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キリスト教の特徴「高い倫理性・・・」

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 8月 2日(日)06時31分56秒
 編集済
    パウェルさん ぴーめんさん

具体的でわかりやすコメントをありがとうございます。

パウェルさんの述べられた有名な聖書の箇所「姦淫の女」(ヨハネの福音書8.1〜8.11)
は、教会の説教でもよく取り上げられる箇所です。
私が昔聞いた解釈では、「男性の女性に対する内面的な心の動きが問題なのであって
独身の男性の独身の女性に対する思いを問題にしているのではない・・・・」との
ことでした。具体的には、「男性の人妻に対する、よこしまな思い・・・を
問題にしている・・・」とのことでした。
これは、後世に教会が時代に合うように解釈したのかもしれませんが、若い男性の
女性に対する性的な思いを直ちに姦淫の罪と定めているわけではないようです。

ぴーめんさんの述べられた、お互いが譲り合って世の中を生きていく・・・生き方は
何でもかんでも「訴訟・・訴えてやる!!」が横行している現代社会では大切なこと
だと思います。ビジネスの世界においても、クレーム処理に対しては、法律で
身構えるのではなく、真心で対処していかなければならない・・と思っています。
そうすることが、お客様との溝を埋め、本来なら訴訟によって損害賠償の責任を
とらなければならない問題でも、円満に解決していけるのかもしれません。

このように、考えていくとき、現代社会ではかなり高いハードルと思われる
「キリスト教の高い倫理性も、理解できる」のではないでしょうか・・・・・。
 

リンカーンのことば

 投稿者:ぴーめん(^^♪  投稿日:2009年 8月 2日(日)03時44分28秒
  パウェル兄の投稿から連想したことがあります。
少し長い引用になりますが、某メルマガにあったリンカーンの言葉です。

******************************************************

金持ちを排除する事で、
貧乏人を助ける事はできない。

強みを弱める事で、
弱みを強める事はできない。

質素を妨げる事で、
繁栄をもたらす事はできない。

賃金支払い者の地位を下げる事で、
賃金労働者の地位を上げる事はできない。

階級的憎悪を煽る事で、
同朋意識を高める事はできない。

人々の独創性や独立精神を奪う事で、
個性や勇気を形成する事はできない。

自分自身でやれること、
やらなければならないことを、
彼らの代わりにやってやる事で、
その人を永久に助けることはできない

――エイブラハム・リンカーン

****************************************************

つまり、「一見因果関係がありそうで実はないこと」
とぴーめん(^^♪は解釈しているのですけれども。
言い換えれば、
「他人の罪を裁くことで自分が義とされるわけではない。」
ということになりましょうか。

しかし一方、「おかしいことはおかしい!」といえる勇気も必要だと思います。
また一方、”罪”は全人類共通のもので、実際に罪を犯す人は、
「たまたまその人に”罪”が現れただけ。」という一見”脳天気?”な
正教会の教えもあります。

最近気がついたのですけれども、”知に働けば角が立つ”

ぴーめん(^^♪が大好きなカラオケスナック”S”のママが、
「明日は早いので早く店を閉めたいのに、定時を過ぎても
なかなかお客が帰ってくれない・・・」
と歎いていました。優しいママさんなのでキツく言えないんですね。

その一方でお客に向かって、
「もう今日はおしまい!さあ、帰った、帰った!」
と居丈高に言う焼き鳥屋もあります。

閉店間際に来たお客に対し、
「もう、閉店時間は守ってくださいよ!」
と迷惑そうに言う喫茶店もありました。

どちらも”気が利かない客を責めて”います。

では、どう言ったら良いか?ぴーめん(^^♪は愚考します。
結論は・・・馬鹿げているようでも
「こちらが悪くなくても謝っちゃう!」ことです。

「すみませんねえ、アタシも歌が好きだから朝まで皆さんと歌っていたい
気分だけど、明日早いので閉めさせてくださいな。ごめんなさいね。」
と言えば、
「イヤだ!まだ閉めちゃダメ!」
などというお客はそうはおりますまい。

”自分が悪くないのに謝る。”というのは西洋の合理主義から言えば不合理でしょうね。
しかし人間のメンタルな部分を考えれば非常に理にかなったことかもしれないと思います。
”自分の非を認めて謝る”ばかりでなく、”相手の気持ちを想って謝る”と言うことです。

ある外国人の女性が来日して、
「日本人は自分が悪くなくても(悪いと思わなくても)謝る。」
ことを”不合理”と感じながら、道を間違えたタクシーの運転手さんに、
「すみません、ワタシのコトバ、わかりにくかったデスカ?」
と”謝った”ら、運転手さんも、
「いやいや私の方こそすみません。道を間違えたのは私です。」
と言ってそのあとのメータを止めてくれた、という話を読んだことがあります。

”悪くなくても謝る”・・・・ン???何かに似ている。
”罪無き者の血によって、罪人の罪が清められる。”
・・・キリストの十字架でしょうか?

主イエスも私たち罪人の弱さを理解して下さったからこそ、
罪無き身でありながら、私たちに代わって恩父に”謝って”下さったのでしょうね。

その意味では、クリスチャンは”キリストの使い走り”であるべきですね。
”キリストの使い走り”ができれば大したものです。天使になれます。
”キリストの使い走り”を踏み外して、”神ではなく自分の言うことを人に聴かせよう”
というのがサタンであることは、創世記第三章からもあきらかです。
・・・牧師さんや神父さんと呼ばれる方々にこそ気をつけてもらわなければ・・・

皆さん、立派な”キリストの使い走り”になりましょう!!!
 

「姦淫の女」について

 投稿者:パウェル  投稿日:2009年 8月 1日(土)21時30分39秒
   皆さんに

 ヨハネ8.1〜8.11に書かれている姦淫の女の話はよく知られていて、改めてここでその内容を言うほどのこともないでしょう。

 実は、私は、今までこの話を、「流石イエス様は、パリサイ派や立法学者が陥れようとして連れてきた姦淫の女に対して、逆手をついて彼らを黙らせてしまった、すごい。」、位に考えていました。
 もちろん、その女に対して、罪には定めない、二度とそのようなことをするな、と言う愛情に満ちた言葉も素敵でしたが、軽く考えていました。

 先日、英隆一郎神父があるところに書かれている内容を読んで、強い印象を受けました。
少し長くなりますが、引用します。

「他者を責めることで、自分の中の険悪感をごまかす人は多くいるだろう。…中略…。相手の弱みを見つけて、それに石を投げることによって、自分の不安や流れを隠しているのである。イエスは一人ひとりの内面のおぞましさを見せつけたのである」

 私は、「自分は姦淫を犯したことがないから、聖書のあの場では石を投げる資格がある。しかし、そんなこのことはしないよ(と自慢げ)」、位に思ってましたが、「相手の弱みを見つけて…」と言われると逃れられないものを感じました。

 自分は正しいと思って人を責める時、「自分は間違ってないのだ」と言い聞かせている自分がいます。正しいか否かは神が決めるべきことなのに、神に任せることに耐えられないのです。結論を自分で出して「早く安心したい」わけです。

 自分の不安を人に被せないようにしたいものです。
 

コミュニケーション力を伸ばす子供への愛

 投稿者:パウェル  投稿日:2009年 8月 1日(土)21時00分31秒
  Akiさんに

 子育て支援のイベントとはどんなことでしょうか。残念ながら私には想像も出来ません。
私の父親の年代は子育てには無縁でしたから、それを受け継いだ私も、「子供はこう育てるべき」と言う理屈優先になって、暖かい子育てのイメージが持てないのかも知れません。

>道具をつくるのも目的ではあるのですが、もう一つは子どもたちが
>学校以外で大人や他の子どもとコミニケーションする場を設定して
>いくことです。人間関係をうまくとれない子どもたちが増えています。

 コミュニケーションはとても大切ですね。ゲームマシンや携帯が出来て、「一人遊び」する子供が増えていると言われています。また、学習塾とかお稽古ごとで、子供達同士が遊ぶ時間が無くなっているようです。
 ですから、子供はコミュニケーションが苦手になるのでしょうね。

 先日も、若い人に「趣味は何か」と聞いたら、「言う程のことはないです」と話そうとしません。「どんなことでも良いから」と強く促すと、「ゲームで儲かっていくものがありそれ好き」と話し始めました。そこで、ゲームのことを何も知らない私は、その内容を質問したりしすることから会話が始まりました。そして、「黙っていると話すきっかけもできない。どんなことでも話せば、それが糸口となりコミュニケーションができるものだ」とお説教してしまいました。

 子供が率直に親に甘えられるのはとても大切だと思います。そのためには日頃、親の愛情を十分に受けている必要がありますね。
 そのように育った子供は、大人になり社会に入ってから、必要な人にうまく甘えられるのではないかと思います。
 上司にしても、気張って自己防衛を計っているように見える(本当はコミュニケーションが下手なだけの)若者は可愛くないでしょうから。

 その意味で、子供に対する母親の無条件の愛は、神から与えられた大切なものなのでしょうね。
 

出遅れてすみません・・・

 投稿者:Aki  投稿日:2009年 7月29日(水)13時11分3秒
  ちょっと忙しい日が続いていて、PCに向き合う時間がありませんでした。
どっぷりアナログの世界に浸かっています。

地域活動の一環で、子育て支援のイベントをやっていくことになり、
その第一回がもうすぐあります。夏休みに入った子どもたちを集め、
いろいろな手作りの遊び道具をつくる企画です。
イベントは1日ですが、その準備がなかなかたいへん。
なにしろあまり経験者がいないので、試行錯誤の連続です。

道具をつくるのも目的ではあるのですが、もう一つは子どもたちが
学校以外で大人や他の子どもとコミニケーションする場を設定して
いくことです。人間関係をうまくとれない子どもたちが増えています。
私は近所の方たちがお世話してくれた地蔵盆などを体験して育ったの
ですが、今になって感謝しています。(笑)

パウェルさん
私のコメントに対していろいろ考えていただいて恐縮です。
よくわかりませんが、これは男と女の違いかも知れません。
母が子を守れるように天が与えた感覚だと思われます。
だから母親の愛情は命を守る・・・みたいなところにあって、
父親のように、その子が社会の中で自立して生きていけるように・・・と
いう配慮?教育?はちょっと欠けている部分もあるように思います。
 

子供への愛

 投稿者:パウェル  投稿日:2009年 7月23日(木)21時24分46秒
  Akiさんに、皆さんに

 Akiさんは、7/7の投稿の中で、お子さんが生まれたことに関して

 >・・ でも、生まれたら全然違いました。
 >なんかこの世を生きていく元気百倍!大切な宝物を手にした幸福感で、
 >前に感じた不安は吹っ飛んでしまったのです。

と書かれてますね。
 実は、この部分を読んだ時に、本当にどんなお気持ちなのですか、と聞いてみたくなりました。男と女の違いなのだろうか、いったい何だろうと。
 でも、こんな質問失礼ですよね。ですから、心に留めておきました。

 私には女の子の孫が二人います。前は電車で二時間のところでしたが、息子が転勤したため、今では新幹線と特急で5時間のところなので、随分離れてしまいましたが。
 私の父は、息子のことが目に入れても痛くないほど可愛いようでした。当時私は埼玉に住んでいた、父は名古屋でした。しかし、東京出張の用事をつくり、本当に毎週のようにやってきました。
 孫ができるとそんなものかなあ、と思ってました。
 同僚でほぼ同年代の男も、孫は本当に可愛いよ、と言いながら、三重県から千葉の柏まで出かけていきます。お前でったわかるだろ、と言いながら。

 しかし、私は、孫はそんなに可愛くないです。もちろん、大切には思うし、知育玩具や気に入った絵本があると送ってやりました(小学校入学前ぐらいまで)。

 ときおり会うことがありますが、私は、可愛がると言うより、社会人として一人前に育つように躾けようとまず考えてしまいます。無条件に可愛いと言う感じとは少し違うのですね。
 そう言えば、子供がまとわりつくのも余り好きではないです。一歩おいて、どのように育てたらよいのかなあ、などが頭にきます。

 私が男だから、と言うのも、父と友人の例からすると当てはまらないようだし、ちょっとよくわからないです。

 でも、もうすぐ40代に手の届く娘達は可愛いですよ。チョコレートを買ってくれるし…、そのお返しは少々高く付くことが多いですが。
 大きな子供はよいのかなあ。よく分かりません。

 他人を愛するなどと論じたりしますが、具体的な愛の形となると、なんだかはっきりしないものみたいですね。
 

アリョーシャについて他

 投稿者:パウェル  投稿日:2009年 7月23日(木)20時40分42秒
  Angelさん、皆さん

 カラマーゾフの兄弟のアリョーシャについて、私は、ちょっと違う印象を持ちました。
 アリョーシャは修道院に当然入るものだと思ってましたが、確か、ゾシマ長老だったかだれか修道院側の要職にある人の勧めで、それを止めて俗世界で生きることになったのですよね。単純に、私はがっかりしました。
 その後のアリョーシャの生活態度を見ていて、彼は、周りの人を大切にするし、友達の輪も作っていくし、兄イワンの話し相手にもなっているし、私は、しっかりした人を愛することのできる若ものになって行った、と感じていました。

 ドストエフスキーが最近また注目されてきたと言われているようですが、私には、昔罪と罰を読み、最近になって、亀山郁夫さんの訳で読んだだけなので、大したことは言えませんが。
 ミーシャ(ドミートリー)の冤罪が裁判で覆されるのか、真犯人のスメルジャコフはどうなるのかなど半分ミステリーみたいな興味もあって読みましたから。
 でも、何故スメルジャコフを自殺させたのでしょうね。父殺しはイワンだと言うためでしょうか…

 生半可に議論はここまでにしましょう。

 アメリカ発の大不況で日本もひどいことになってますね。アメリカの「マネー資本主義(NHKの番組でこの言葉を使ってました)」は私には馴染みません。見込みのありそうなところに投資する、と言う側面もあるので、アメリカはベンチャービジネスも育ち(アップルもマイクロソフトもそうなんですね、初めは。日本は、アップルやIBM-PCが成功するのを見て、この市場は安全だとして参画したのですから、遅れをとるのは当然。それはそれで残念。自己矛盾。)、新しい価値を生み出したと思ってます。しかし、マネーのために、全く汗を流すことなく巨万のマネーを動かすことには、日本の文化に育ったものとしては、気に入らないです。

 アメリカに押しつけられた面もありますが、日本の派遣とか構造改革も、もしやらなかったとしたらどうなったか、と言うことがあると思います。
 日本の製造業が一時、中国や東南アジアに進出していきましたね。安い労働力を求めて。しかし、それをまた日本に引き戻したのは、派遣を認めたから、と言う側面もあると思います。
 国内の企業が外国にどんどん出て行けば富みは国内に蓄積されないし、無理に留めても国際競争力が弱く負けれてじり貧になる、あるいは倒産すれば、今の派遣の問題よりも何倍も大きな失業問題を生みかねないし。
 こう考えると、理系で経済にはさほど強くない私には、具体的な解決案が見いだせません。

 苦しい時に、20%,30%の消費税を負担してでも、相互に扶助できるようなセーフティネットを構成することが一つの手でしょうか。ただ、国民が納得しないと行けませんが。
 

ドストエフスキーの心の葛藤・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 7月23日(木)10時16分19秒
 編集済
    ぴーめんさん

ありがとうございます。たしかに・・・・・・・
>「自由競争」と言っても、「セーフティネット」があることが前提。
>それが無ければ、「喰うか?喰われるか?」のジャングル状態になり、神は人間なんぞ
>造られる必要はなかったってこと

そうですね。自助努力・自由競争の行き着く先は、「喰うか?喰われるか?」の
アスファルトジャングルですね・・・・・・・

ところで、前回コメントさせていただいたNHKBSテレビによれば、ドストエフスキー
の作品「カラマーゾフの兄弟」が描かれた時代背景と現代の日本の状況とが酷似して
いるとか・・・・・特に、国家の利益と個人の信仰(良心)の問題を端的に提起している
と言う。圧倒的に粗野で精力的、好色きわまりない父親フョードル(これは、富を
象徴する貴族に置き換えている)
そして、この子供であるミーチャ、イワン、アリョーシャの3人兄弟の行動と心の葛藤を
描きながら、当時のロシア革命の進行を見事に内面的に紹介している。この兄弟の
イワンがドストエフスキー自身とも言われているが、主人公アリョーシャは、世間的に
は聖職者として特異な存在ながら、時代の変遷と共に、感情の起伏が激しくなり、
遂には、信仰の世界とはほど遠い人間に成り下がっていく状態を見事に描いている。

この作品のテーマは、ドストエフスキー自身が最後まで悩み苦しんだ、自分自身の
信仰と社会的正義(この時代では、農奴による、資産家の忙殺と、ロシア皇帝の
暗殺)の正当化(大義のためなら、殺人も許される)であった。
聖職者アリョーシャが大衆の声を聞き、民衆の喚起をしるとき遂に彼自身も
信仰の原点を捨てて、一介の小市民に成り下がっていくのである。
ここに、この世では人間自身の心の奥深くに悪霊が住み着き、ついには崇高な
神への憧憬も恐れも信仰をも喪失させていくのだと・・・・・・・・。
 

”隣人愛”という言葉

 投稿者:ぴーめん(^^♪  投稿日:2009年 7月23日(木)00時26分18秒
  Angel77さん

まったく同感ですね。「自由競争」と言っても、「セーフティネット」があることが前提。
それが無ければ、「喰うか?喰われるか?」のジャングル状態になり、神は人間なんぞ
造られる必要はなかったってこと!
「自集団のみに都合の良い解釈」の縮図は、教会・教団の「囲い込みの実態」にも
あてはまるのではないでしょうか?

私が経験した殆どの「教会と呼ばれる物体」では、隣近所の人々を「隣人」と呼んで
愛するのではなく、「みしんじゃ=未信者」と呼んで軽蔑したり、
「教会員でもない者が・・・」と言って排除するところが多かったですね。
これでは主の十字架を無駄遣いしてしまっています。

十字架のタテの棒が「信仰=神と人との関係」、
ヨコの棒が「信仰による行い=隣人愛の実践」ですから。

実はぴーめん(^^♪は今さっき、”隣人愛”を体験してきました。
”天使と出合った”と言ってもよいと思います。

先日お話した中華料理店の4歳のお嬢ちゃん=Sちゃんとまた遊んで”もらい”まして、
「また飛行機折って!」というので、折ってあげましたが、先日彼女が飛ばした
紙飛行機が厨房に入ってしまって危うく燃えかけたことを思い出しました。

「Sちゃん、折ってあげるけど、飛ばすときはおうちで飛ばしてね。
お父さんが火を使っているから燃えたら危ないからね。お店では飛ばさないでネ!」

と言うとちゃんとわかってくれまして、紙飛行機を持って小走りに走っていましたが
決して手から離しませんでした。

・・・「可愛い上に賢い子だなあ・・・」
と感じて、自分の娘たちの4歳ぐらいの頃のことを思い出しました。
小さい時は私に絶対の信頼を置いて、何でも言うことを聴いてくれていましたね。

この店のご主人=彼女のお父さんは、
「ぴーめん(^^♪さんが来るとSは喜んで席に寄って行く。よっぽど
ぴーめん(^^♪さんを気に入ってるんだよ。他のお客さんではこうは行かない。」
と言ってくれました。本当に小さなことを喜んでくれていたんですね。
・・・思わず涙しました・・・

主イエスは十字架上で、
「自分も”俺たち”も助けてみよ!」(左の盗賊)
「神の国に行かれるとき、”私たち”を思い出して下さい。」(右の盗賊)
という、”盗賊同志の仲間意識という小さな隣人愛”を見て取って、自分を信じた
右の盗賊だけでなく、罵った左の盗賊をも”義”とされた、というのがぴーめん(^^♪
の解釈ですが・・・

・・・なれば、ぴーめん(^^♪のSちゃんに対する”小さな隣人愛”を
見逃す主イエスではありませんね。”ご褒美”として”天使”と出合わせて
下さいました。離れて暮らしている娘たちへの”愛”を取り戻させて下さって
いるのかも知れません。ありがたいことです。

”信仰による行い=隣人愛の実践”は、どんな小さなことでも、あるいは小さい
からこそ、主イエスは見ていて下さっていると感じたぴーめん(^^♪です。

”世界中の60億人の人々が皆家族”になるまで、”小さな隣人愛の実践”を
積み重ねて行きましょう。できることから。
 

普遍的倫理と現実の社会や歴史の変遷

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 7月22日(水)15時51分5秒
 編集済
   いつの時代でもあらゆる宗教の原点でもある、人権尊重・、博愛・自由平等の
精神は現実の社会や政治や歴史の変遷と必ずしも一体であったとは言いがたい。
それは、政治の舞台では「小の虫を殺して大の虫を助ける・・・」・・実践が堂々と
行われてきたからである。キリスト教民主主義の国アメリカ合衆国の決断として
第2次世界大戦末期、世界平和の実現と早期戦争終結の大義のために、広島・長崎に
原爆を投下する決断がなされたことである。このほかにもナチスドイツにおけるユダヤ人
大量殺戮もヨーロッパ統一の名の下に正当化され、ドイツ帝国実現のため現実に実践され
たのである。
このように、歴史を振り返ると世界的規模で、人々の人権は踏みにじられ、博愛と平等の
精神は国家権力の手によってにぎりつぶされて来たのである。

この、「人の命は地球よりも思い・・」とするキリスト教や仏教の教えも、ひとたび
人間の集団(国や国際的な同盟国)に置き換えると情け容赦なく切り捨てられ排除され
ている現実がある。

先日の、NHKBS放送で、この問題をドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」や
「悪霊」の小説から解説していた。
すなわち、もともと人間には、自己防衛のためには手段を選ばない習性があり、どの
ような地位にあり聖職についているものでも、その表現や行動のパターンは異なっても
冷酷さや自己保存欲が内在しているという。
これが、ひとたび政治結社や革命集団になると、自我が顕在化し、もはや聖書や仏典で
みられる信仰の世界からはほど遠いものとなる。革命や秘密結社に無関係のものも、
かかわりを逃れるために傍観者として間接的にはその集団を容認していることに
なると・・・・。

私は、この問題を、日本の政治の数年間に当てはめてみた。自由競争・民営化・自助努力
の名の下に行政改革を勧めてきた政府も、格差社会を拡大させ、貧富の差を増大させ、
落ちこぼれた国民の多くは、自ら自分の命を絶つか、ホームレスとして巷をさまよう
ようになった。そして、人々は仕事とお金を求めて都会へ都会へと移動し始めた結果
地方経済は疲弊し地方自治体の財政は極端に悪化した。
こうした現状の中でも、勝ち組理論と、はき違えた自由競争主義・勝ち組資本主義は
日本中をおおった。
あまりのひどさに気づいた、東京都民や一部の県民は選挙で与党を少数党に追いやったが
第一党となった党も、はたして、普遍的倫理である、人権尊重・、博愛・自由平等の
社会を創造できるか否か依然、疑問である。その自らのマニュフェストは、やはり
その集団にとって都合のいいものに過ぎないからである。
こうした矛盾をはらみながら、人間の社会は、はてしない徘徊を続けるのかもしれない。
そういう意味で、この世は、決して「エデンの園」にはなりえないのかもしれない。
 

作曲者「バダジェフスカ 」のこと・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 7月19日(日)23時36分34秒
 編集済
   パウェルさん Akiさん

私も、YouTubeで瀬田敦子さんの演奏を聞かせていただいて、本当に感情を込めて
弾いておられるのが伝わってきて感動しました。その他、ショパンのノクターンの遺作も
聞かせてもらいましたが、やさしいタッチで映画「戦場のピアニスト」を思わせる演奏
でした。

ところで話は変わりますがこの「乙女の祈り」の作曲者はポーランドのバダジェフスカ
ですが、彼女はこの曲を18歳で作曲したと言われています。
世に知られるようになったのはフランスの音楽雑誌の付録に、この楽譜が掲載されてから
といわれていますが、私が指導いただいたピアノの先生から聞いた話では、彼女は当初
この曲を作ってから、街頭などで直接この楽譜を人々に配って宣伝していたということ
らしいです。
これには、ポーランドの音楽評論家がいまいち高い評価を示さなかったから・・・・とも
言われていますが、彼女が短命で27歳でこの世を去っていることから、結局世にのこった
曲はこの「乙女の祈り」1曲だけだったとも言われています。残りの曲は、あまり演奏会
でも弾かれる事は少ないようです。
 

すばらしいコメントありがとうございます

 投稿者:パウェル  投稿日:2009年 7月19日(日)21時27分23秒
  Angelさん、Akiさん

 私の拙いコメントに、すばらしお言葉を頂き嬉しく思います。男性である私が「乙女の祈り」などと少女趣味みたいな話題を出したもので、少しばかり気恥ずかしい思いをしていたのですが、勇気づけられました。

 Angelさんとお母さんとのお話、とても良いですね。親と子はどこでも初めは対立しますが、また、対立しないようでは自立心が育たないとも言いますから、必要な事ではありますが、それを修復するのには長い時間が掛かりますし、互いに認め合わないまま永遠の別れになることも多いです。それが、この曲を仲立ちにしてなされたなんて、「できすぎた話」とも思えるくらいです。

 でも、私の思いでのそれでもある曲が、Angelさんにとっても心に残る曲であったとは嬉しかったです。

 Akiさんの瀬田敦子さんの紹介も心に響きました。友人を亡くされ、その方の分まで弾くのだと国際コンクールに乗り込んで優勝され活躍されているとのこと、心温まる話です。

 また、Akiさんのお友達がピアノ練習室でよく弾いておられたとか、学生時代のお話だとのことですが、若い時の記憶は何時までも心に残るものなのですね。

 Angelさんに紹介いただいたYouTubeでの瀬田敦子さんの演奏、すっかり昔に気分になりました。昨日の投稿で紹介した演奏は、ずっと穏やかで軽々と弾いていて、私の心の中のそれとは少し違っていました。しかし、瀬田さんの演奏は、私の記憶しているイメージに極めて近い演奏でした。会場で聴いたらもっと引き込まれたでしょうね。目の前で生きている人が弾いていると言う強い印象を受けました。

 ここから先は、私の専門と趣味に近い話ですが、瀬田さんの乙女の祈りをYouTubeからDownloadしました。少し手をいれれば携帯機器でも再生できそうです。

 今朝返事を読んだのですが、この連休あいにく出勤となり今日・明日は仕事です。それで忘れない内にと、急いでの返信コメントでした。
 

乙女の祈り・瀬田敦子さん

 投稿者:Aki  投稿日:2009年 7月19日(日)00時25分1秒
  パウェルさん、Angelさんのコメント、とても興味深く読ませて
いただきました。私もこの曲にはなにか懐かしい思いを抱いています。
学生時代、やっぱりピアノの好きな友人がよく弾いていた曲だった
からです。もう今はない旧館の校舎やピアノ練習室・・・私の記憶の
中だけに存在するあの頃の情景が目に浮かびます。

パウェルさん、すばらしい情熱!テンポがゆっくりでも、きっと思いの
こもった深い音色だったような気がします。また弾いてください。ぜったい!
Angelさんが紹介してくださった「乙女の祈り」を弾いておられるピアニスト
瀬田敦子さんは、40歳をすぎてイタリアの国際コンクールに応募して単身
リュックで乗り込み、優勝された方です。そのコンクールでは教会のピアノ
を公開コンサートふうに何夜も弾き、聴衆に紛れ込んだ審査員が評価する
のだそうです。この方のピアノ大好き!みたいな弾き方が好きで、
以前からサイトに行って聴いていました。瀬田さんは、普通の主婦生活で
ピアノを趣味程度に弾いておられたのですが、阪神大震災でピアニストの友人
を失くし、それからその人の分も弾きたい!とまたピアノに取り組み始めた
とか・・・そのとき、ぐっと音が広がってさまざまな感情がピアノの音になったと
書かれていました。心を音で表現するのはとても難しい・・・と思うけれど、
知らず知らずのうちに音は心を表現しているのですね。
 

「乙女の祈り」の思い出・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 7月18日(土)22時37分43秒
 編集済
   パウェルさん「乙女の祈り」・・・のコメントありがとうございます。

偶然でしょうが私にはこの曲には特別の思いがあります。

私の母は音楽の教師でした。中学校と高校が隣接していたので、母は中・高の生徒に
音楽を教えていました。中学校の教諭で高校は非常勤講師で教えていたのです。
何回か音楽会が開催されましたが母は必ずその中に「乙女の祈り」を入れていた
のです。(母の専門は声楽でピアノは音楽教師として弾いていたようです)
そういうわけで、私は子供心に全曲暗譜するほどにこの曲を知っていたのです。
それから、10年ほどして私が大学に入った折、理系の先輩(男性)がピアノが
好きで大学のピアノ室によく来て、ベートーベンやシューベルトのピアノ曲を
趣味で弾いていました。私は彼に刺激されてピアノの練習を同じ場所でするように
なり、最初に練習したのが「乙女の祈り」だったのです。
ある夏休みのおり、母を連れて大学に行き彼にあわせました。そのとき初めて
母の前で「乙女の祈り」を私も披露したのです。
母には私がピアノを趣味にしていることを内緒にしていましたので、本当に
驚いたようです。(子供のころ、ピアノの練習を嫌がって母の進言を無視してきたいきさつ
がありましたので・・・・・・・)
そして、私をピアノを好きにし、指導してくれた彼に感謝のお礼を言ってくれたのです。
そういうわけで私は、今も時々「乙女の祈り」は弾いています。

下記 ↓ は「乙女の祈り」のYouTube のサイトです。

http://www.youtube.com/watch?v=loJY25HOIr4&feature=related

 

乙女の祈り

 投稿者:パウェル  投稿日:2009年 7月18日(土)21時34分1秒
   皆さんに

 この掲示板のトップを開くとピアノの音が流れていきます。メニューの中には、音楽の広場とかピアノ新曲など音楽の話題が多いので、この話もそれほど違和感のあるものではないと思い投稿します。

 バダジェフスカの乙女の祈りは、最近では滅多に聞くことはありません(少なくとも私は)。私が中学生から大人になってかなりの間、ある化粧品メーカーのコマーシャルに使われていたような気がします。それでよく耳にしました。もっとも全曲となるとそんなに聞くことはありませんでしたが。

 ところが、先日、NHKの気ままにクラシックと言う番組のリクエストに登場しました。リクエストした女性は、子供の頃にピアノを習っていて、母親に、大きくなったらきちんと弾いてあげる、と約束していたそうです。ご存じのようにこの曲は最初オクターブの下降から始まるので、手の小さい子供ではそのままは難しかったと言うことでした。

 彼女の母親は、17歳の時にガンで亡くなり約束を果たせ無かったが、母親の年齢に近づいた今、そのことが思い出され、母親や彼女を支えてくれた人のためにリクエストした、と言うことでした。

 私自身は、ピアノを一度も習ったことはないですが、見よう見まねで、乙女の祈りを弾きたいと強く思い、楽譜を購入し、学校やピアノのある友達の家で、自己流で練習し、なんとか最後まで辿りつく程度まで弾きました。

 今考えると、周りはさぞ迷惑だっただろうと思います。一音一音をきちんと出すなどと言う基礎さえ知らず、多分、テンポはかなり乱れて、聞くに堪えないと思われていたでしょう。知らぬのは本人ばかり。

 でも、楽しみも余りなかった当時、私にとっては、慰めの一つでした。

 何年ぶり、いや何十年振りに、はじめから終わりまで聞いてみて、昔のことを思い出しました。

 音楽は好きだったですが、そんなことをするような環境でもなかったし、なりふり構わず突き進む程の度胸も、もちろん、音楽の実力も無かったので、今の技術系の仕事を本職にした訳ですが。

 趣味にしてもピアノが弾けるとよいですね。リタイアしたら、何かやってみたいと思ってますが、現役の今は、体力が続かず、手が出せません。

 つい愚痴になってしまいました。ご容赦下さい。
 

キリストしゃん信じとったら・・・

 投稿者:ぴーめん(^^♪  投稿日:2009年 7月11日(土)22時59分0秒
  「キリストしゃん信じとったら、悪いようにゃならん!」
(無名のクリスチャン ニコラス兄)
 

どんなことにもよい方向のために

 投稿者:パウェル  投稿日:2009年 7月11日(土)17時53分42秒
  皆さんに

ある対談の中に以下のような言葉がありました

 「なってくることはすべてよしとしないさ。どんなことにもよい方向のためにあるのだから、よい方向に持っていくかどうかはあなた自身」

この対談は

 外尾悦郎、新井満
  「バルセロナ・"サグラダ・ファミリア"の祈り」
   あけぼの 2009.8

の中で、外尾さんが母親の言葉てして紹介していたものです。

 キリストの神を信ずると言いながら、「どんなことにもよい方向のため」とは思えず、不平を言ったり、人を誹ったりすることから逃れることは難しいです。

 この素朴ですが、範とすべき言葉として胸に刺さりましたので、この場で紹介させていただきます。


 雑誌の対談者紹介では 外尾さんは、サグラダ・ファミリア贖罪聖堂専任彫刻家だそうです。新井満さんは「千の風になって」で私は知ってますが。
 

自殺のホットスポットをなくすことの意味

 投稿者:パウェル  投稿日:2009年 7月11日(土)17時43分8秒
  Angelさん、Akiさん、ピーメンさん

自殺者が年間3万人を超えると言うのは交通事故の死者の4倍以上になるわけで大変多いですね。
それに対して、社会全体としての認識や取り組みが遅れていることが指摘されています。
個人の問題してとはどのように対処してよいのか分かりませんが、たまたま、最近出た本で

 河西千秋 「自殺予防学」 新潮選書

があったので、読んでいます。

自殺の名所などと言うありがたくない名前のつけらている「自殺のホットスポット」対策の話が出ていて、それが効果があると紹介されていました。

以下の書物の引用です
 S45年から55年にかけて77人が自殺した東京の高島平団地では、S52年に屋上の封鎖、階段などにフェンスを張るなどして自殺は抑止された
 富士山ろくの青木が原では、最近、富士吉田警察署やクレジットサラ金救済協議会で「いのちを大切に」、「借金の返済は必ずできる」「相談を」などねメッセージと電話番号を書いた立て看をたてて、「生きたい気持ち」に働きかけている

などと紹介されています。

自殺を決意する人は、生きたい気持ちと死のうと言う気持ちが交錯しており、たまたま電車がホームに侵入して来たときに、死の思いに引き寄せられて実行していまう、飛び降りることのできる場面ならば飛び降りてしまう、死ぬことのできる条件があると、実行してしまう可能性が高い、と言うことです。

やはり、この本の中の話ですが、サラ金の借金での自殺未遂の人のケアの中での話では、「自己破産」と言う言葉さえ思い起こさず、ひたすらに死のみを考えていた、とのことです。

 また、車が崖から落ちたなどの交通事故の中にも、あるいは自殺かも知れないと思われる事例があるとのことです。だだ、警察はそこまでは調査しないですから、「事故」の枠にはいってるのでしょうが。

 自殺する人は、周りが見えなくなってしまうのですね。具体的に死を実行できる環境にあると、実行してしまうと。

 そんな人たちに、周りの人が気付いて話しを聞いて、別の道もあると言うことが示されるだけでも力になるのでしょう。

 自殺については、一つの方法ですべて解決するようなものはなくて、地道な対策を一つ一つ行うしかないのうですね。
 

思うこと

 投稿者:Aki  投稿日:2009年 7月 9日(木)23時18分22秒
  芥川が「羅生門」の小説を書くにあたってその題材を求めた「今昔物語」
は12世紀中ごろに成立した説話集だったと思います。
Angelさんが書いておられるように、現代と比較して、なんら変わること
のない世相を思うとき、キルケゴールの言を待つまでもなく、人間の社会
、文明というものが進歩していくという考えは、否定的ですね。

いつの世にも光と闇は交錯し、ときに闇の世界が支配的になる時代がやってきます。
芥川の功績は時代を平安末期におきながら、現代に生きる人間、というより
普遍的に人間というものの本質的な醜さを暴き出したところかも知れません。
下人でなくとも、老婆でなくとも、その心理はあらゆる人間に通じています。
「○○(さる高僧の名前)だって誘惑に負けたじゃないか・・・」
「こういう状況ではしかたなかった・・・」
負の行動を正当化する心理は誰にだってあるし、追い詰められたときには、
知らず知らずのうちにそのようになってしまうかも知れません。

人間は、闇を見ないで生きることは難しいけれど、また闇の裏側に光がある
と希望を抱くことができるのも人間・・・・
もし、現代の世界にイエス様が来られたら、どんなことをなさるでしょうね。
 

小説「羅生門」(芥川龍之介著)に描かれた世界と現代社会

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 7月 8日(水)18時38分40秒
 編集済
  フリー百科事典 ウィキペディア (Wikipedia)によれば、・・・・・・・
小説「羅生門」(芥川龍之介著)のあらすじは下記の通りである。
時代と場所は、平安京が造営されたあと羅城門として建造されたが、、天元3年7月9日
暴風雨で再度倒壊してからは再建されず、右京の衰えと共にこの門も荒廃していき、
国内の荒廃につれて平安京南部の治安は悪化の一途をたどり、洛南の羅城門周辺は
夜ともなれば誰も近付かぬ荒れはてた一画となっていたという。
そうした時代背景と羅城門(羅生門)での出来事である。

 あらすじ
 主人に暇を出されたある下人が、雨の降り頻る荒廃した羅生門の下で途方にくれていた。
いっそこのまま盗賊になろうかと思いつつも踏み切れない。羅生門の上の樓へ入ると、
人の気配がする。それは悪事であると認識してはいるが、生活の糧を得るために死人の
髪を抜く老婆であった。彼女はそれを、自分が生きるためであり、この死人も生前、
生きるための悪を働いたから、髪を抜く事は許されるであろうと言う。
老婆の行為に対し正義の炎を燃やしていた下人だったが、その言葉に決心し、
老婆の着物をはぎ取る。そして「己(おのれ)もそうしなければ、餓死をする体なのだ。
と言い残し、漆黒の闇の中へ消えていった。下人の行方は誰も知らない。
(以上、ウィキペディア (Wikipedia)の原文のまま記載、文中に不適切な語句があるのは
お許しください)
この小説の時代背景と、内容は上記の通りであるが、これを現代社会に照らし合わせて
みると、世相は不況の真っ只中で、この小説の主人公のように多くの国民がリストラ
され職を失っている点は酷似している。しかし、一方で治安は強化されていて、
容易に犯罪は起こりにくい社会となっている。
そういう意味では、この小説に描かれた社会より現代の方が、一定水準以上の
収入を得ている国民にとっては生活しやすい状況になっていると思われる。
しかし、近年の東京秋葉原の無差別連続殺人事件や、今回の大阪のパチンコ店
放火殺人事件を思うとき、こうした逃げ場のない管理された治安社会では
「窮鼠猫をかむ」的な破れかぶれ犯罪が多発していくのではないかと思われるのである。
「羅生門」に描かれた主人公には、まだ事の善悪を吟味する余裕と選択の道が
残されていたようにも思えるのである。
現代社会はもはや、他人のことをかまっていられるような余裕は、リストラされ職を
失った人々にはないのかもしれない。明日どこで寝るか、今日の食事をどうするか
・ ・・・相談する場所も人もなく、ただただ、自殺への道を多くの人々がたどって
いく・・・・・・・・・・・
1年に3万人以上の自殺者(3月以降は1日100人以上の自殺者)を出している日本の
現状を思うとき、このような追い詰められた状況から一部の人々が電車のホームで
無関係の人を道ずれに飛び込み自殺をしたり、今回のようなパチンコ店での放火殺人
事件を起こしたりしているのではないかと思えるのである。

インドでマザーテレサ女史が救援活動を行ったように、日本でも、昨年末、東京で
派遣村がNPO法人と個人のボランティアで開設され、凍死と餓死をまぬがれた
人々が多くいたが、このような輪が全国に広がり、多くの国民が「愛と義」を掲げて
助け合いの輪を広げていくことを願ってやまない。
 

"可愛いネ!”

 投稿者:ぴーめん(^^♪  投稿日:2009年 7月 7日(火)15時52分57秒
  Akiさん パウェル兄

ぴーめん(^^♪は、小さい女の子を見ると
三人の娘たちの幼少の頃を思い出します。思ってみれば少なくとも
ぴーめん(^^♪は娘たちに「スキンシップ」はしっかりやってきた記憶が
あります。パウェル兄が言われるように、

「幼少時にスキンシップが少なかった子供は不安な性格になりやすい」

という話を読んだことがありましたので。
(井深大(いぶかまさる)「幼稚園では遅すぎる」)

ぴーめん(^^♪は小さな子供さんを見かけると、まったく知らない人でも
「可愛いネ!みんなこんな頃があったんだよね・・・」
と声をかけるようにしています。親御さんからは大抵笑顔が返って来ます。
子育ての苦労を少しでも「報われている」と思ってもらえるようにということと、
子供さんの”笑顔”から”α波”をもらおうという意図です。

してみると、一部プロテスタント教派が否定している”幼児洗礼”は如何でしょうか?

「生まれたての赤ん坊に信仰がもてるはずがない。」
という理屈のようですが、実際幼児洗礼式に立ち会った経験から、
司式する司祭さんや信徒さんたちの頬の筋肉は緩みっぱなしになり、

「可愛いネ!お父さんそっくりだね。でも目元はお母さん似かな?
きっと美人(orハンサム)になるよ。」

などと声をかけて親御さんの子育ての苦労うをねぎらうと同時に
「神様に一番近い人=赤ちゃん」
の無垢さをみんなで味わおうという趣旨に思えます。

「幼児洗礼は、教会で浸かる”産湯うぶゆ”」です。
 

愛するという恵み

 投稿者:Aki  投稿日:2009年 7月 7日(火)10時37分56秒
  パウェルさんの「無条件の愛」を読ませていただいて、私もいろいろ
思い当たる事や考えることがありました。
子どもが生まれる前には、いろいろな不安がありました。一番は、自分が
自分以外の一人の人間に対して、ずっと責任を持ち続けなければならないと
いう重圧感でした。もう、自分ひとりのことだけを考えて自由に生きること
は許されない・・・というような・・。でも、生まれたら全然違いました。
なんかこの世を生きていく元気百倍!大切な宝物を手にした幸福感で、
前に感じた不安は吹っ飛んでしまったのです。
育てていく日常では、もちろんいろいろな苦労もあるけれど、
そのパワーは、ずっと存続していきます。

これは、ほんとうに神様がくださった自然の恵みなのだと実感しました。
私たちは、子どもでなくても人と関わっていく中で、善意や感謝や共感や
いろいろな、大きくくくると「愛」と呼べるものを感じ、享受して
「生きるパワー」をもらっているのだと思います。
イエス様の「隣り人を愛しなさい。」には深い意味があるのですね。

私の祖母は、幼児のとき、伯母に当たる人の家に養女に出されました。
そこは宮内庁の役人であった伯父が厳格で、それこそHugなんて遠い夢の
環境でした。だから祖母も愛情表現が下手で周囲の人からは、「冷たい人」
と言われていました。でも、今、私は祖母にも心の深いところに他の母親と
同じような愛情があったと、祖母が私につぶやいたおりおりの言葉から
確信しています。
 

愛は人間であることの最低必要条件かも・・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 7月 5日(日)21時33分47秒
 編集済
   パウェルさんのコメントされた「無条件の愛」の文章は一字一句私の胸にストーンと

入ってきました。私にも幼少のころを思い浮かべると同じような経験があるのでよくわかり

ます。

イエス様がなさったような、全人類への無条件の愛は、神から来る愛として別格のもの

としても、人間には、他者の痛みを霊長類のトップとして分かち合える不思議なDNAが

与えられています。他の動物には自分を犠牲にしてまでも他者のために死ぬと言う遺伝子は

与えられていません。動物の究極の行動は最終的には自己の生命を維持するためには

同胞の命を見捨ててでも、生き残る行動をとるでしょう・・・。

そういう意味で、他者への愛を貫き通し、他者の為に生き抜くことは、人間であることの

最低必要条件である・・・と思えるのです。

これを、見失っている政治家や企業の経営者達はもはや、人間である・・と誇りをもって

言えないのではないかと思えるのです。
 

無条件の愛

 投稿者:パウェル  投稿日:2009年 7月 5日(日)20時38分49秒
  皆さんに

今朝のNHKのラジオ、落合恵子絵本の時間で、「ぎゅっ」と言う作品を紹介していました。「ぎゅっ」というのはhugで抱きしめることです。
絵本に登場する動物たちがみな「ぎゅっ」としている、と言う他愛もないものです。

私はそれを聞いていて、無私の愛だ、と思いました。大人同士がhugすることは日本ではないですが、自分の子供が小さい時には、「痛い、痛い、そんなにぎゅっとしないで」と言うくらいhugしたものでした。

人を愛しなさい、と正面きって言われると構えてしまいますが、愛は、こんな理屈抜きのhugみたいなものにこそ、本質があるような気がしました。

親が子を愛するのは当然だ、と思われていますが、そうでもないですね。親にhugなどを通して十分に愛を注がれなかった子供は、自分が親になった場合、やはり子供に無条件のhug見たいな愛を注げないことが多いようです。
私の母親は、子供に対して愛を素直に表せない人でした。私は、子供の頃とても寂しい思いをしました。親の愛に飢えていました。
母は、詳しいことは語りませんが、実母を小さい頃に亡くしていて、継母につらく当たられたと言うようなことを時々言いました。ほんの断片からの推測ですが。だから、愛を求め続けました。常に、母の話し相手になる人が家の中にいました。子供にとってみれば、親を取られているようなものでした。

このように、愛を十分に受けなかった子供は大人になって、同じことを自分の子供にしがちである、と言うことです。

落合恵子の本の紹介を何気なく聞きながら、この物語がすぐに私の心に入ってきたのは、「ぎゅっ」は小さな愛の表現だけれども、とても大切なものだ、と意識したからだと思います。
 

辻井さんのピアノの温かさ

 投稿者:パウェル  投稿日:2009年 7月 4日(土)17時31分11秒
  Akiさん

辻井さんのことは、私はまったく知りませんでした。今回マスコミに上ったことではじめてしりました。

>彼のピアノの音には、なんか温かさ、優しさがあるように感じます。
>きっとご両親の愛情をいっぱい受けて、彼の音の魂には、「愛」が深く根づいて
>いるのでしょう。

そうですね。温かさ、優しさなのでしょう。ピアノと言うと「バンバン弾く」なんてイメージが私なんかにありますが、彼の演奏には知らず知らずに引き込まれてしまいました。
また、彼を育てたご両親の様子はコンクールのニュースの時に紹介されましたが、立派な方ですね。彼の特徴をごく幼い時から見つけ出し、それをのばされたのですから。深い愛がなければ出来ないことですね。

>
>音楽に才能のある人は、目の見える人でも、この間お話してた…
>「好きな音楽は数回弾くと覚えてしまう」のだそうですね。

羨ましい。私なんか、教会で歌う歌でさえなかなか覚えられなくて楽譜と首っ引きです。聞き覚えだと間違ってしまうし。
教会では伴奏なしなの音は外しで、本当はピアノかオルガンが一緒にあると楽なのですが
 

本当に心地よい音ですね・・・。

 投稿者:Aki  投稿日:2009年 7月 3日(金)12時58分33秒
  パウェルさん、ぴーめんさん、辻井伸行さんのピアノの紹介、
ありがとうございます。

音楽に才能のある人は、目の見える人でも、この間お話してた
ピアニスト、ファジル・サイさんなどおっしゃっていますが、
「好きな音楽は数回弾くと覚えてしまう」のだそうですね。
すごい・・・・。

辻井さんは、子どもの頃からかなり有名でした。友人のご主人が
筑波大で視覚障害のお仕事をされていたので、知っていたのかも
しれませんが、10歳でデビュー、12歳頃には、コンサートも開き、
14歳ではもうオーケストラと共演し、東京だけでなく、神戸や大阪
でも演奏会を開いておられました。
三枝成彰さん、佐渡裕さんなどにとても可愛がられて・・・。
NHKやテレビ朝日でも、何回か紹介されています。

彼のピアノの音には、なんか温かさ、優しさがあるように感じます。
きっとご両親の愛情をいっぱい受けて、彼の音の魂には、「愛」が深く根づいて
いるのでしょう。
ヴァン・クライバーン国際コンクールでの優勝は本当に嬉しいですね。

同じく視覚障害のあるヴァイオリニスト、川畠成道さんのコンサートにも
行ったことがありますが、本当に心、魂をゆすぶられる深い音色でした。
彼はイギリスを拠点に活躍されています。
 

心がなごみました・・・ありがとうございます。

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 7月 2日(木)23時48分7秒
 編集済
   パウェルさん ぴーめんさん

辻井伸行さんのピアノのテレビニュースとそのYouTubeのサイトの紹介

ありがとうございました。

おかげで心がなごみました。音楽は言葉よりも多くのものを心に与えてくれる時が

ありますね。

それにしても、辻井伸行さんのピアノがアメリカのコンクールで認められて

そのことにより、日本のNHKでも取り上げられるようになった・・・とは


なにか淋しい気もします。日本人演奏家の日本人による評価が、先行してしかるべき

と思うのですが・・・・・・。
 

辻井伸行さん

 投稿者:ぴーめん(^^♪  投稿日:2009年 7月 2日(木)22時48分32秒
  http://www.youtube.com/watch?v=aW1yaby0-VE
パウェル兄、↑ですね(^^♪
 

辻井伸行さんのピアノ

 投稿者:パウェル  投稿日:2009年 7月 2日(木)21時42分32秒
  Angelさん、Akiさん、みなさんに

 夕食をしながらテレビのニュースを見ていたら、いつの間にかピアノの曲が流れてきました。あれ、おかなしいなと思って見ていると、先般アメリカのコンクールで優勝した辻井伸行さんの登場でした。
 いつも時事・社会問題のシリアスな問題を取り上げるクローズアップ現代で、国谷裕子さんの司会でしたので少々違和感を感じましたが。

 でも、辻井さんのピアノの音色には惹かれました。まるで別の楽器のように柔らかく暖かく聞こえてきたもので。

 番組の終わりで弾いたショパンの子守歌は、私は多分はじめて聞いたと思います。とても(演奏技術的に)易しい曲に聞こえました。子守歌だからそれでよいのでしょうが、辻井さんの腕がよいのでしょうね。

 私にはこんな程度しかコメントできませんが、思いがけず、ちょっと感動したもので、おしゃべりさせていただきました。
 

日本は変わりつつあるのでは

 投稿者:パウェル  投稿日:2009年 7月 2日(木)21時32分35秒
  Angelさん

 確かに日本は変わりつつあるようです。

 今回の派遣切りで私が最初に思い出したと言うか昔の日本と比較したことは、不謹慎ではありますが、農村の役割でした。私の青年時代はまだ、都会で働いていて職を失ったら農村に帰って居候する、そして、職が見つかればまた都会にでる、そんな雰囲気でした。それが常識だったといってよいかも知れません。

 何も、農村に帰れ、と言っているのではありません。
 日本の社会構造が変わってしまったのです。農村は人がいなくなって荒廃し、失業した息子・娘を支える力はありません。だから、都会でその人たちを支えなくてはなりませんが、社会は、あるいは政治は、そのような仕組みを何ら作ろうとはしてきませんでした。

 その中で、私たちに何が出来るでしょうか。せいぜい、共に語り思いを共感することでしょうね。Angelさんが紹介された「てのひらのうた」の中で歌われているように。


 社会全体が弱い者を見捨てようとしているとは思いませんが、孤独にさらされた人間は追い詰められて、犯罪を犯したり自殺したりします。そのような人を少しでも少なくするために、出来ることをする、共に話すとか、援助しているグループを声をだして応援するとか、そんなことくらいしか具体的には思いつきませんが。
 

「弱い者は死ね・・・!の風潮の中で・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 7月 2日(木)19時32分58秒
 編集済
   今日の朝日新聞の夕刊にホームレスの男性(66歳)を鉄パイプで殴りつけるなどして

重傷を負わせた疑いで14歳の少年が逮捕された。

数年前、私のホームページで同じような事件を紹介したが、現代の世相が、今回の

記事とあわせ、最後の助けを求めに来た自殺覚悟の市民に「死ぬならどうぞ・・・」

と答えた福祉課の職員の話とあいまって、現代社会の風潮が「弱い者は早く死ね・・・!」

の様相を呈してきていることは事実である。(後述のコメントは 6月28日の

この掲示板の 「死なないで・・・!」に詳細に記述 ↓ のコメントを参照ください)

このように、企業も年をとった熟練の社員を,ある一定の年齢がくれば容赦なく切り捨て

追い払う風潮の中で社会全体が「弱い者は死ね・・・!」を大合唱しているように思えて

ならない。

 一体このような社会に希望はあるのだろうか・・・?

教育も、拝金主義・偏差値重視を徹底し、倫理観や道徳観や人間愛は立身出世の

マイナスにつながるとして、徹底した利己主義万能主義を叩き込んだ結果が、上述の

ような、弱い者いじめを面白がる鉄パイプ少年をつくり出しているのではない

だろうか・・・・?

あの、封建主義の絶対君主制であった、安土桃山・江戸時代においても、直江兼継の

ような「愛と義」をかかげる武将がいたことを思うとき、表面上は民主主義と平和憲法を

持つ日本が「自殺世界一」の汚名をもつ、世界の笑いものに成り下がっていることに

憤りを感じざるをえないのである。

この、うっぷんをはらすため、下記のサイトで前回紹介した、「手のひらを太陽に」

とよく似た「手のひらのうた」を見つけたので、紹介します。(下記 ↓ に URL)

上述の私のコメントに少しでも、共感される方は、一緒に歌いませんか(笑)

http://bunbun.boo.jp/okera/tato/tenohira_uta.htm

 

感想

 投稿者:Aki  投稿日:2009年 7月 1日(水)14時03分30秒
  京都では、6月30日は「夏越の祓え」あの昔懐かしい水無月を食べる日です。
昨日は祖母を思い出しながら、水無月を食べました。

Angelさん
「手のひらを太陽に」は曲もいいけれど、歌詞がいいですよね。
これはやなせたかしさんの詞ですが、やなせさんが生み出した「アンパンマン」は子どもたちに人生を強く生き抜く勇気やその強さを支えるものは、「優しさ」であることを教え、ながいながい間、今でも愛され続けているんですよ。
そして、やなせさんは「たそがれじいさんのアンソロジー」という老境の心を歌った詞もつくっておられます。ラジオで聴いていてすごーい!!と思ったのですが、年齢を重ねても、生きることにドキドキする新鮮な感性を持ち続ける素敵な老人の心境を歌っています。幅広い年齢層の心に食い込む言葉には、深い哲学があるように思います。

ぴーめんさん
いつも素敵なお話をありがとうございます。女の子もぴーめんさんが大好きで
お店に来てくれるのを待っているのでしょうね。
私の行動範囲はぴーめんさんのように広くありませんが、数年前から地域の活動に
参加していろいろなことに取り組んでいます。今年は「花いっぱいになあれ」と種から
苗を育てて配ったり、地域の子どもたちと一緒に物づくりに取り組んだり、どんどん
ふくらんできました。(笑)ぴーめんさんによると、これも隣人愛の表しかたの一つと元気が出ます。

パウエルさん
臨死体験についてのお考え、本当にそのとおりだと思いました。
体験しない人はおそらく90%以上、信じていない、信じられないと
思うのです。でも、同時に、心のどこかで、世界に存在するものは、自分が
知覚し得るものだけではない・・・ということも感じています。
ユングの深層心理でいう無意識の中の世界、仏教でいう阿頼耶識・・・
自分でも、はっきりしない、理解できない部分に何か大切なものが
あるのかも知れません。でも、忙しい日常の中に、私たちは、そんなにじっくり
対面しようとせず、日を過ごしているし、それらは、見ようとしても、
姿を現さない、神からの一方的な働きであるような気もします。
 

”愛と希望と信仰と”

 投稿者:ぴーめん(^^♪  投稿日:2009年 7月 1日(水)13時24分23秒
  パウェル兄
>>○奇跡の多くは、「合理的に説明できない」もののような気がします。
>>しかし、それは「存在」するものだと思います。

全くそのとおりだと思います。”愛”も”希望”も”信仰”も
物理的に「存在する」と証明できる代物ではありません。
”色即是空・空即是色”というのもそういう意味だと思います。

”信仰”を”宗教”に貶めてしまうと、
”色即是空・空即是色”が”色即是色・空即是空”
になってしまいます。

「目に見える、科学的に証明できるものだけが存在し、そうでないものは存在しない。」
・・・・”奇跡”は起きません。

✝我信ず、ひとつの神・父全能者 天と地見えると見えざる万物を造りし主を・・・

そもそも、ヘブライで創造主の神の”自己紹介=YHWH”が
”私は在りて在るもの”だったのではないでしょうか?
そして神は、愚かなぴーめん(^^♪にも解るように、”隣人愛”を
体感できる方法で昨夜、示して下さったのだと思います。

ぴーめん(^^♪は昨夜、”隣人愛”を”在るもの”として”体感”しました。
”隣人愛=相手を喜ばせてあげたい、楽しませてあげたい”という気持ちが
伝わり、それ以上の”形”で返って来ました。

”隣人愛”という形のないものが確かに存在し、それが極めて身近なところにある。
なるほど”身近な愛”が”隣人愛”でしょうから。

そして忘れてはならない・・・
ぴーめん(^^♪が正教会に導かれ、パウェル兄と出会って以来の、兄のぴーめん(^^♪
に対する”隣人愛”というより、”弟に対するようなフィレオー”に
改めて感謝!!いたします。”愛は寛容である”のお手本をいつも示して下さっています。

”隣人愛のキャッチボール”は”喜び”を伴うものだと思います。
それあらばこそ、マザー・テレサも奥田知志牧師も、喜びに満ちた表情で
”奉仕”にあたっておられるのだと思います。

そしてぴーめん(^^♪は、Angel77さんの掲示板を、
「隣人愛のキャッチボールができるフィールド」としてプレイしたいと思います。
Angel77さん Akiさん
これからもよろしくお願い申し上げます<m(__)m>
 

宗教法人の悪用について

 投稿者:パウェル  投稿日:2009年 7月 1日(水)10時20分35秒
  みなさんに

 宗教法人がいろいろな面で優遇されていることを悪用する団体は沢山あると思います。そんな事件が報道されると、教会活動をしている私も、私が法人の主催者ではないですが、肩身の狭い思いがします。

 残念ながら、このようなことは避けられないと思います。人間の社会がそういうものだからです。

 宗教法人を利用する団体は、「宗教」ですらないと思います。
 日本では、過去において宗教を弾圧した歴史があります。キリスト教もその中に飲み込まれ、国体に合わせるような「教義に反する」行動をとらされたことがあったようです。

 少しの悪を根絶しようとすると弊害が大きいことは歴史が教えています。

 宗教法人ではないですが、障害者団体をかたった郵便料金の不正利用や、公益法人の宗旨から外れた漢字検定の団体もあります。
 利益に群がるのは、何も宗教法人に限りません。

 それらの糾弾は必要でしょうが、そのためばかりにエネルギーを避けないのも事実です。
 人はそれぞれおかれた立場と条件が違うので、その中で、私の場合ならば、信仰にしたがって生きるよう日々努力する程度しか出来ません。
 

(無題)

 投稿者:パウェル  投稿日:2009年 7月 1日(水)07時56分5秒
  Angelさん、Akiさん、みなさん

 臨死体験について話題がでましたので、簡単に私の考えを。

○臨死体験は、文字通り、死に臨んだ、体験なので、死そのものの体験ではないと考えております。ですから、その時の体験は、文化的・社会的背景を反映することは多いにあり得ます。

○しかし、そのような場に臨んで、明白な体験を持ち帰ること自体は、何かしら、神の働きのようなものがある、と考えざるを得ません。

○私は、理科系の人間なのて、物理的存在、言い換えると、いわゆる科学の力で証明あるいは説明できる、と言ういみでの天国とか来世の存在は信じていません。

○ただ、天国とか来世は、物理的に証明できなければ存在しないものなのか、と言う疑問はあります。私は、物理的に証明できないものが、「存在」していてもよいと思います。存在と言う言葉がすでに、物理的見方の範囲の言葉なので矛盾でもありますが。

○奇跡の多くは、「合理的に説明できない」もののような気がします。しかし、それは「存在」するものだと思います。

○価値観として、物理的合理性が幅をきかせていますが、私たちが生きるためにそれが最善なのでしょうか。
 科学技術の振興には、物理的合理性は大きな力がありました。しかし、それは必ずしも人を幸福にはしてませんですね。
 生きるための価値観は、合理性だけではない、と言うことです。


 以上、とりとめないことを書きましたが、私には、何か超越的なものを信ずる気持ちがあります。と言うより、あって当然だと思っています。
 

”隣人愛”を証しします!

 投稿者:ぴーめん(^^♪  投稿日:2009年 7月 1日(水)04時00分14秒
  Angel77さん Akiさん パウェル兄
つい昨夜、ぴーめん(^^♪が体験しました”隣人愛”を証しましょう。

自宅近くに、上海出身の方が経営している中華料理店がありまして、
そのマスターと懇意になりました。ご夫婦とシェフ、そして4歳のカワイイ女の子が
たまにお店で遊んでいます。女の子は遊びたいのに遊び道具がなくて、雑誌をパラパラ
いじったりしていました。ぴーめん(^^♪はひらめきまして、自宅に買ってあった
パンダの人形を後日持って行ってあげました。手を入れて、パンダの口をパクパク
させられる構造になっています。(セサミ・ストリートのパペットみたいに)

「これに手を入れて、”ニーハオ!”ってやってあげたらお譲ちゃん
喜ぶんじゃないかナ?」

そうしたら後日道で親子に挨拶されまして、とても喜んでくれていることがわかりました。

「自分を歓迎してくれるお店に行けば、癒されるのでは?」

とまた後日出かけて行きましたら、マスターがノートPCを操っていました。
テレサ・テンのファンだというので、youtubeを教えてあげました。
そうしましたら、とても喜んでくれまして、生ビールを二杯もごちそうしてくれました。
http://www.youtube.com/watch?v=6tttrvUzAn4

お嬢ちゃんがいましたので、店のチラシを折り紙にして鶴やかぶとや飛行機を折ってあげたらこれまたとても喜んでくれました。

そして昨夜、ギターを持って出かけて行きました。お客さんの中に、上海に住んだことのある広告会社の会社社長さんと韓国人の青年のお二人のテーブルがありました。

韓国人の青年に韓国語で挨拶して打ち解け、店が空いて来た頃ギターの弾き語りで韓国や
中国の歌や演歌やGSなど歌いましたら、社長さんが喜んで下さいまして、
「私の色んな会合に来て歌って欲しい!」
というオファーをもらいました。もちろん喜んでお受けしました。
その上この社長さんは、ぴーめん(^^♪の勘定まで払って下さいました。感謝!!

一方このお店のマスターは、かなりインテリで色んなことを知っておられます。
” Honesty is the best policy 正直にまさる方針はなし!”がモットーのようです。
だから素晴らしい”出会い”がある。

社長さんには、7月7日(火)の”P”というお店でのぴーめん(^^♪のライブにも
お出かけ下さるようお願いしました。すると何と!不思議なことにこの社長さんは、
”P”のマスターと既にオトモダチだったのであります!!!

さてパウェル兄、
ぴーめん(^^♪のポップココーン七夕ライブにお出かけ頂けるそうでウレシイ!のですが、当日その前に、この素晴らしいお店”N亭”にお連れしたいと思います。
マスターもママさんも良い人ですし、餃子もラーメンもおいしいですヨ!
期待していてくださいね。

・・・・”情け(隣人愛)は人のためならず。自分にも必ず返って来る。”
を実感した夜でした。
 

みんなみんな生きていようよ!! 生きようよ・・・!!

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 6月29日(月)20時15分2秒
 編集済
   パウェルさん ぴーめんさん Akiさん みなさん

パウェルさん本当にお久しぶりです。
時を得たコメントありがとうございました。

そしてぴーめんさん
>自殺者の気持ちは、「死にたい!」ではなく、
>「本当は死にたくない!助けて!」
>というのが本音だと思います。

私もまったく同感です。

いずみたく さんの「手のひらを太陽に」の歌にもあるように
生き物はある意味で友達であるなら、まして人間同士はなおさらです。
その人間同士が、たすけを求めている仲間に対して
「死ぬならどうぞ〜」は、ひどすぎますよね・・・・・・

今夜は、下 ↓ のサイトに行って、大声で「手のひらを太陽に」の
歌を歌いませんか・・・・・
下記のURLが 歌を紹介しているサイトです。

http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/tenohirawo_taiyouni.htm

 

本当は誰も死にたくないです

 投稿者:パウェル  投稿日:2009年 6月28日(日)22時48分10秒
  皆さんに

 自殺者は最後の最後まで助けを求めています。
 自殺をほのめかす人と議論してはなりません。議論は見かけです。
 本当は、助けを求めているのですから。

 私も、若い頃、思春期と言ってよいでしょうが、何度も死を考えました。死の正当化を頭の中で反復しました。もし、話す相手がいたら、死のための理論武装を強固にしたと思います。
 幸い、それは自分の頭の中だけで止まり、死を強烈に求める心の反対側に否定することのできない、死にたくない、と言う気持ちがあることを知りました。
 さらに、死にたいと思うのは、誰かへの当てつけ、言い換えるならば、私を構ってください、と言う求愛のメッセージである、と知りました。

 見慣れないタイトルがあったので、つい、おしゃべりしてしまいました。
 ご容赦を。



 「死ぬと言う人間に本当に死んだ試しがない」とも言われますが、それはとんでもない間違いです。突き放せば、崖ぷちにいるその人に飛び込む力を与えるだけです。
 話を聞き、受け止め、まずその危機を脱することです。

 肉親を自殺でなくしている人は大きな傷を負っています。私の語学の先生もそうです。息子さんは、正月に名古屋の実家に帰り、四日市の駅で死にました。先生は、なぜあのときに気づいてやらなかったのか、と今でも悔やまれています。
 客観的に言うならば、本当に追い詰められ、死ぬ覚悟をした人は、その覚悟が見破られないように周到に行動するので、それに気づくのは難しいです(それでいて、内心は、誰か気づいて欲しいと死ぬほどに願っているのに。妙な言い方ですが)。
 

なぜ”死にたい”のか?

 投稿者:ぴーめん(^^♪  投稿日:2009年 6月28日(日)14時50分57秒
  Angel77さん、

>>この掲示板が、そういう意味で、生きる目的を見失った人々の心のオアシス
>>心の避難所としてはたらくことをのぞみたい。
ぴーめん(^^♪も全く同感!です。

”宗教”ではなく”信仰”です。
そして”信仰”は”信仰による行い”によってそれがあることが示されます。
                          (ヤコブ書)
それはほんの小さな行い、ちょっとした思いやりの言葉かも知れません。
”信仰による行い”は”隣人愛の実践”です。
”信仰”が十字架のタテの棒、”信仰による行い=隣人愛”が十字架のヨコの棒です。
”隣人愛”がなかったら十字架は完成しません。

十字架上の主イエスも左右の盗賊たちが、
「自分も”俺たち”も救ってみよ!」(左の盗賊)
「主よあなたが御国に行かれるとき”私たち”を思い出して下さい。」(右の盗賊)

主を信じた右の盗賊のみならず、「自分も”相棒も”救って欲しい!」と叫んだ
左の盗賊にも”隣人愛;仲間意識”を見て取って、
「アーメン、アーメン、”あなたがた”も今パラダイスにいる。」
として二人とも救われた・・・というのがぴーめん(^^♪流解釈です。
「自分をののしった男は地獄行き!」では、カルト宗教と一緒になってしまいます。
また、「主をののしって地獄行き」ならば、
私なんか何度地獄に落ちても足りません(~_~;)

”隣人愛”をあますところなく発揮してくださった、
幕末に来日された宣教師さんたち。学校や病院を建てて下さいました。
現代では、学校も病院も乱立気味・・・・

なれば、ヘボン先生やウィリアムズ先生が現代にもし生きておられたら、
どんな形で”隣人愛”を発揮されるでしょうか?
やはり年間3万人を数える自殺者を何とかしたい!と思ってくださるのでは
ないでしょうか?

自殺者の気持ちは、「死にたい!」ではなく、
「生きるのがイヤになった。」「希望を失った。」
「本当は死にたくない!助けて!」
というのが本音だと思います。

誰だって愛されるべきいのち。創造主の神の無限の愛を感じることによって、
生きる勇気と希望を与えられるのではないでしょうか?
 

死なないで・・・・!!

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 6月28日(日)11時38分53秒
 編集済
  今朝のテレビ朝日のサンデープロジェクトで、「急増する自殺者」の問題を

取り扱っていた。

警察庁や厚生労働省の調べによると、ここ11年連続で自殺者数は日本国内で

3万人を超えており、特に今年に入ってここ3ヶ月間は、1ヶ月に3,000人を

超える人が自殺している。

この数は1日100人の人が自殺していることになる。

自殺の多い東尋坊で、ボランティアで自殺防止を呼びかけている元警察官の方の談話に

よれば、最後の保護を受けたいと思って助けを求めた役所の福祉課の職員に

「死ぬならどうぞ・・」と言われたとか、本当に索漠とした日本、冷酷非情な世の中

になってきている・・・と警告されていた。

さて、この問題を世界に目を向けてみると、やはり統計上も自殺者が多いのは

日本であり、今では世界一の自殺大国になっているという。

以前、私はこの原因を、政治の貧困と企業の雇用対策以外に、日本人独特の

無宗教・無信仰にも起因しているとコメントしたが、むしろ自殺の要因の根幹には

生きる目的を見失った心の問題が根深くあるように思う。

この掲示板が、そういう意味で、生きる目的を見失った人々の心のオアシス

心の避難所としてはたらくことをのぞみたい。

http://www.j-cast.com/2009/02/11035582.html

 

想像を超えた世界

 投稿者:Aki  投稿日:2009年 6月25日(木)17時16分1秒
  Angelさん
私は以前、聖心会シスター鈴木秀子さんの著書「生かされる理由」の中に、
ムーディ博士の「かいま見た死後の世界」がかなり詳しく紹介されていて
興味深く読みました。

鈴木さんご自身も暗闇の階段の一番上から落ちて臨死体験をされたようです。
印象に残っているのは、トンネルを通過するとき、あるいは光に包まれたとき、
人生のフラッシュバックがおこり、そこで問われるのは、
「愛をもって生きてきたか」だけだというのです。
すべての人の命が、その根元でつながり合い、互いの魂が影響を及ぼし合って
いることに気づくといいます。

鈴木さんはクリスチャンなので、その光をキリストのように感じられると
思うのですが、ムーディ博士が書かれているように、「日本の臨死体験者
たちの中には、この光の生命体を「菩薩」とか「仏」だと解釈したり、
インドであれば、ヒンズー教の神と解釈したりする人もいる」とかいうのは、
うなづけます。
私たちは自分が生きた世界の体験をもとに、想像し、解釈しているので
あって、死後の世界は、我々が「天国」として描く青空のもと、花が咲き乱れ、
美しい音楽が流れている・・・というような物質界の世界ではないかも知れません。

鈴木さんの著書のしめくくりは「死のすばらしさ、生きていることの喜び」
多くの死をまぎわにした人々と付き合ってきた彼女が一番伝え
たいことは、死は決して怖いものでなく、やすらかに次の世界に旅立てる
出発点であるということ、だからその死を迎えるまで、つまり生かされて
いる間はそれを喜びとし、誰かのために存在する意義を日々かみしめて
生きていくことが大切なのだということだと思います。

ぴーめんさん
私も数年前、この歌を紅白で初めて聴いたとき、その歌詞の深さに驚き、
誰が作ったのかなあと気になりました。やっぱり小椋佳さんでした。
この詩にあるような感覚は多くの日本人が持ち得るものだと思います。
「私は○○を信じています・・・」と公言する信仰の持ち方もすばらしい
と思いますが、
そうでなくとも、このように、人間というもの、生きるということの意味を
問い続けている人は信仰を持っているのと同じだと私は思います。
社会学者の鶴見和子さんが「私は宗教に属していないけれど、信仰は
持っている」と言われ、特に病を得てから、自分が大宇宙の中で、すべて
のものと調和して存在しているということを全感覚で実感すると言われて
いたのが心に残っています。
ぴーめんさんのすばらしい声でこの歌の心を多くの方に伝えてくださいね。
 

臨死体験と聖書・・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 6月24日(水)17時53分59秒
 編集済
   Akiさん

 臨死体験の体験がないAkiさんにとっては、死後の天国の聖書の記述やイエス様が
大(おお)真面目で語られた天国の数々の様子をすべて、人間が創りだした、想像力の
世界と思われるのも無理ないことと思います。なぜなら、日本人の大半の人々はAki
さんが思われたと同じようなことを感じられると思うからです。

しかし、私のホームページの随想でも述べさせていただいているように、医学博士で
世界の臨死体験者の体験をもとに書かれた「かいまみた死後の世界」の著述によれば、
その様子は「エデンの園」で語られている聖書の記述に非常によく似ているのです。
なお、この本の著者は、レイモンド・A・ムーディ・Jr博士(バージニア大学病院
の精神科医で、医学博士、また哲学博士という経歴を持っておられます)

これらの、問題を取り扱ったホームページが日本語版で掲載されているWebがありま
したので、もし興味がおありでした、一度たずねられ内容を吟味されたらと思います。
URL は 下記 ↓ です。

http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rinshitaiken.htm

 

 ”山河”

 投稿者:ぴーめん(^^♪  投稿日:2009年 6月24日(水)01時42分25秒
  http://www.youtube.com/watch?v=niwkGW2IJVk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=W3U_mgfoWlA
http://www.youtube.com/watch?v=E8XPVbvktBI&feature=related

Akiさん Angel77さん、

↑は、ぴーめん(^^♪が最近ハマッている歌”山河”です。
作詞 小椋佳 / 作曲 堀内孝雄(べーやん)/ 歌 五木ひろし

♪そしてついには 山河に帰る・・・

というくだりが、Angel77さんの言われる
>>エデンの園は私たちが通常の死に方をして、天国に行くとき、このように創造神の創られ>>た、天地一切のものに融合して溶け込んでいくのだと思えるのです。
という表現とピッタリ一致しますね。

ぴーめん(^^♪の記憶に間違いがなければ、作詞の小椋佳さんは、胃がんで入院
した経験がおありで、いのち〜人の生死というものにことさら問題意識を持たれた
のではないかと思います。
http://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-3a8f.html
 
    (管理人) Angel77
  ぴーめんさん 素敵なサイトの紹介ありgとうございました。
この歌の歌詞を熟読しましたが、ひとつひとつ重みと含みの
ある言葉で人生の原点を語っているように思えます。
人はみな、自然から生まれ、自然に帰っていくのですね。
 

想像力

 投稿者:Aki  投稿日:2009年 6月20日(土)21時29分37秒
  「エデンの園」「永遠の命の世界」Angelさんのイメージは具体的で
わかりやすいですね。(笑)
>天国に行くとき、このように創造神の創られた、天地一切のものに融合して
>溶け込んでいくのだと思えるのです
というところは、私の感覚にもとても近いです。

でも、自然に対する考え方は少し違うのかなと思いました。
>人間が神によって創生され、花も鳥も野や山も人間のために
>神が創造された・・・・

私は、花も鳥も野や山に生きるものも、すべて等しく神が創られたものであり、
人間もその調和ある世界の中に存在するものの一つであるように感じます。
だから、最近の人間上位の考え方、人間が自然を支配できるという考え方には
もう、神の警鐘が・・・。

でもAngelさんがエデンの園をリアルにイメージされるように、
「想像力」は人間に与えられた特権なのですね。
そしてその想像力は人間を幸せにもし、また不安にもする・・・・。
 

続「エデンの園」

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 6月20日(土)11時50分19秒
 編集済
   エデンの園の話は、旧約聖書の創世記の記述であり、現在の人間の
死後に来る世界とはまったく無縁のものと思っていたのですが、先日の
某牧師の説教によれば、天国とはまさにエデンの園そのものであるとの
ことでした。
思えば、仏教で言われている「涅槃」は、エデンの園によくにています。
釈迦が菩提樹の下でみた涅槃の世界は、まさに森や山や川や動物や太陽や
月など、ありとあらゆる創造物が明るく燃えている・・・・一切が生き生きと
燃えている世界でした。
エデンの園は私たちが通常の死に方をして、天国に行くとき、このように
創造神の創られた、天地一切のものに融合して溶け込んでいくのだと思えるのです。
この世では実現できなかった、私たちが一番輝いた(人間はみな、このような時期に
戻りたいと願っていた)青春の真っ只中に帰っていくのです。そして、もはや老いる
ことはなく、病は無く死もないのです。それぞれが個性を持ち生前に成し遂げたいと
思っていた芸術活動や神を賛美する生き方が出来るのです。
お互いがお互いを言葉でなく表情ですべての意思の伝達ができ、その思いは希望は
直ちに現実のものとなるのです。
そこには、何の掟も拘束もありません。創造神の絶対的な信頼のもとで自由に自分の
欲することが瞬時に実現できるのです。
永遠の命の世界とは、まさに旧約聖書にしるされた、「エデンの園」の世界なのです。
 

「エデンの園」の人間

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 6月19日(金)22時58分27秒
 編集済
  「エデンの園」を追われる以前の人間の姿はどのようであったか・・・・
具体的に某牧師が説教の中で語られていたことと今回のAkiさんの
神を感じるときのコメントは共通する部分があるので話してみたいと思います。
エデンの園にいたときの人間の状況は、およそ人間に必要なものはすべて与えられて
いたとされています。もちろん病気も死もありませんでした。欲しいと思うものは
すべて瞬時に与えられました。天地は人間に必要なものを満たすために創造されて
いました。地上を移動するのも、違う場所に移動したいと思った瞬間にもう移動して
いたのです。食べ物も欲しいと思うものは瞬時に目の前に現れ与えられました。
動物も植物もみんな人間の為に用意されていたのです。

日本にも万葉集がつくられた時代には、おおらかな自然と共に生きる人間の姿が
描かれていますが、もともと人間は自然と共にあったと思われます。
そういう意味では、Akiさんがコメントされた・・・・・
>神について議論をしたり、考えたりするときよりも、この美しい花に
>じっと見入るときのほうが神を身近に感じます。
この言葉は、人間が神によって創生され、花も鳥も野や山も人間のために
神が創造されたとする旧約聖書の創世記の記述に近いのではないかと思える
のです。
 

神を感じるとき

 投稿者:Aki  投稿日:2009年 6月17日(水)23時21分2秒
  Angelさん、楽譜、一度見てみますね。でも、新しく挑戦したい
曲が見つかってその楽譜とCDを注文したので(バッハの
「小プレリュードと小フーガ」・・・比較的易しいようです。CDはグールド)
これからしばらくは、それに没頭すると思います。
とにかく暗譜するのにバッハの曲は時間がかかるのです。(笑)

映画、見られたのですね。私は以前のダビンチ・コードのときに、
友人から借りて本を読みましたが、途中でやめてしまい、
今回の映画も興味が湧きませんでした。

最近、神について議論をしたり、考えたりするときよりも、この美しい花に
じっと見入るときのほうが神を身近に感じます。
 

映画「天使と悪魔」

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 6月17日(水)17時31分20秒
  先日、ダビンチコードの続編とも言われている映画「天使と悪魔」を
観たが最初のダビンチコードほどは面白くなかった。
ただ、ローマカトリック教会の強大さや、バチカンの権威と仕組みなどが
よくわかり現代史の勉強にはなった。
映画の中で、かってのカトリック教会が弾圧した著名な科学者への
処刑の事実などが語られていたところは、宗教も巨大な権力と富をもつと
とてつもなく恐ろしい組織に発展する危険性をはらんでいることの実感は
持てた。信仰のテーマは希薄なので信仰を深める目的のため観にいかれると
失望は大きいかも・・・・・・(笑)
 

ショパンのピアノ曲よかったです・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2009年 6月16日(火)22時16分41秒
 編集済
  Akiさん、ショパンの曲の有名な演奏家のYouTube紹介ありがとう
ございました。
ほんとうに、おっしゃるように同じ曲でも弾き手によってずいぶん感じが違いますね。
それから、私が紹介した「オーケストラと弾くクラシックピアノ」は、試聴された
感じと実際に楽譜をみられた感じでは随分違いますので、一度本屋さんの店頭で
楽譜を見られたらいかがでしょう・・・。きっとAkiさんなら、ほとんどの曲が
お弾きになられると思いますよ。
もし、楽譜を買われたらまた弾かれた曲をファイルにしてお送りください。
このホームページでも紹介させていただきます。
 

(無題)

 投稿者:Aki  投稿日:2009年 6月15日(月)17時21分24秒
  がんばってくださいね!

Angelさん、楽譜の紹介、ありがとうございます。行って聴いてみました。
私の弾けるのは、2曲しかありませんでしたが、オーケストラと弾くなんて、
ちょっと考えたこともありません。(笑)

そういえば、いろいろなピアニストのショパンのピアノ協奏曲第一番
(ブーニン、アシュケナージ、ルービンシュタイン、アルゲリッチなど)を
You Tubeで聴いていますが、第一楽章の導入部分で、オーケストラの演奏が
長いので、緊張して待っておられるのが伝わってきます。
それに、最初のピアノの出だしがとても難しいですね。
でも第二楽章はメロディーがとても美しいです。
合わせられるようになると楽しいでしょうね。

ただCDに合わせてピアノを弾こうとすると、ボリュームをあげないと
だめなので、イヤホーンにしないと自宅練習は無理でしょ?

http://www.youtube.com/watch?v=dZU01P2ojhE&feature=related

 

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