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皆さんに
先の私のスレッドを書いたあとで気のついたことです。
「何時の敵を愛せよ」は有名な言葉ですが、今まで具体的にその意味を考えたことがありませんでした。抽象的・観念的な範囲ではとても素晴らしい言葉だと思ってました。
問題は「敵」と言う言葉の持つ強烈さでしょうか。
敵とか味方とか、生活の上でそんな言葉で表現するような相手にほとんど出会ったことがないような気がしますし。戦争しているわけでもないですし(戦争中は乳幼児でしたから)。
しかし、「敵」と意識した人間はいないにしても、苦手な人間とか、気に入らない同僚・上司はそれこそ沢山いました(現在でもいないわけではないです。大人ですから上手に付き合う方法を覚えましたが)。そんな連中に対しては、憎しみとまでいわなくとも避けていました(避けると言うことは「上品な憎しみかも」)。
でも、考えてみたら、自分の気に染まぬ人々とは、イエスの言葉の中の「敵」の範囲にあるのではないかと。彼のあの言葉が自分を苦しめている、と言うような苦手意識とか強く敬遠する心は、彼を敵とみなしているのではないかと思いました。
我々の社会には、「心の持ちよう」と言う生活の知恵があります。イエスの言葉を100%ここに還元すると意味がずれるかも知れませんが、ある部分では一致するのではないでしょうか。
私は、どちらかと言うと躾けの厳しい環境で育てられました。と言っても、当時はそれが当たり前だったかも知れませんが。大きなプラスも得てますが、若干のトラウマも残しています(子供の教育は難しいものだと思います)。
ですから、若い人たちに対しても、後から分かって貰えるから、と厳しさを第一に出す態度が基本でした。それが良いと信じていました。
そんな私も、何時のころか、あるいは、年齢と共にと言うべきでしょうか、まず相手を誉めよう、という考えに変わってきました。
そして分かったことは、多くの若者たちは、その方が喜びをもってなすべき事をし、かつ伸びていく、と言うことでした。意外でしたが、誉めると言うことが、愛の具体的な形の一つだとすれば、愛の大きな力をみたような気がしました。
それを「悟って」から、難しい案件とかいやのことにぶつかっても、その中にプラスの面を見て、それに合わせて行動するように努力しています。何時もうまくいくわけでもなく、ストレスのたまることもありますが。
知らず知らずに「敵」とみなしているいろいろな出来事に対しても、愛が大切だなあ、と改めて実感しました。
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