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Angelさん、ピーメンさん
「姦淫の女」な対する一つの解釈として
>… 具体的には、「男性の人妻に対する、よこしまな思い・・・を
>問題にしている・・・」とのことでした。
とのこと、男性の一人として余り愉快でないですね。聖書のあの場面からは細部が分からないので一般的な場面しか想定できませんが、女性が「姦淫」に走るのは、当時だとすると経済的な事情、しかし、それを利用する男性がいてこその話ですから、女性ばかりに罪を被せる男性社会の悪弊、そんなことが思い浮かびます。
しかし、基本的には一人一人の心の問題で、一人去り、二人去って女だけが残された、ところに、男達の心の痛みを読みとることにしましょうか。
イエスが罪として裁くのではなくて、愛をもって接したことは、女にとって大きな慰めと同時に力になったことでしょうね。
ピーメンさんの話の中で
>また一方、”罪”は全人類共通のもので、実際に罪を犯す人は、
>「たまたまその人に”罪”が現れただけ。」という一見”脳天気?”な
>正教会の教えもあります。
との言葉を聞いて、「罪を憎んで人を憎まず」と言う日本の社会で昔から言われている言葉を思い出しました。
罪を犯した人を声高に責めても、責める人の憂さ晴らしになるだけですよね。誰でも罪を犯すものでたまたま自分は犯さなかっただけ、と言えるでしょうから。
そういうことは、人間社会の知恵とでも言うべきかも知れません。
>”自分が悪くないのに謝る。”というのは西洋の合理主義から言えば不合理でしょうね。
>しかし人間のメンタルな部分を考えれば非常に理にかなったことかもしれないと思います。
>”自分の非を認めて謝る”ばかりでなく、”相手の気持ちを想って謝る”と言うことです。
相手の気持ちを思う、と言うのは「愛」なのでしょうね。汝の敵を愛せよ、もここに繋がるのでしょうか。
私たちは、年を重ねればある程度このようなことを身につけてます。日本人ならば。
でも、難しいのは、それを超えて相手が悪いと思い込み、「相手の気持ちを想」えないような場合です。そんな時は、後から考えると惨めですね。日頃、立派なことを考え時には口にしていても、実行が伴わない、中学生みたいに。
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