し前にはマザーテレサが創設した「神の愛の宣教者会」は、インドにおいて行き倒れ

となった異教徒を救済し、戦争で負傷した人々を無償で看護した。また日本においても

幕末から明治の初期にかけて天理教の教祖が同じような救済活動も行っている。

なお、戦後においても「イエス団」の創始者でキリスト教における博愛の精神を実践した

「貧民街の聖者」として世界的にも知名度が高かった賀川豊彦牧師の教団もある。

しかし日本の現在の宗教界ではそういった話はほとんど聞かなくなった。

こうした社会の情勢をみて、人々は徐々に宗教から離れ、個人個人が拝金主義となり

ただただ老後の生活の安定を求めて孤独の淵をさ迷うある意味で精神的飢餓世界の中で

かろうじて自分の命をながらえているのが現状ではないだろうか。
 

新しい投稿を読んで

 投稿者:雪だるま  投稿日:2017年 4月21日(金)13時18分58秒
  今、母が入院しているので毎日お見舞いに行っているのですが、同室の患者さんには殆どと言ってよいほどお見舞いに来られる方はおられません。
時々、ケアマネージャーさんが見える程度です。
ここでも、人間関係の希薄さが垣間見られます。

また、先日夕方のテレビでもみたのですが、奈良の高齢化が進んだ町で、集会所を、地域住民の集う憩いの場所とし、三々五々、独居老人達が集まり、お茶を飲んだりお喋りをしたりして親交を暖めているのです。
そこで、一人の老人が、
わしら、一人もんやさかい、こうやって近所付き合いして知り合い作っとかんと心配やからなあ
、、、と言う言葉が心に残りました。

かつてのニュータウンが老朽化し、そこに住まう住民も年老いる。

この町の様な取り組みがなされていない所では、ますます、人間関係が希薄になって行きます。

信仰を持っていても、エンジェルさんの投稿にあったように、年を重ねたと言うだけで排除されると言うのが現実ならば、こんな理不尽な事はないと思います。
宗教とは、そんなものではないと信じたいです。
 
    (管理人 Angel77) 雪だるまさんお久しぶりです。お母さまが入院されているとのこと、
ご回復をお祈りしています。
さて、私が投稿させていただいたことは、NHKスペシャルでもたびたび
取り上げられ放映されましたが、今の日本の悲しい現状であることには
違いありません。これは、宗教界だけの問題ではなく社会全般の問題
だと思うのですが、拝金主義とエリート校への進学のみに力を入れ、真の
人間教育をしていない教育から意識改革していかねばならない問題かもしれません。
テレビで放映されたと言う奈良のようなケースが全国に広まることを期待しています。
 

1億総孤独社会の日本に望まれること・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年 4月20日(木)23時56分0秒
編集済
  日本の人口の3人に1人は60歳以上であり、これらの人々は独居で妻や子供もなく

本当に一人淋しく過ごしている人が多いと聞きます。また若者も派遣社員や臨時社員で


収入も不安定であるため、ワンルームマンションで一人淋しく暮らす若者も少なくありません。

こうした社会の状況の中では、江戸時代や戦後の復興期の昭和30年代にはあった、

地域の人々がしっかりと結びつき暖かい近所付き合いの中で人間的な結びつきがあった地域交流も

個人情報の尊重や徹底した個人主義の浸透によりバラバラに崩れ孤独死や病死しても看取る

者がいなかったことから、死んだことが近隣に発見されるのがかなりの日時がたってから・・

と言う悲しい現実が多くなってきました。こうした問題の解決はもちろん行政や地方

自治体の地域と連携した対策がなされることが大事なのですが、しかし本当の解決は

一人一人の心の安定や不安の除去が最も大切か・・・とも思われます。

日本にある大きな歴史ある宗教団体や宗教法人は一人一人の心の安定や不安の除去に本来は

対処しなければならないのでしょうが、そうできる財力や人材不足もあって、新規の会員

獲得には積極的であっても、本来あるべき難民救済的な活動はほとんどなされていません。

私はこうした救済が当然あることと信じて入信され献金や教団の奉仕活動(清掃や建物 の修復)

にも全身全霊で貢献してきた信徒が、上述の独居老人になって、もはや多くの

献金もまた体力的にも奉仕活動が出来なくなった時点で、利用価値のなくなった厄介者

のようにまるで捨て犬のように切り捨てられている現実を観ます。これは客観的に見れば

教団の維持の為の必要悪かも知れませんが、信徒の心の中の思いは教団に切り捨てられた

ことがそのまま信じていた神や仏から見捨てられた思いで孤独の中で悶々とした失望感で

終末(死期)を迎えている現実を観ます。

もはや、日本の宗教にはその教派を問わずこうした宗教本来の心の救済への力はなく、

株式会社的な冠婚葬祭を扱う宗教法人になり下がっているような気がしてなりません。

私はこうした魂の底から叫び声をあげて泣き叫んでいる信徒を多く見てきました。

こういうことなら、その方はもっと自分にあった、音楽とか絵画とか詩や俳句・旅行とかの

サークル団体にはいりそれらの人々の交わりの中で親交を温められれば、このような無慈悲な

切り捨て方はされなかったであろう・・・と思います。

こうした背景があったからでしょうか、先日テレビで気の合った高齢の婦人が数人がグループで

1か月に何回か会食し談話してお互いの親交を温め将来の終活も一緒に行い、皆が同じ

墓に入れるように生前から合同の墓を購入し、遺った方が丁重に亡くなった友人を弔うような

交わりをされているのを知り、こうした人間の原点でもある心の交流こそ、今の日本には

大切なことではないか・・・・とふと思ったのでした・・・・。
 

聖書と讃美歌21のHP(URL)ありがとうございました・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年 4月 8日(土)22時11分46秒
編集済
  懐かしくメール拝見させていただきました。私のprince77へのメール着信は問題ないの

ですが、送信は通常のメール送信のアカウントを設定していないので、このHP上でのお礼に

代えさせていただきました。今後必要なときに利用させていただきます。讃美歌21になって

ちょっと違和感が当初あったのですが、今はだいぶ慣れてきました(笑)今後ともよろしく

お願い致します。
 

人々を幸せにする信仰とは・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年 4月 2日(日)19時42分54秒
  人々を幸せにする信仰とはいかにあるべきか?

それぞれ信じる宗教によって、この世の世俗的なことに融和している宗教もあれば

およそ、この世とは妥協しない排他的な宗教もある。

今日は、現代の日本における宗教に的を絞ってその信仰心と日常の生活とのかかわり、

そこから派生する家族や社会との関係などを述べてみたい。

まず現代日本に、ある程度知名度も高く、信徒数も多い、浄土真宗や浄土宗、禅宗、

真言宗、天台宗などであるが、これらの信徒は比較的この世との関わりも

トラブルはなく、これらの信仰によって、家族の関係が険悪化することもあまり

聞かない。そういう意味ではこれらの宗教の信仰によって家族関係がばらばらになる

懸念も日本においては少ないと思われる。

次にキリスト教であるが、日本で最大の組織を持つ日本基督教団は、他宗教との融和も

保っており、親族の葬儀などにおいても、仏教の葬儀にも参列するなど融和がみられ

あまりトラブルは聞かない。

さて、こうした大きな組織を持つ教団に在籍している信徒は、家族関係においても

トラブルは聞かないのであるが、問題は新興宗教である。

新興宗教は字のごとく新しく起こった宗教であるだけに、自分の教団の組織維持の

為には他宗教・他宗派を攻撃・誹謗中傷することは日常茶飯事である。

このためひとたびこうした教団に入信するとそこで長年つちかわれてきた、

家族との絆もぷっつりと切れ、職場や地域住民ともしっくりいかない実情が続いている。

私は、こうしたコチコチの教団に入信している人たちをみて、その個々の人のまじめさや

一途な信仰心には、敬服する面もあるが、内心その信者一人一人の本当のところの心情は

どうなんだろうかとふと疑問を抱くときがある。

それは、その新興宗教を信ずる前から一心同体であった、親兄弟・親友などに対して

一人の人間として疎遠になっていくことに、何の感情も抱かないのだろうか・・・

ということである。

私は、究極のところ宗教はそれを信じたことによって、心底幸せ感に満たされ、

その思いが周辺の家族や親せき、友人に伝わりそれらの近隣の人々をも明るい

幸せ感を感じさせるようなものでないと本物でないと思っているからである。

この意味で、ある新興宗教を信じたことにより、離婚や親子関係の断絶や、

地域社会との分離を招くようなものであってはならないと思うのである。

キリスト教だけに関して述べても、21世紀の日本においては、1~3世紀のころの

ユダヤやギリシャやローマの迫害時代ではない、平和な時代となっているのである。

こういう意味において、一部のキリスト教派の新興宗教教派が主張する、

世と妥協してはいけない、紀元前に書かれた、戦争と領土の奪いに明け暮れていた時代の

旧約聖書の戒律をそのまま厳粛に守り続けロボットのように自由もなく戒律に

がんじがらめに縛られた信仰生活を強要する教団の組織信仰に本当の意味で救われた

喜びや感動はあるのだろうか・・・・・

私の周辺にもこうしたコチコチの教派に所属したことにより、離婚し子供もばらばらに

なり、家庭はめちゃめちゃになっている信徒を多く見かける。

仏教系の新興宗教の信徒に聞いた話であるが、神社や多宗派の寺院は寺社内には

入らず本殿などもみてはいけないとのことである。

そういう意味では、他宗教、多宗派は皆、地獄界に直結する恐ろしい宗教で

あり、自分たちの教派集団だけが唯一の正しい宗教であると主張する。

こうしたことから、幼少のころは、やさしく接していた、父母や兄弟姉妹とも

離れ、親しかった友人ともうまくいかなくなっているケースが多いと聞く。
 

幸せな日々を送るために心を如何に保つべきか・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年 3月 9日(木)23時43分7秒
編集済
  これだけ世の中の移り変わりのスビードが早く、また複雑な世界情勢の

中では、どのような思いで日々を送るべきか・・・・難しい選択になる。

世の中の移り変わりや、情勢分析は怠ることはできないが、かといって

長期的な予測や近未来の断定的な判断はいろいろな問題が交錯している

現代社会では断定はむつかしい。

と、すれば具体的に我々はどのような心構えで日々を送ればいいの

だろうか・・・・。結論ではないが下記のような心情と生活態度で

いれば、大きな失望や挫折がおこるリスクは下げることができるような

気もするので、自分自身に言い聞かせるつもりで列挙してみた・・・。

① まず、あまり長期的な予測をたてて動かないことだと思う。
  このことは、複雑な世界情勢の中でどのような突発的なことが
  起こるか予測が立たない現状であるだけに長期予測は意味がない
  ようにも思えるからである。
② 以前に時間の概念について述べたことがあるが、私は現実にある
  のは、この現在の一瞬・一瞬しかないと思えるので、この一瞬・
  一緒の今、この時間を大切に精一杯生きてみることだと思う。
③ 上述の今現在の一瞬一瞬を精一杯生きるためには、悲しみや
  不安をすべて自分の心から追い払って底抜けに明るく・明るく
  楽しい思いを自分の脳裏に埋め込んで思考し行動することだと
  思う。
④ 具体的には今、自分が一番楽しくなれることが、あればそのことに
  全力投球し、楽しい幸せな思いをそのことに集中させることだと
  思う。(音楽家なら作曲や演奏に、画家なら絵を書くことに、作家
  なら、心温まる著作活動に没頭することだと思う)
⑤ 日々の日常生活においては、笑顔を絶やさず、どんなことにも感謝
  して、自分と接点のある近隣の人や家族・職場の同僚とも仲良く
  いい面を認め合って明るく明るく接していくことだと思う。
⑥ 自然の中で、季節の折々の花を鑑賞して、自然を散策したり、
  緑の木々の公園や山々を歩き澄んだ空気をいっぱいにすい、
  小鳥の鳴き声や太陽の暖かさを身に感じながらこうして生かされて
  いることに感謝して幸せな気持ちでこの一瞬一瞬を過ごせたら
  ただ、それで十分だと思う。
⑦ こうした心境になるためには、以前に書かせていただいた
  私自身、まだまだ未熟な信仰生活だが・・・・
  若いころ読んだ聖書の一節・・・・
  「いつも喜んでいなさい」
  「絶えず祈りなさい」
  「どんなことにも感謝しなさい」
 (テサロニケ5章16~18節)
  以上の聖句をそのまま何の抵抗もなく受け入れ、日々の生活に
  活かすことだと思う。

 この御言葉は、上から目線で説教じみて命令している口調の
 御言葉のようにも思えるが、最近はそうでなくこの後に続く聖句

 「これこそ(上記の3つの御言葉こそ)、キリスト・イエスにおいて
 神があなたがたに望んでおられることです・・・・」と書かれている
 意味に気づいたのだ。
 これは、命令ではなくこの世の苦しみや悲しみにもまれて生きている
 私たち人間を本当に哀れみ愛してくださっている創造主(我々人間を
 創ってくださった神)が具体的な幸せな生き方として示し導いてくださって
 いる御言葉なのだと気づいた。
 悲しく苦しいときは、私を支えて生かしてくださっている太陽や家族や
 友人や隣人に感謝し、それを喜びと感じていよう・・・・
 そして、苦しく将来が不安な時には、とにかく祈ってみよう・・・・
 そして、いま現在、なんとか生かされていることに喜び、感謝してみよう・・・と。
 苦しい時には、下記の讃美歌を思い出し口ずさんでみようと・・・・・・。

 (讃美歌 298番)

 安かれ、わが心よ
 主エスは共にいます
 痛みも苦しみをも
 おおしく 忍び耐えよ
 主イエスの 共にいませば
 耐ええぬ 悩みはなし

 安かれわが心よ
 なみかぜ猛(たける)ときも
 父なるあまつ御神の
 みむねに委ねまつれ
 み手もて導きたもう
 望みの岸は近し

 安かれわが心よ
 月日のうつろいなき
 御国はやがて来たらん
 憂いは永久(とわ)に消えて
 輝く み顔仰ぐ
 命の幸をぞ受けん

 

イエスの言葉「あなたがたは、世に属していない」

 投稿者:Angel77  投稿日:2017年 2月24日(金)11時53分36秒
編集済
   この世をかけひきなしでみると、すざましい生存競争があり、その中で生かされている、人間
もまた世の動物が本来持っている生きようとする本能は公平に与えられている。このため
自分の命の保存のためには、他者を蹴落とし餌食として自分だけが生き残ろうとする生存意欲は
すざましいものである。
ただ、人間社会だけはこうした生き方のベースに一応のルール(法律)は創っており、これに
反しないかうまく潜り抜けたものだけが、かろうじて命をながらえているのが現実であろう。

この弱肉強食の人間社会では、純粋なクリスチャンは恰好の餌食となり、裏切られるか
だまされるか、利用されるか・・・のいずれかも知れない。
福音を述べ伝えるために、親切に訪問しているあるキリスト教派の信徒が、迷惑行為条例違反で
訴えられたり、また、たまたま人生の悩みをブログなどで告白していた女性に男性信徒が親切に
メールなどで答えていたことがストーカー行為にあたるとして注意されたりしているが、本当に
現代社会はなんともすざましい個人主義で利己主義な社会となってきており、もはや古き良き時代の
近隣のこころ温まる触れ合いなどは到底望めない社会に変化している・・・・。

では、クリスチャンは如何に生きていけばいいのであろうか・・・・・。
このヒントとなる聖書の箇所を見つけたので、参考になればと思う・・・・。

  以下ヨハネの福音書15章19節~

「しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。
 それで世はあなたがたを憎むのです」私たちは、この世の基準で自分や人を評価しません。
 天に属する者らしく、「永遠」を価値基準にして生きています。それで人から憎まれることが
 あるのです。でも、何事にも動ぜず、超然としていましょう。憎まれることを恐れてはなりません。
 

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