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教会のこと・・信仰のこと・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2007年10月31日(水)22時57分45秒
   ピーメンさん パウェルさん のどかさん みなさま

今、お話が教会や教派やそこでの信仰のことに重点が置かれてきましたね。
教派についての思いは、ピーメンさんが書かれた思いと一致するところが
多いです。
そして、キリスト教に限って言えば、究極的には無教会であっても、テレビ伝道や
家庭集会でも立派にエクレシア(キリストの名の下に集まった霊的集団)としての
役割は果たせるのではないかと思っています。原始福音伝道の時代には、コリントや
ガラテヤやピリピ、ギリシャ、ローマとそれぞれの家庭でまたローマにおいては
地下のお墓の洞窟で隠れながら集会をもっていたのです。
現代ではそういう状況のところは少ないと思いますが、でも日本においても
こうした原始福音伝道時代の伝道に帰ろうと・・・しているところもあります。
テレビやインターネットを通じた伝送集会ももたれるようになりました。
このように、メディアの発達や時代の変遷により信仰も集会も変わっていくかも
しれません。
教会優等生でも、年老いて病弱になり教会まで通えなくなれば家庭での集会が唯一の
礼拝になるときもあります。余命いくばくもない終末期には、なおさらでしょう。
こういう意味では最終的には信仰は神と自分の関係に集約されるかもしれません。
その日のために、強靭な揺るがない信仰とイエスさまの内在を確信したいです。
 

献金について

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月31日(水)19時29分35秒
   ピーメンさんのコメントの最後に、献金の話が出てました。
 この件については、人それぞれの経験と立場からいろいろな意見があるでしょう。私については以下の通りです。

 家内が教会に通うようになり、献金をするようになりました。その当時、私は献金がとてももったいなく感じました。もっと少なくてようのではないか、とか気持ちだけでよいのでは、などと思い、多少は口に出したかも知れません。ただ、今となっては記憶は定かではないですが。

 ところが、自分が教会に通うようになって、献金は実に自然で当然のことと思えました。当時、大学生3人を抱えていましたが、特別に苦痛にも感じませんでした。そして、家内に悪いことをしたなあ、と思いました。今でも、自分が献金することについては、精神的な重荷は何もありません。きっと「無理のない」献金をさせていただいているのだからでしょう。

 人は、このように、置かれた立場とか事情によって感じ方かが違う、と言う自分自身の体験です。ですから、私は、他の人に対しては献金をするようになどとは決して言わないように気をつけています。

 余談ですが、開拓教会で独立教会は、財政的には信徒の献金が唯一の収入源です。教会の維持費、電話、インターネット、印刷およびコピー、郵送料などと牧師(およびその家族)の生活費を含めても、30代半ばのサラリーマンの年収程度のところが多いと推測されます。生活上の立ち入った話は聞いたことはないですが、どこもやりくり算段は大変だと思います。ちなみに、前の教会の牧師婦人は塾をしていました。

 先に紹介した「ちいろば」の榎本牧師の開拓教会はもっと大変だったみたいです。建物の入手から始まったのですから。明るく書いては居ますが、それは牧師の人柄なのでしょうね。読んでいてハラハラする部分が多かったです。たとえば、奥さんが実家に帰ってしまったとか…。
 

教派の壁・宗教の壁

 投稿者:ピーメン  投稿日:2007年10月30日(火)22時52分22秒
  のどかさん

ピーメンは色んな教会に行ったんでわかるんですけど・・・
例えば”正教会”でかいがいしくご奉仕した人に、”聖公会”の司祭が
「ありがとう、ごくろうさん!」って言うでしょうか?
教派は人間の造ったものですから所詮陣地ごっこに過ぎないと思います。

”教派の壁は天まで届くものではない!”ピーメン”宗教の壁”もまたしかり。

Angelさんおおかげで、私たちは弘法大師空海も良寛和尚も、
聖フランシスコもマザー・テレサも自由に話し合うことが出来ます。
そしてAngelさんはびた一文金銭は要求されません。それどころか記念品を
頂いたくらいです。あのテレカはブルガリア人の信徒にプレゼントして
喜ばれました。

・・・ああそれなのに”間違った福音”を説きながら多額の金銭を要求する
キョーカイの多いことよ。ガラテヤ書をよく読んでほしいナ。

ガラテヤ書は、主の教えから離れてしまったガラテヤの教会を聖パウロが叱っている書簡。一方浄土真宗の”歎異抄”は、親鸞上人の教えから離れてしまった寺を嘆いている書。
人間のすることの”類似性”ですね。

”ただで受けたのだからただで与えなさい”(マタイ10:8)

福音を説いて金銭を要求するものは基本的に”神の教会”ではないと思っています。
”教派の壁”すら越えられない人々に神を語る資格はないと思います。

http://pimen20040410.seesaa.net/

 

神にゆだねて・・・

 投稿者:のどか  投稿日:2007年10月30日(火)17時20分26秒
  パウェルさんの「バナナ人間」のお話、そしてピーメンさんの「創造主の神様はひとつ」というお話、どちらも今の私にとって何だか心が慰められるお話です。今日の新聞には岩波書店から出された「禅キリスト教の誕生」というのが紹介されていました。「復活」の禅的理解とか・・・
みんな自分の生まれた風土で身につけた感性をもとにして神を模索しているのだと思えました。

ただ、私も大学時代の友人によってキリスト教と出会い、聖書を読んだりクリスチャン作家の文学を読んだり、イエス様の愛について考えるチャンスが与えられ、いまだに関心を持ち続けているのも事実です。無理をしないで、納得できる道を求めて歩んでいきたいと思っています。これからもよろしくお願いします。
 

バナナ人間

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月29日(月)19時36分35秒
    前回の投稿で、ミスのため、Angelさんの余計な手間をかけさせてしまいました。失礼しました。

 皆さんの議論を読んで、その後でラジオを聞いていたら、シンガポールの話をしていて、「バナナ人間」と言う言葉に出会いました。
 シンガポールでは、公用語が、英語、マレー語、中国語、タミル語と四つあり、公文書は英語だそうです。英国の植民地であったこともあり、英語を話す人が一番多いのですが、公用語を英語にしなかったのは、我々は「バナナ人間」にはならない、と言う意識があったそうです。
 バナナは、皮が黄色く、中身が白いです。皮膚がアジア人で心が西洋人にはならない、我々はやはりアジア人だ、と言うことです。

 この言葉を聞いて、私のキリスト教はまさに「バナナ人間」的だと思いました。もっとも、この場合には外身はキリスト教で、中身は別もの、と言うニュアンスです。入信するまで50年の間に培われた日本社会の文化と意識はどうあがいても抜けきらないです。信仰の話をするときに、「お天道様」を持ち出すのも、それが私にとって自然だからです……

 しかし、「世界中に述べ伝えよ」と使徒達を使わされた主のことですから、そのようなことは織り込み済みで、もっと寛容であるとは考えてますが。
 そうは言っても、この教えは外からきたもの、と言う意識はぬぐえないですね。遠藤周作氏の場合とは逆での意味で「脱げない衣」です。

 キリスト教が外から来たものであるとしても、日本の社会に根付くためには、日本の文化を尊重しなくてはなりません。プロテスタントの教会では、お葬式のとき「焼香してはならない」などとか、死者に手を合わせるな、など言うことがあります。葬式に出向いて焼香しないで済ませることは難しいですね。特に、近い関係の場合には。
 極端な話では、伊勢神宮に行ってはならない、と言う話を聞いたこともあります。知人と伊勢に行って、神宮に自分だけ行かない、と言うわけにはいかないですね。私は、先日長野市に行った折り、善光寺を見てきました。もっとも、工事中で、門の中に入った程度でしたが。

 ピーメンさんが、キリスト教と仏教のつながりを強調されるのも、気持ちは同じでしょうか。
 

続 「信仰とは・・・」

 投稿者:Angel77  投稿日:2007年10月28日(日)21時39分30秒
   のどかさん パウェルさん みなさま

パウェルさん
>どう見ても自分の得にはならない、しかし、神様は見ていて下さる

パウェルさんが書かれたように、信仰の原点は、他者に対する損得を抜きにした愛だと
思います。

また、のどかさんが書かれた
>ブランドの信仰を自称する人の中にも拝金主義、権威主義の人はいると考えています

確かに、おっしゃる通りです。
でも、私がコメントした「のどかさん みなさまへ 」の箇所の真意(言いたかった事)は
日本中、いや世界中の人々の信仰の様子を客観的に見つめたり評価したりする以前の
問題として、個々人の信仰への思い入れのようなことだったのです。
そういう意味では妻帯して、世俗の暮らしをし、子供のお受験のために奔走せざるを得ない
プロテスタントの牧師は、どうしても世俗のしがらみから抜け切れない宿命のような
ものをもっているかもしれません。宗派を問わず、この問題は、心から神仏に帰依し、昔の
僧侶やキリスト教伝道者がそうであったように、本当の意味で出家して世俗を離れて
いるか否かが問われるかもしれません。(この話は、指導的立場にたつ、聖職者の
話ですが・・・・)
したがって、プロテスタントの牧師を論ずる時は、この辺の原点から話をはじめないと
いけないかもしれませんね。
 

”創造主”と”宗教”

 投稿者:ピーメン  投稿日:2007年10月28日(日)21時34分36秒
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%AD%9D%E5%BE%B3
↑スーパードクター 福島孝徳先生の情報

Angelさん のどかさん パウェル兄
”創造主の神様”はひとつ。宗教によって呼び名が違うだけ・・と言うのが
ピーメンの考え方です。これは玉木先生のご友人の石川牧師と言う方の
受け売りですが。「人間の言葉が不完全なので色んな呼び名があるだけ」

パウェル兄やピーメンは正教会に導かれたので、”創造主”を”父と子と聖神”
と呼びます。み子は”主イイスス・ハリストス”
一方、先日ご紹介したニッコリ笑って”ありがとね!”の福島孝徳ドクター
は、父上の職業が明治神宮の神官だそうです。神道の神様とともに
困難な手術を成功させていると・・・

「ひとつの創造主の神様を特定の宗教が独占できるものか?」
という疑問を正教会の神父に投げかけましたら、
「ウーン、それは難しい神学的問題だね。答えはNo.としか言えないけど
それと特定の宗教に帰依することをどう折り合いをつけるか???」
と、神父も悩むような問題ですね。

ピーメンは、ニッコリ笑って”ありがとね!”の福島ドクターと共にいる
神様は、自分が見上げる創造主と同じだと思っています。宗教が違うこと
よりも、福島ドクターの信仰と自分の信仰がどう繋がって来るか?

正教会〜ネストリウス派〜景教徒〜泰一族〜日本の神社の造営
という線を考えています。歴史の長い神社は、ユダヤのシナゴーグそっくりで
ユダヤ教のラビ:マービン・トケイヤーさんが驚いたそうですから。

共通の”創造主”を見上げることから、信仰に”ロマン”がもてるかと思います。

正教会にはブルガリヤ人の信徒がいまして、”ナイスガイ”です。一方以前
時々立ち寄っていたトルコ風サンドイッチを売っていたトルコ人の青年も
”ナイスガイ”でした。ブルガリアとトルコには国境がありますが、
ブルガリアVSトルコ紛争など聴いたこともありません。宗教の違いが即
争いに繋がらない格好の例だと思います。どちらも”アブラハムの子孫”ですから。

新興宗教に関しては、行動に現れる”カルト”と教理が一致しない”異教・異端”
があると思いますが、”カルト”だけでなく”異教・異端”も弱い自分を守る
ために、争うのではなく”一線を画す”必要もあるというのがピーメンの実感です。

http://pimen20040410.seesaa.net/

 

信仰とは Angelさん、のどかさんに

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月28日(日)21時06分26秒
  信仰とは Angelさん、のどかさんに  投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月28日(日)20時53分18秒
   Angelさん、のどかさん、みなさんに

 どうやら、話が信仰とはとか魂の救いとは何かと、難しい問題を含んでいるようですね。

 たまたま今日の教会の説教では、現代は個の尊重の行き過ぎで一人一人が自分のことばかり考えて、周りの人に対する愛が足りない、と言う話を、金持ちとラザロの話を元に話されました。

 過去において、人々が惨めな状態に置かれた歴史があり、それからの脱却として、経済的な豊かさと共に個性の尊重などと、他の人に対する目配り、あるいは、社会は共同で生きていると言う視点を欠いた状態が優先されているようです。

 そんな中で、私たちは、周りの人に対しても愛をもって接する、その精神的な支えを神に置く、と言う考えが信仰の一つのとらえ方でしょうか。
 損得で考えれば、どう見ても自分の得にはならない、しかし、神様は見ていて下さる、と言うことでしょうか。
 でも、私が子供の頃には、「お天道様がみてなさる」と言う言葉があり、良いことも悪いこともすべてお見通し、と言う意識がありました。これも、広い意味で宗教でしょうか。

 話変わって、のどかさんのお母さんの反応は、そう特別なことではないですね。私の娘達も、何回かは教会に足を運びましたが、何か馴染めないらしく足が遠のきました。
 私は、自分の事(家内の勧めにもかかわらず頑固に教会の門をくぐらなかったこと)があるので、それ以上強くは勧めませんでした。
 
    (Angel77より) パウェルさん

いつも、心あたたまるコメントをありがとうございます。
上記のコメント文の後に、のどかさんと 私(Angel77)が
コメントし投稿した記事がそのままくっついて、書かれて
いましたので、その部分は、重複しますので削除させていただき
ました。パウェルさんが、コメント文を作られる時の参考として
コピーされたのが、そのまま残っていたものと思われます。
ご了承ください。
 

エホバの証人について

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月28日(日)15時32分26秒
   Angelさん、みなさんに
 Angelさん、のどかさん、「ちしろば」感想文に対するコメントありがとう御座います。

 さて、Angelさんのコメントの中にエホバの証人に関する話がありましたので、投稿します。

 私の大学の同窓生に、エホバの証人に入信している人がいます。彼とは現在では年賀状くらいの付き合いですが、かって私が職場の問題でノイローゼ状態に陥ったときに、当時関東に住んでいた私のところに、新幹線に乗って訪ねてくれ、一晩話しました。
 その当時は私は宗教には積極的ではなかったので、入信はしませんでしたが、文語訳の聖書を頂きました(エホバの証人はまだ一般の聖書を使用していました)。残念ながら、ほとんど読むことなく、現在も書棚にあります。文語訳で読みにくいのが一因です。

 私が教会に通うようになってから、エホバの証人の人がたびたび訪れます。複数の人が来て、互いに所属するグループが違うようです。話をするときもあり、すぐに帰って貰うこともあります。

 エホバの証人の人たちは、自らを「クリスチャン」と称していますが、私の知る範囲では以下の点が異なります。
 1.イエスの架けられた十字架を「杭」と呼んで、十字架を認めない。
   エホバの証人の人たちはその後かれらの独自訳の新世界訳聖書を使用
   していますが、その中で、口語訳等の聖書で十字架が出てくる部分を
   対照すると、「杭」になっている。
 2.三位一体を認めない
   イエスは神の子であり、神とは違う。
 まだあるかも知れませんが、私の知っているのはこの2点です。

 十字架と三位一体の否定では、キリスト教の仲間には入れませんので、私も彼らを「クリスチャン」とは呼べません。

 エホバの証人が配っている「ものみの塔」という雑誌があり、ときどき読むことがあります。その内容はプロテスタントの教会が配布するパンフレットの内容です、と言ってもよいようなものが大部分です。
 今手元にあるものの中に、「褒めることの大切さを忘れてはなりません」と言う記事があり、聖書の中で人を褒めることの大切さがどのように説かれているかを聖句を引用して述べています。この話は私も同感です。

 十字架を杭にするなどの部分を覗けば、私が見た範囲内では、新世界訳と口語訳等の聖書に余り違いはないです。もちろん、すみからすみまで比べた訳ではないですが。

 彼らが「聖書のみをもとにする」と言う立場は、形の上ではプロテスタントのそれと共通しています。ですから、ある意味で、プロテスタントの信者がエホバの証人に取り込まれることは大いにあり得ます。
 前の教会の牧師はそれを警戒していました。しかし、彼らが熱心に伝道する点については、羨ましいと言っていました。我々信徒が彼らほどには熱心に伝道しないもので。

 エホバの証人をカルトと呼ぶ人もいますが、カルトの定義には入らないような感じがします。囲い込みと強制が彼らから感じられないからです。

 また、かれらが訪問したとき、十字架と三位一体の話をして私とは立場が違うことは明示しますが、熱心に伝道している彼らを侮辱する気にはなれません。決して押し売りはしないからです。断ればすなおに帰っていきますし。

 こんなところが、私の知っているエホバの証人と彼らに対する現在の私の考えです。
 

私の思うこと

 投稿者:のどか  投稿日:2007年10月28日(日)15時04分15秒
  Angelさん、怒らないでくださいね。ここは本音トークができるところだと思って
私も思っていることをそのまま書きます。
確かに、母は若いときに子どもを亡くした人なので、地蔵尊への信仰や自分を守ってくれる母の霊などを強く信じているので、キリスト教の救いを必要としていなかったのかも知れません。信仰に本人の積極的な救われたいという意思が尊重されるというのは、そのとおりだと思います。

Angelさんの書かれている後半部分を読むと、信仰を持たない者は霊の目が開かれておらず、権威ある者が絶対で、即拝金主義のような印象を受けますが、私はブランドの信仰を自称する人の中にも拝金主義、権威主義の人はいると考えています。母は長年一人で生きてきた中で、そういうものに敏感な感覚を持っていて、本当に神のような慈愛を持つ人とそうでない人を鋭く察知しているのです。そのような自分の信じられるもの、ある意味真実を見分ける力も私は信仰と等しいものと考えます。

着ている衣、唱える祈りの言葉、教会へ通い神を讃美するなどは、すべて「かたち」です。
「かたち」の中に真実がある場合もあるでしょう。しかし、そうでない場合もあると私は感じています。
単純で素朴な神への思いを見失わないで生きることこそ大切で、これはAngelさんが良寛さんの信仰をお手本にと書いておられるのと通じていると思うのですが。
 

のどかさん みなさまへ

 投稿者:Angel77  投稿日:2007年10月28日(日)11時16分19秒
 編集済
  のどかさんのお母様に関するコメント読ませていただいて、感想を書きます。
この牧師先生のケースは、よくあるケースで現在の日本の教会の牧師先生の
態度の大半がそうだと思います。これは、悪いとか良いとかの問題でなく
教理の問題だと思います。日本のプロテスタントの多くは個人の信仰に関しては
予定説をとっており、この意味で牧師は求めてくる者には、手を差しのべるが
一応お誘いしてみて反応のない人に対しては、予定されていない人として、それ以上の
コンタクトは積極的にとらず、本人の自由意志に任せると言うのです。
このことがいいのか悪いのか私にも即答はできませんが、ただ、ひとつだけ
言えることは、イエス様の伝道自体が本人の積極的な救われたいと言う意思を常に
尊重しむしろそれを確認されて始めて、癒しや奇跡の救いの手を差し伸べられることが
多かったことです。目の見えない人に対して「目が見えるようになりたいか・・・」と
確認され、病の床に伏せって立ち上がれない人に対して「起きて立ち上がり歩ける
ようになりたいか・・・」と本人の意思を確認されていることです。このように我々の
信仰も本当に求め救われたいと望んでいるのか、それとも、やはりこの世のお金や医者や
権威あるもののみが絶対であり、宗教などは、心の自慰行為に過ぎないもの・・・と
潜在的に思い込んでいる場合もあり、そういう人々は、ある意味でまだ、本当に霊の目が
開かれていない状態だとも思われるのです。信仰は、自分自身の問題であり自分自身の
生き死にの問題なのです。牧師の態度や教会の状況の問題ではないのです。
私は、拝金主義から脱皮できない日本人にとって、真の信仰を得るためには、生きるか
死ぬかの切羽詰った自分自身の問題として、信仰と救いの問題をとらえるとき、不思議に
イエス様との出会いがあるように思えてならないのです。
 

ある牧師さんの話

 投稿者:のどか  投稿日:2007年10月27日(土)15時18分21秒
 編集済
  Angelさん、パウェルさん、ピーメンさん
昨日、帰って来ました。またよろしくお願いします。

パウェルさんの紹介してくださった榎本牧師さんのお話、具体的に書いていただいたので私にも内容が少しわかりました。なにより、それを読まれたパウェルさんが「忘れていたものを強く思い出しました。」と書かれていたので、熱い思いの込められた本なのだと・・・。

私には深く存知あげる牧師さんはおられませんが、宗教に限らず、師というものは、派閥や所属している組織に関係なく、個人としてその方が尊敬できる方であるかそうでないかで判断されるのではないかと思っています。自分が惹きつけられる、この人になら付いていけると思う素晴しい師に出会えた人は幸せですが、なかなかそううまくはいきません。

ただ信者でない者が宗教家をどんな視点で見ているかという例を一つ。
私の母はずっと長年住み慣れた神戸で一人暮しています。一昨年、教会のすぐ隣に引っ越したので、
「機会があったら行ってみたら」
と話しました。祖母が昔、聖公会の教会でオルガンを弾いていて、そこで暮したこともあった母なので、教会には懐かしい思いを持っていたようです。
引っ越してしばらくした時、牧師さんと目が合い、「教会に来られませんか?」と声をかけてもらったようです。でもまだ心が決まらなかった母が躊躇してはっきりお返事をしなかったからなのか、次に会ったときは、目をそらし、挨拶もされず、そのままで今に至っているようです。日曜日には大きな車が何台も止まり、信者さんたちが集まるようですが、母には馴染めない教会のようでした。

そして母はいつか大きな荷物を持っていて転んだとき、助けてくれ、荷物を家まで持ってきてくれた白い作業服の男の人の名前を教えてもらえなかったと残念がり、もう一度お礼を言いたいのだと話していました。そして自分が本当に困ったとき、助けてくれるのは、宗教家ではなく、近所の優しい人なのだと言い、教会の掲示板に掲げられる聖句と教会の人の態度は一致していないのだと力説していました。(頑固な母です。笑)

私の感じたのは、教会とか、牧師(神父)とかの鎧や着物は、一般の者とキリスト教というものを隔てる役目をしてしまうこともあるということです。伝道のときに、有効ではないのかも知れません。その衣を着ておられるだけで、近付き難く敬遠してしまう者が多いのです。
あの、親切にしてくれて名前も教えないで去っていった白い作業服の男の人がクリスチャンだったら、母は教会に入っていったかも知れません。
 

開拓伝道型牧師とサラリーマン牧師

 投稿者:Angel77  投稿日:2007年10月27日(土)08時44分23秒
 編集済
   パウェルさん ピーメンさん のどかさん みなさま

パウェルさんのコメント読ませていただき、私にもいくつか納得できる
箇所がありました。それは、色々な教会で、それぞれ異なった性格の
牧師先生がおられると思ったことです。
まず、カトリックとプロテスタントの聖職者の違いですが、前者は、外から見た
感じにすぎないかもしれませんが、カトリックの神父さんの場合は、私が
クリスマスの音楽会に招待されて行かせていただいたときの印象では、真冬だと
いうのに素足でおられたことでした。そしてお祈りは、祭壇にひざまずきほとんど
ひれ伏したような敬虔な祈りでした。私が帰るときは門のところまで薄着のままで
ついてこられ送っていただきました。まだ、30才代の若い神父さんでしたが
一生独身で神に仕える覚悟のできた敬虔な聖職者のような印象を受けました。

次に、開拓伝道型のプロテスタントの牧師先生で印象にのこっているのは、伊豆
大島で開拓伝道をされ成功された牧師先生の講演会を聞きに行ったときの印象です。
その、牧師先生のお話もすばらしかったですが、後の懇談会で討論会のような場が
あったとき、一人の信徒が「私は、エホバの証人の信徒のように熱心に個別訪問して
伝道するようなことは、恥ずかしくてできません・・・」「あのような伝道の仕方は
適切なのでしょうか・・・・」と質問されたとき、私は心の中で、我々は「エホバの
証人」は、異端の教派だと教会教理で教えられているので、多分その牧師先生も我々の
教派に属しておられるので、きっと「そうですね」「あのようなおしつけは考えものですね」
・・・と言うくらいの答えが返ってくるものと思っていました。・・・がしかし
以外にもその牧師先生の言葉は、「エホバの証人の信徒の方はすばらしいじゃないですか」
「信仰に燃えていれば、自然に飛び込みの戸別訪問くらいして、良き福音を述べ伝え
たくなるものですよ・・・・」とおっしゃったことでした。
私は、この超教派的な牧師先生の言葉に感動するとともに、やはりこの先生は、開拓伝道
され福音伝道の大切さを会得されたすばらしい牧師先生だと感じたのでした。
サラリーマン型牧師については、説明の必要がないと思いますので省略します。(笑)
 

「ちいろば」を読んで

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月26日(金)20時25分41秒
   皆様に
 榎本牧師の「ちいろば」は、私は知らなかったのですが有名な本で、この掲示板でもすでになんども話題になったかも知れませんが、はじめて読んだので感想を述べます。

 この本のはじめの30ページ余りは、驚きと、開拓教会の雰囲気とに飲まれました。
 榎本師は、満州から引き上げて、これからの人生をどうしようかと考え、同志社の神学部に入学します。その辺りのいきさつと、大学にはほとんど行かず、伝道所をつくり牧会し、会堂を建て保育園を併設するなど、私のような凡人には考えもおよばないことをなします。
 まったく圧倒されるばかりです。

 特に驚いたのは、戦後のどさくさの中、買い出しに行き、その途中で闇屋のおばさんから預かった魚を、そのおばさんが警察に検挙されたので返すに返せず、そのまま持って帰り、世話になっていた牧師さんの家で、振る舞います。
 しかし、どのようにして入手したかを牧師に問われ、ありのままを答えると、不機嫌になり、「君はまだ罪が分かってない」と言われます。
 そこで、罪の悔い改めのために、それまで犯した数々の罪を手紙にしたため、神学部のA先生と両親、そして後に結婚することになる女性に送ります。

 私は、教会に行くと、痛悔として、神父の前で、その前の痛悔以降に犯した自分の罪を告白します。でも、それが神の前の本当の告白になっているかと問われればとても自信がないです。本当の告悔になってないです。まして、書いたものにして両親に示すなど、正気の沙汰とは思われません。
 でも、本当に神の前に赦しを乞うならばそうでもしなければ駄目でしょうね。

 本のはじめの部分を読んでもう一つ感じたことは、開拓教会の熱気を思い出したことです。私が今の教会に転会するまえはプロテスタントで、牧師が自分で素手で開拓して築き挙げた教会です。ですから、週何度かの祈祷会とか、信者達の集会とか、折に触れての祈り、互いに告悔も含めた神の恵みの証しなど、日常的な活動でした。ある意味で、熱気にあふれていました。
 今の教会は、伝統と組織があるので、その意味で熱気が感じられないですね。私も含めて、受け身になり、本当に神と接していると言う意識が薄くなっています(本当はそれを求めて転会したのですが)。

 そんなわけで、忘れていたものを強く思い出させました。

 こんな調子で全巻続いたら、途中で読むのを挫折したかも知れませんが、その後の話は、教会でのいろいろなエピソードなどになり、榎本師も、普通の牧師だなあ、と安心して楽しく読めました。

 それらの話の中では、困難な時に、かならず真剣になって祈っています。祈りを忘れがちの私には強いし刺激になりました。
 たとえば、最初の会堂を建てたときの借金の返済20万円の返済を求められたとき、その当日の朝まで現金0だったのに、祈りの結果としか思われぬ出来事が次々に起こって無事に返すことが出来ました。
 その返済を受けた人も後には、神に用いられるようになったと紹介されています。

 また、こんな話もありました。榎本師がまだ自分で伝道を始める前に世話になっていた牧師は、祈祷会のとき、たとえ参加者0でも、説教を大声でなしていたそうです。人に聞かせるのではなくて、神に捧げる、と言うことです。
 榎本師も、今治での集会で人が集まらない時にも、めげないで説教を続けたそうですが、後年、その今治に新しい伝道所が起こされるニュースを聞いて、神は用いられたのだ、と述べています。

 「ちいろぱ」はピーメンさんのメールがきっかけで読み出したのですが、久しぶりに入信したころの初心に戻ったような気になりました。
 

Amazing

 投稿者:ピーメン  投稿日:2007年10月25日(木)01時26分15秒
  ピーメンが大好きな Amazing Grace
この歌を歌いたいがためにクリスチャンになったと言っても過言では
ありません。

18世紀の奴隷商人ジョン・ニュートンと言う人が、当時は禁止されていなかった奴隷貿易に手を染めながら船が嵐に遭っことを契機に人の尊厳を踏みにじっていた罪を悔い、英国国教会の司祭になることができ、住んでいた土地の地名にちなんでオルニー聖歌集というものを作り、その中に彼が作詞したAmazing Graceが含まれていたのですね。それがアメリカにわたり、奴隷だった黒人クリスチャンに伝わった。

奴隷だった人たちも教会で礼拝はできたので、この歌を歌い継いで
それを支えに生き抜いてきた。

ン?何か似た話があったな・・・レゲエミュージックの店”ベンガル”をやっているマスターの大ちゃんから、ジャマイカでは奴隷だった人たちがレゲエのリズムを編み出してそれを支えに生き抜いてきたという話を教わったんだったっけ・・・・

そして、ジョン・ニュートンは捕らえて来た黒人奴隷たちを”三角貿易”でジャマイカに売りさばいていた・・・・

・・・と言うことはですよ、ニュートンが売りさばいた奴隷たちがレゲエミュージックを作り出したということですよ!

ピーメンの中でAmazing Grace とレゲエミュージックが繋がって来ました。ならば大好きなAmazing Grace をレゲエのリズムでやってみたい!Amazing Graceをレゲエのリズムでやることに大きな”意味”があります。

そう思って大ちゃんの店”ベンガル”に行きましたらば、
「ピーメンさん、レゲエのAmazing Graceはずいぶん色んな人がやってますよ!」とのことでした。

名古屋の”レゲエの大御所=ベンガル”から”お墨付き”をもらって、レゲエのAmazingGraceをレパートリーに加えたいと思っているピーメンです。

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ことばについて 続き

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月20日(土)21時36分55秒
   Angelさん、のどかさん、ピーメンさん

 Angelさんの、イエス様の言葉をいろいろ引用されたフォローありがとう御座います。
 こうしてみると、文字通り、イエス様=ロゴス ですね。言葉を発せられるとそれが実現しているわけですが。
 私は、頭で考えただけなので、聖句の検証までしませんでした。この数年聖書を余り読んでないことがバレバレで恥ずかしいです。

 のどかさんに
 ヤハウエイの発音が揺れ動いたのは、ヘブライ語の文字が母音を持たないで子音だけによるそうです。子音をローマ字転記するとYWHWとなるようで、この読み方が解釈により異なる、と言うことです。
 ほぼ3年前のメモを見ていたら、やはり、ロゴスについてお互いに話してますね。
 ただ、私の書いたものは観念的ですね。理屈ぽくって。
 3年かかってこのようにロゴスが日常的な意味の拡張になった感じです。
 

言霊 ”ありがとね!”

 投稿者:ピーメン  投稿日:2007年10月20日(土)00時34分31秒
  Angelさん、のどかさん、パウェル兄、みなさん・・・

本日は聖公会の教会の”聖歌を歌う会”に出席して来ました。
正教徒になっても、聖公会の聖歌にも好きなものが多いものですから・・・
ピーメンの大好きなAmazing Grace も聖公会の訳詞で歌いました。

帰りに立ち寄った喫茶店で、福島孝徳医師のことをご存知のご婦人に遭いまして・・
福島医師は不可能に思える脳外科手術を毎日いくつもこなしているスーパードクターです。
この先生の口癖が”ありがとね!”・・・ニッコリ笑って”ありがとね!”

スタッフや周りの人たちに、小さなことでも”ありがとね!”

インスピレーションが湧いてマルコ教会に電話しまして、パイプオルガンを弾いてくれた
セシリアさんに、
「今日はセシリアと一緒に聖歌が歌えて楽しかった!”ありがとね!”」と言ったら
「あたしも楽しかった!”ありがとね!”」という返事が返って来ました。

(セシリアという聖名はオルガンの発明者で、殉教した女性のものだそうです。セシリアだけにオルガンを弾いて讃美しているとき、一番良い顔をしています。言葉がキツいことがあるので”意地悪ばあさん”と思えることもありますが・・・)

”いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。あらゆることに感謝しなさい。
(ありがとね!)”

何のことはない・・・感謝されたかったら自分のほうから感謝!すれば良いだけのこと。
”ありがとね!”と言えるチャンスを逃さないということですね。

”子供のような素直な心でなければ神の国に入ることはできない。”

”ありがとね!”・・ずいぶん力のある言葉でした(*^_^*)

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言葉の不思議・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2007年10月19日(金)23時58分34秒
 編集済
   パウェルさん みなさま

以前から、言葉のもつ不思議な力(ちから)については、この掲示板でも話題に
なったことはありましたが、今回パウェルさんが書いてくださったような、ボリュームの
ある論議はまだありませんでした。
言葉の持つ不思議な力(ちから)と魅力については、聖書でも確かに随所に語られて
いますね。
そして、イエス様自身の言葉としても、足の不自由な人にたいして、「起き上がりなさい」
とか、また歩けないで床に伏せっている人に「床をあげてたちあがり歩いてきなさい」と
言われるとその人がイエス様のいわれる通りの行動が可能になった・・・・など
あげればきりがありません。一番感動したのは、死んで何日かたった人に「眠っている
だけである。起きて立ち上がりなさい」と言われると、「死人がよみがえりその通りの
行動をした・・・」と言う箇所です。
このように、言葉は不思議な力(ちから)をもっていてます。瞬間催眠術・・・と言う本
には、術者が 大声で、「あなたは、その場で動けなくなる・・・・!」と命じると
被施術者は本当に金縛りにあったように、動けなくなり、施術者の「それでは
あなたは、私の はい、大丈夫、動けますよ・・・の言葉で元通りになります・・」と言うと
被施術者は、「はっと我にかえって、もとどおり自由に動けるようになる・・・・」のような
催眠術の披露を動画でみたことがありました。
なんか、いんちきくさいと思われるかもしれませんが、公開施術なので、本当に暗示に
かかりやすいタイプの人はこのような催眠術にも容易にかかってしまうことは多々あるように
聞いています。
したがってこうした、施術によって、なかなか治らない精神病を治している病院も
実際あることを聞いておりこれらが、全く根拠のないインチキ施術とは言えない様な
気がするのです。(医学用語では 催眠療法・・と言うらしいです。)
 

楽しい講義・・・

 投稿者:のどか  投稿日:2007年10月19日(金)23時21分58秒
  パウェルさん、とてもおもしろいお話を聞かせていただき、ありがとうございます。
なんか大学時代にもどったみたいで、心地よく楽しい講義を聴いたような気分になりました。
「ヤハウエイ」もそういうわけではっきりした呼び名がわからなかったのですか。前にちょっと疑問に思ったことはありましたが、深く考えませんでした。

そういえば日本人の考える「言霊」とヨハネの冒頭は全然違いますね。私は「はじめに言葉ありき・・・」のところの意味が何度読んでもよくわからなかったのですが、この掲示板でピーメンさんやパウェルさんが話題にされて、初めてその意味が少しわかったのです。Angelさんの掲示板、とても勉強になります。

明日から1週間ほど、出かけます。またよろしくお願いします。
 

ことばに出せば、実体がついてくる

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月18日(木)21時18分22秒
   ピーメンさんの和解も、言葉に出されたので、紆余曲折はあるかも知れませんが、結局は実現するのでしょう。言葉には力があるから。


  妻の料理に、口先だけでも「ありがとう。おいしかった。」と言う。
  その内に、それが本当に心からの「ありがとう」になる。

 これは、日本亭主関白協会の会長の言葉です。彼がNHKの土曜日のラジオ番組に登場したときに述べたものです。ちなみに、関白は天皇に仕えるもの、だから、亭主関白は亭主は妻に仕えるもの、と言う意味だそうで、奥さんに対して威張り散らす亭主の会ではない、とのことです。

 同じような話が、小椋佳の第一回のコンサートの中でもありました。TVで放映されたものを見ただけですが、その中で、「夢とか希望は周りの人に話す」「そうしていると、やがてそれは実現する」と言うものです。言葉に出して言うことが実現に繋がります。

 似たような話は沢山あるでしょうね。

 また、昔、「言霊(ことだま)」について書かれた本を読んでいたら、その中に、名前を口に出して言うとそれを聞きつけた悪霊が悪さをするので、名前を呼ばないで、職名を呼ぶ、と言う意味のことが書かれていました。
 そう言えば、日本の古典では、登場人物が先の大臣とか、正三位なんとかの誰、とか出てきて悩まされましたね。現在でも、会社では「課長」とか「部長」ですし、学校では「先生」ですね。名前を口に出さないと言うその伝統は生きているようです。

 聖書の神「ヤハウエイ」も、本当の発音は分からなくなり、この読み方「ヤハウエイ」も推測なのですね。昔はエホバと言っていました。聖歌や賛美歌の中のエホバを他の言葉に書き換えた記憶があります。そんな昔ではなかっです。
 何故発音が分からなくなったと言うと、名を口にだして唱えるのはおそれおおいので、言わないでいる歴史が続くうちに分からなくなったとそうです。

 共通していることは、言葉に出すことの恐れです。その恐れは、言葉に力があると言う信仰からきています。(自然科学的には)、名前を唱えるだけならば、何の害もないと考えるます。それが合理性ですから。

 いずれにしても、ことばには人間を越えた力があると見なされています。

 ところで、聖書には言葉に力があることが示されています。創世記のはじめの部分に

  神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

 とあります。神が「光」という言葉を発することにより光りが創造された、と言ってます。ご存じのように以降この調子で多く(無からの生成なので、すべてというべきでしょうか)のものを創造されます。

 新約ではヨハネの冒頭に

  初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

と来ます。言葉は神そのものだ、と言っています。言葉によってこの世が作られ、その言葉を発したのは神ですから、と言うことです。それを、このように巧みに表現しています。

 どうやら、人類は、言葉に特別の価値感を持っていたようです。聖書の書かれたのは今から二千から三千年も前、旧約の伝承はさらに古いでしょうから、ひょっとしたら人類の誕生と共に言葉に対する恐れはあったのではないでしょうか。
 聖書記者たちは、それを、我々を作られた神に帰したわけですね。

 日本でも、言霊は、言葉の力をその中に認めていますが、もろもろの諸霊の一つです。日本の祖先は天照大御神であり、その力を言葉に帰してないので、日本の神とキリスト教の神との文化的接点はないことになりますね。
 日本とユダヤの民(だけではないですが)との相違と言うべきでしょうか。

 奥さんの料理を褒める話から勝手に先に進んでしまいました。
 西洋が言葉を大切にする、言葉で主張しないことは意見のないことだ、以心伝心と言う日本の文化は理解されない、と言う西洋と日本の文化の相違の出発点まで遡ってしまいました。
 

みなさん、ありがとうございます!

 投稿者:ピーメン  投稿日:2007年10月17日(水)02時10分6秒
  パウェル兄 Angelさん のどかさん ありがとうございます。

エディットピアフに本田美奈子さん、米国聖公会のボブさん 和解の相手
みな分かち合って下さって感謝!です。
*************************************************************
聖書の”知識”だって”神の愛”を知るための”道具”でしかない。
”自分が誇る”ことなんざ小さな喜びだ。”神から与えられたものを
味わう”ことの喜びのほうがずっと大きいと思う。
*************************************************************
・・・こんなすごい言葉がでちゃいました。意地を張り合っていた
かつての友に素直ににホンネを伝えることができました。

”全てを造られ、全てを与え、全てを司っておられる創造主の神よ・・・”
ピーメンの身の回りでまた不思議なことが起きています。
またその都度ご報告しますね。・・・主哀れめよ

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(無題)

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月16日(火)21時35分43秒
  ピーメンさん

 和解の話はどんな場合でも心が和みます。
 ネット上の友達とのことで私は知らないですが、介護の仕事をしているとのこと、自分をしっかり保っておられ方ではないかと、推測します。

 ピーメンさんの和解された共が元通りの関係に修復されるのかどうかは神様しか知らないことなので、詮索するのはよしましょう。

 ピーメンさんが和解するきになって意志を明らかにされても、相手の状態によっては、依然として身構えてしまう場合もあります。その辺りが難しいですね。
 でも、当事者二人の内一人が「諍いは止め」と宣言されたのですから、相手も方も受け入れてくれるでしようね。
  2007.10.16
 

和解の大切さ

 投稿者:Angel77  投稿日:2007年10月16日(火)20時58分54秒
 編集済
   ピーメンさん みなさま

ピーメンさんが書かれた”祭壇に捧げものをするときは兄弟と和解してからにしなさい”
”主に喜ばれる捧げものは砕かれたたましいなり・・・”
は聖書の有名な言葉ですね。私は以前にも他宗教ですが紹介させていただいた、生長の家の
創始者谷口雅春師が1931年(昭和6年)に受けたとされる神示で・・・・・・・・・
「汝ら天地一切のものと和解せよ」という言葉も有名ですが、これは聖書とも符合する
言葉です。
その後、聖書を学んでいくうちに、この天地一切のもの・・・とは、人と人の関係だけで
なく、人間と動物、人間と植物、人間と自然、すべてのものとの和解だということに気づき
始めました。
近年問題になっている、環境破壊による地球温暖化や大気汚染も人間と自然との和解が
なされず人間本位の政策や行動が現在の不調和を創りだしているものだと感じるように
なりました。人間があらゆるものとの和解(調和)を達成したとき本当の幸せが生まれる
ような気がします。
 

それぞれの人生

 投稿者:のどか  投稿日:2007年10月16日(火)10時10分32秒
  パウェルさん、みなさん
確かに、晩年のピアフが海岸でセーターを編みながら、インタビューを受け、
死を恐れますか? 孤独よりまし
女性へのアドバイスは? 愛しなさい
若い娘には?     愛しなさい
子供には?      愛しなさい
と彼女が答える場面はとても印象的でした。ピアフの人生をもっと詳しくなぞってみないと、わかりませんが、彼女は愛に恵まれなかった分、その愛を強く求め続けた人だったのだということは、伝わってきました。
先週見た「Miss・ポター」はピアフと重なる時代を生きた女性ですが、また違った愛の形を生き抜いた人で、とてもさわやかな印象を受けました。ピーター・ラビットの世界に感動してくれた婚約者を失い、一人湖水地方に移り住んで最後は農業に精を出し、ナショナル・トラストの基礎を作ったビアトリクス・ポターの生涯を描いた映画でした。
ピアフはマルセルとの別離で「愛の讃歌」を生み、ポターは婚約者との別離でたくさんの作品を生み出した。人間は悲しみをばねに素晴しいものを創り出すというところは、共通していました。

ピーメンさん
すばらしいお話をありがとうございます。人は愛されることによって優しくなり、より深い愛に到達できる。
今、ピーメンさんの上には本田美奈子さんの歌や人生に対する愛が
Amazing Graceを通してふりそそぎ、勇気を与えてくれている・・・そんな感じがしました。ピーメンさんの"War is over"お友達も喜んで応じてくださることでしょう。

おそらく天賦の才で歌の本質を嗅ぎ取っていたピアフが、人間にとって一番大切なものは、「愛すること」なのだと答えたのが、とてもよくわかりました
 

和解のための試み

 投稿者:ピーメン  投稿日:2007年10月16日(火)02時20分24秒
  Angelさん のどかさん パウェル兄  "War is over"

また突飛でスミマセン<m(__)m>
別の掲示板で言葉の(感情の)行き違いから罵倒し合っていた
かつての友に和解のメッセージを送ることができました。
少し言葉が乱暴ですが”ホンネ”で語りたかったので・・・

”祭壇に捧げものをするときは兄弟と和解してからにしなさい”
”主に喜ばれる捧げものは砕かれたたましいなり・・・”

本田美奈子さんの歌が”砕かれたたましい”のお手本を
見せてくれたのかも・・・・・・・
******************************************************

一緒にAmazing Grace を味わってもらえるだろうか?
オレも色々あった。両親の死後も怖い目にもずいぶん遭った。
自分に敵意がない人にまで敵意を感じることがあったかも知れない。

「相手が自分を見下しているのではないか?」という恐怖感、不安感、
オレだって持ってるよ。学歴なんざ何の足しにもなりゃしない。
でも言葉の端々に、あるいは「売り言葉に買い言葉?」で
あなたを傷つけたことがあるなら、謝りたい。
これは皮肉じゃないヨ

正直に言う。オレが何でクリスチャンになりたいかと思ったか?
単純な理由よ。Amazing Graceをクリスチャンとして”讃美”したかった
こと。そしてこの賛美歌が英国で映画化され、白血病で闘病中の本田美奈子さんに
勇気を与えた。理屈抜きに”泣ける”。美奈子さんはアルバムが発売されたのを
見届けるように、発売から2週間後に亡くなったそうだ。

介護の仕事をしてるあなたならわかってくれるだろ?

一緒に味わってもらえるだろうか?
http://www.youtube.com/watch?v=cRbP2sPKUL4&mode=related&search=minako%20honda%20%E6%9C%AC%E7%94%B0%20%E7%BE%8E%E5%A5%88%E5%AD%90
易しい日本語の歌詞も入ってるから、英語のわからない人にも伝えられる。
以前は得意がって4節英語で歌ってたけどな。

聖書の”知識”だって”神の愛”を知るための”道具”でしかない。
”自分が誇る”ことなんざ小さな喜びだ。”神から与えられたものを
味わう”ことの喜びのほうがずっと大きいと思う。

正直あなたとの和解なしには自分の”信仰”なんぞニセモノだと
いう気持ちがあったよ・・・

あとはあなたの気持ちに委ねる・・・

主哀れめよ・・・

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戦争は終わった、に対して

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月15日(月)08時49分26秒
  ピーメンさん、皆さんに

 「戦争が終わった」、この言葉をもって個人的な恨みをぬぐい去ったボブさんに拍手ですね。

 実際は、我々は愛憎の世界に生きていて、頭では分かっていたも、相手を素直に許せない、などと言うことは多いですからね。
 でも、多分、ボブさんは行動に移したことにより、その悪循環かを断ち切ったのでしょうね。

 良い話ですね。私の行動の指針の一つにしたいです。
 

愛の讃歌 続き・その2

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月15日(月)08時38分54秒
   のどかさん
 昨日の午後、教育テレビのサブチャンネルを何気なく付けたら語学講座をやっていました。ドイツ語・フランス語・イタリア語・ロシア語なで連続して三時間余り続く構成でした。
 スイッチをつけたとき、フランス語をやってました。他に見る番組もないので、なんとなく見ていたら、エディト・ピアフの写真が出てきて、映画監督のインタビューと映画の紹介が始まりました。

 その中で監督(名前は忘れましたが)は、この映画のテーマは最後の10分にある、アメリカ人の記者が海岸でインタビューする場面があるが、その中でピアフは自分にとってもっとも大切なものは「愛すること、愛すること、愛すること」と3回答えている。それがテーマである、と言っていました。

 心から愛していたマルセルの死後の描き方に、私には愛が見えなかったので、これは、ある程度ピアフについての情報が不足していたのかも知れません。

 たふ語学番組の中のインタビューなので、映画の場面も紹介され、短い時間(多分10分位)でしたが、映画が思い出され、もっと見ていたい感じでした。
 

「脱げない衣」 遠藤氏の話

 投稿者:のどか  投稿日:2007年10月14日(日)17時15分6秒
   私は寂聴さんの「奇縁まんだら」を読んではいないのですが、そのお話を伺って思い出したことがあります。
 遠藤周作さんがその衣を着せられたのは、お母さんが父親と別れ、子どもを連れて神戸に帰り、生きて行かなくてはならなくなったとき、心の支えとして選んだキリスト教(カトリック)の洗礼を受けたときからでした。一時は母から神父になることを希望されたりするけれど遠藤氏は反抗し、「こんな西洋の宗教なんか棄てたれ」と思ったこともあったとか。でも彼は自分の愛する母(母も彼のことをとても愛した)が信じた宗教を最後まで棄てることができなかった。それは、理屈ではなく無意識の中に教会に通ったり神に手を合わせて祈る母の姿が刷り込まれていたからだと書いておられます。

 そして私が一番遠藤氏の話に心惹かれたのは、彼はその「脱げない衣」に苦しみながら自分の内面とキリスト教を探り続け、ついにはその衣を仕立て直して自分の身体に合う着物にしたと述べておられたところです。しかし、その仕立て直しには大きな苦労が必要でした。最初の留学でヨーロッパ的キリスト教に圧迫され、病気や何回もの死を覚悟した大手術をくぐりぬけてキリスト教にも和服の要素があるとわかってきたのだとか。

 私たちにもそれぞれ「脱げない衣」はありますが、それをどのように自分で納得できるものにするか・・・やっぱり一人一人が苦しみながら追い続けるしかないのだろうと思うのですが、この遠藤氏のお話には勇気づけられました。
 

War is over戦争は終わった

 投稿者:ピーメン  投稿日:2007年10月14日(日)10時07分17秒
  先日、ピーメンの出身校を建てた教派=日本聖公会の教会に、北海道から主教さん(それも首座主教;日本聖公会で最高位の人)が講演に来られるので聴いて来ました。教団・教派内部のゴタゴタの話は興味がなかったけれども、主教さんの体験談にジーンと来るものがありました。

主教さんがアメリカの聖公会の教会に赴任されたとき、中心信徒にロバート(ボブ)さんという人がいて、戦時中に日本軍に捕虜として虐待を受けたことがあり、日本人に恨みがある。主教さんは教会で実に居心地が悪かったそうです。でも・・・

主教さん自身が結婚式を教会であげようとするとき、ご自身の両親も
婚約者の両親も都合で出席できなかった。それを知ったボブさんが、
「新婦の手を引いてバージンロードをエスコートする役を(つまり新婦の父親の役を)
自分にさせて欲しい。」と申し出たそうです。

主教さんはすぐには理解できなくて周囲の人に通訳を求めて聞き返したそうです。
「日本人をうらんでいるボブさんがまさかそんな申し出をしてくれるなんて・・・」

ボブさんは泣きながら新婦さんの手を取り、バージンロードをエスコートしてくれた
そうです。出席した人たちも皆もらい泣きしていたとのこと。

新婦さんを主教さんのところへ送り届けたときボブさんは、
「ナタナエル(主教さんの聖名)、War is over 戦争は終わった。」
と言ったそうです。ボブさんの心の中で”戦争が終わった”のでしょうね。

”主の平和は一人一人の心の中にある”ということでしょうね。
ジョン・レノンの”ハッピー・クリスマス”を歌いたくなりました。

”War is over, if you want it・・・”

主教さんとお話する機会が与えられましたが、主教さんも
Amazing Graceが大好きとのこと。

ピーメンも無心にAmazingGraceを歌いまくりたいと思います。

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私にとっての「脱げない衣」・・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2007年10月13日(土)12時49分25秒
 編集済
  パウェルさん、「脱げない衣」のコメント興味深く読ませていただきました。

さて、私にとっての「脱げない衣」がなんであったか考えてみました。
私にとっての「脱げない衣」とは、旧約聖書にでてくる、天地創造の神、人間と
あらゆる動物・植物・そして宇宙に存在する物質を創りたもうた父なる神ではなかった
かと・・・・。
私は、(いえ、おそらく日本人であれば)幼少のころから神社やお寺に正月やお盆には
お参りをしたものです。そのときの、祈りをささげる対象はやはり天地を創りたもうた
お方(天地創造神)ではなかったと思えるのです。
これらの、素朴な原始的な祈りと信仰は、日本人の心の中にだれしも持っていた
「脱げない衣」ではなかったかと・・思えます。
しかし、いま、この「脱げない衣」の存在が危うくなってきている気がします。
私がホームページの随所で書かせていただいた、日本人の隣人をいつくしむ美しい心は
拝金主義と弱肉強食の格差社会の中では、その正当性すら危うくなっているのです。
聖書に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
   「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(ヘブライ11−1-2)
このような、記述がありますが、私はこの前項の信仰は、素朴な神仏を尊ぶ人間の心が
その第一歩と解釈しており、後段の、昔の人たちとは、原始時代の人たちも含む・・
と解釈しています。しかし、時代は更に進み、もはやこういった聖句が空文化し過去の
ものになりつつある世を、悲しくやるせない気持ちでいるのも事実です。
 

「脱げない衣」

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月13日(土)09時37分30秒
   みなさんに
 今朝の新聞に出ていたある言葉を見て

 「脱げない衣」、この言葉は40年も昔、文芸雑誌に遠藤周作が書いていた文章の中にあったものです。幼いときに着た(母に着せられた)キリストの衣を脱げない、と言う意味でした。
 当時は、私はキリスト教とは無縁でどちらかと言えば仏教徒の立場でした。母が熱心な仏教徒なので。
 しかし、この言葉は折りに付け思い出されました。

 かって仕事の上で、と言うよりは職場環境での(人間関係の)行き詰まりで、追い詰められた時も、その仕事はどんな困難の時でも自分には「脱げない衣」だと言い聞かせました。その後いろいろあり、結局は転職しましたが、その後また同じ仕事(別の職場ですが)に戻り今に至っています。
 そして、人には誰でも何か「脱げない衣」がある、と思っています。

 今朝の日経新聞(2007.10.13朝刊)に、瀬戸内寂聴が連載している「奇縁まんだら」の中でこの言葉が紹介されていました。当時読んだ雑誌は手元にないので、改めて確認することが出来ませんでしたが、親交のあった寂聴さんが遠藤周作の言葉として紹介しているので、私の記憶間違いではないことを改めて確認しました。

 今の私には、ハリストスの衣が脱げないそれでしょうね。そう真面目な信徒ではないですが、そして、物理学と数学とそれから派生する進化論を信ずる私ですが、やはりハリストスの子供ですね。自分の生きる土台がそこにあるから。
 

続「愛の讃歌」に対して

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月13日(土)07時26分56秒
  のどかさん
 丁寧なレス、ありがとう御座います。
 知らないことが多かったので、メッセージを十分に受け取れなかったですね。

 私のレポートが少し批判的だったかも知れませんが、映画を見てすぐに書かなくてはと翌日に延ばさないで投稿しました。

 映画としては、現在と過去のオーパラップや、リアリティのある描写など私には斬新さを感じました。2時間余りがあっと言うまに過ぎましたから。

 のどかさんの最初の投稿がきっかけになったことを改めて感謝します。
 

続「愛の讃歌」

 投稿者:のどか  投稿日:2007年10月12日(金)11時12分37秒
 編集済
  パウェルさん
 映画、ご覧になったのですね。嬉しいです。パウェルさんが、具体的な場面に即して詳しく思いを書いてくださったので、もう一度映画の一つ一つの場面を思い起こすことができました。

 この映画を作った方は、制作にあたってピアフに関するほとんどすべての資料、映像を集められたとか、そこでパウェルさんが書いておられるように、一般に持たれているピアフのイメージとかなり違ってセンシティブな彼女の像が浮かび上がったそうです。ピアフの語った言葉、書き留められた言葉はすばらしく的確で、彼女が詩人であったことを証明していると、脚本家は語っています。映画のセリフにも、彼女自身が発した言葉をできるだけとりあげたそうです。

 ピアフが20歳でルイ・ルプレに見出され、キャバレー「ジェルニーズ」で歌っていたあの直立不動のような緊張した歌い方は、ピアフの当時の映像とそっくりでした。

 それからお母さんとの関係について、あのお金を要求されたときの大喧嘩で感じたのですが、ピアフの心の中には、もちろん自分を心から愛してくれなかった母に対して恨みめいた気持ちがあったかとは思いますが、それ以上に、自分の力で強く生きようとしない母に対する怒りのようなものがあったのではないかと思います。
 エディットは、15歳で父と離れて大道で歌うようになって20歳でルイに見出されるまでの間に、自分の力でしたたかに生き(結婚もし、亡くなったけれど子どもも産んでいる)、歌への情熱を燃え上がらせてきました。同じ、大道で歌っていた母に対して
「あなたも自分の力で生きて見せてよ・・・」という思いがあったのではないでしょうか。

 ピアフのどんな苦境に立たされても、立ち直っていく強さはこの娘時代の境遇の中にあったと思います。映画では、さらりと懐古シーンで流れただけでしたが。

 パウェルさん、私もめんどうくさがりやでなかなか映画館まで足を運ぶことができないのですが、明日はベアトリクス・ポターの生涯を描いた「Miss・ポター」を見に行きます。湖水地方の美しい風景が楽しみです(笑)
 

愛の讃歌 私も見ました

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月12日(金)01時39分4秒
   のどかさんが魅力的に紹介してくれたので、思い立って私も見に行きました。のどかさん、ありがとう御座います。

 驚いたことに、私の前にすでに入場券を購入する女性達が居たことです。人気があるのだなあ、と思いました。そして気がつくと、大部分が女性。タイトルが女性向きなのかなあ?
 でもそれは直ぐに氷塊。平日の朝一番から映画館に入る男性なんてごく一部ですね。皆さん仕事だから。

 私が関心を持っていたのは、ピアフの心理状態あるいは心の変化です。どのようにして数々の苦難を乗り越えたのか、単に「頑張って」ではないと思ったからです。そのためにタイトルに注目しました。原題は legend と読めました。伝説ですね。historyではないので、事実・伝承を含めて映画化したのだと解釈しました。

 子供の頃(第一次大戦の終頃)、彼女は恵まれた家庭環境ではなかったのですね。父親が母親からエディトを連れ去る場面が冒頭にあります。母親には何か問題があったのでしょう。それが何であるのかよく分かりませんでしたが。
 父親は大道芸人で軍隊に入隊するために、その母親、エディトからすれば祖母に預けます。祖母は娼婦館の経営者あるいは管理者のようで、その中でエディットはかわいがられて育てられます。しかし、栄養が悪くて一時失明状態になります。
 娼婦館なので子供の環境としてはよくないです。口には出せないような事件も起き、それを見聞きして育つわけです。
 やがて父親が除隊してエディットを連れて行きます。その先がサーカスです。
 このように、劣悪な子育ての環境の中で育てられます。もっとも当時のフランスでは普通だったかも知れません。しかし、普通にエディトを大切にする父親がそばにいるだけ良しとしなくてはならないのでしょう。

 母親は最初にエディトが取り上げられる場面に登場します。次は、エディトがキャバレーで歌うり少しは金の入るようになった時期、偶然カフェで「そこに母親が居る」と指摘されます。母親はピアフに金をねだります。彼女が硬貨を与えると、怒って「お札は無いのか」、とさらに要求します。そして、母と子の大げんか。
 ピアとの本当の気持ちはどうだったのでしょうね。映画ではそれのヒントになるように動作も場面もありません。そこを描くのは大切だと思うのですが。単純な憎しみだ、と言うのならが底が浅いですね。

 エディトは二度見いだされます。最初は、キャバレーなどでの舞台での歌い手として。そこでは、ラ・モーム・ピアフ(?)と言う芸名で。結構注目されます。
 次には、作曲家に見いだされます。そして歌唱法について徹底した訓練を受けます。それまでは、地味な、と言うより構わない服装で舞台に立っていたのを、服装にも気をつけるように、要するに一流のプロとしての心構えをたたき込まれます。その訓練の場面で、ピアフの歌い方がそれまでの声量もあり、よく通りさすが、と思っていたものに、さにら陰影が加わったのです。前半の歌と後半の歌では印象がかなり変わりました。
 二度デビューした訳ですが、そのどちらも、最初の舞台では目を大きく開き不安そうな表情で、これが後の大歌手になるとはとても思えませんでした。特に、二度目はもっと舞台慣れしていたもよいと思ったのですが。全般に、ピアフのわがまま放題、よく言えば芸一筋で妥協しない、「強い」ピアフのイメージを持っていましたが、この二つの場面から、実は、内面はガラスのように繊細であったのでは、と思いました。

 純粋に愛したマルセルの死の知らせの場面は意表をつくものでした。
 ピアフはマルセルの到着を待ってベッドに寝ています。うとうとしてふっと目を覚ますと、マルセルが枕元に居ます。あれ、どこから入ったのかしら、と思いました。ドアは閉まっている筈なのに、と。
 ピアフは、二人分のコーヒーを作り自分で枕元に持って行きます。なぜならば、そのとき家の世話をしている女性が、ピアフの命に従わず、コーヒーを届けないので、ピアフが自分で持って行ったのです。変だなあと思いました。
 それから、ピアフはマルセルに渡すために用意してあった腕時計を持ってくるように言います。しかし、それが見つかりません。ピアフは狂ったように引き出しを片っ端からあけ、家中のものに怒鳴り散らします。家人達は黙ったままですが、やがて、「飛行機は落ちたの」と言います。ピアフはびっくりしてベッドの方を見るとそこにはマルセルは居ません。
 映画でこのような「霊体離脱」のような現象を描かれてびっくりしました。それだけ、マルセルの死がピアフに大きかったことを表現しているのでしょう。

 ピアフは、常に酒を飲みます。日本人ではとても体が持たないと思うくらい飲みます。外から見るだけですが、精神的には弱い面があったのでしょうね。強さと弱さの同居。気まぐれと見える行動。映画の中だけではよく分かりませんね。
 しかし、もともと体の弱かったピアフは肝臓を悪くし多分それが死期を早めたのではないでしょうか。

 はじめの方の場面でも小さなピアフは祈ります。「聖テレーゼに」「イエス様に」と。目が見えなくなり治療中の場面でも祈っています。亡くなる直前でも、ベッドから起き上がるのが難しい中でも「跪いて祈りたい」と言います。看護している女性が、「寝たままでも祈りは聞かれます」と助言しますが…。
 彼女には祈りが身についていますね。

 エディト・ピアフについては、私は名前を聞いたことはある、しかし、映画に出てきた曲がピアフの持ち歌だと言うことは全く知らない、と言う状態でした。もちろん、ラビアン・ロースなどメロディーは有名ですから知ってますが、歌い手のことまでは関心が無かったもので。

 全体に、エピソードを映像で見せるのに一所懸命で心理描写がやや抜けていると言うのが私の印象です。歌手が「歌わなければ、私には何もない」と言うような事を言ってもそれは当たり前で、ピアフを知らない私には平凡な描写にしか見えませんでした。

 タイトルの通り、legend なのでしょうね。

追伸
 劇場でみる映画はやはり迫力がありますね。予告編を見ていたら、日本映画にも魅力的なものがあり、見たくなりました。
 ただ、今回はたまたま所用が町の中心部であり、それに併せて行くことが出来ましたが、そうでないと、一大決心が必要です。こんな事を書くのは、心が闘っている証拠かもしれませんが。
 

本田美奈子さん

 投稿者:のどか  投稿日:2007年10月11日(木)00時23分14秒
  ピーメンさん、「ミス・サイゴン」昔、見ましたよ!美奈子さんが、アイドルだったのは、よく知りませんでしたが、熱演でまだ可愛い感じで高い声がきれいに出る人だなあ・・という印象でした。その後、亡くなってからテレビで彼女の追悼番組を見て、ますます伸びやかな声になって、うまくなっておられたのでびっくりしました。まさに歌に命をかけ、また歌によって生かされ方だったのですね。

でも、こうして歌に打ち込む気迫と才能に恵まれたという点で、早く逝ってしまわれたけれど、充実した素晴しい人生であったのでは・・・と思います。彼女の「LIFE」「AVE MARIA」(サラ・ブライトマンのと同じ曲がいくつかありますね。)「新世界」など聴いてみたいです。

最近やはり帝劇で見たミュージカル「マリー・アントワネット」でマリーを演じた新妻聖子さんも伸びやかで美しい声です。NHK、木曜時代劇のテーマソングで声が聞えてきたときは、「あっ、彼女の声!」とすぐわかりました。
 

歌と”結婚”した女性

 投稿者:ピーメン  投稿日:2007年10月 9日(火)01時28分56秒
  http://www.youtube.com/watch?v=GINSTfZSrs4&mode=related&search=minako%20honda%20%E6%9C%AC%E7%94%B0%20%E7%BE%8E%E5%A5%88%E5%AD%90
http://www.youtube.com/watch?v=oF3CIzkC7W0&mode=related&search=minako%20honda%20%E6%9C%AC%E7%94%B0%20%E7%BE%8E%E5%A5%88%E5%AD%90
http://www.youtube.com/watch?v=K245yO6C7Us&mode=related&search=minako%20honda%20%E6%9C%AC%E7%94%B0%20%E7%BE%8E%E5%A5%88%E5%AD%90
http://www.youtube.com/watch?v=TefQ2vfNzoo&mode=related&search=minako%20honda%20%E6%9C%AC%E7%94%B0%20%E7%BE%8E%E5%A5%88%E5%AD%90
本田美奈子History1〜4

のどかさん
”愛の讃歌”映画のレポートありがとうございました。きめ細かい描写、
「さすがはのどかさん!」と感心しました。ところが・・・
ピーメンは気が多くてスミマセン!<m(__)m>

今度は本田美奈子さんにハマッています。「歌うことが生きること」という女性
は、ピアフのほかわが国では 美空ひばり さんが思い浮かびますが、
本田美奈子さんも「歌と結婚した!」と言い切っていたそうです。

白血病の闘病中にAmazingGraceと出会い、魅せられて、原詞のほか
シャンソン歌手にはおなじみの岩谷時子さんの詞で歌っています。
ちなみに”愛の讃歌”も岩谷時子さんの詞で歌っています。

岩谷さんはあまり”原詞に忠実に”とは考えないタイプのようですが、
そこはやはり作詞家、”ジュピター”や”Amazing Grace”では良い
言葉を使っています。

URLをベタベタ貼り付けて申し訳ありませんが、本田美奈子ストーリー、
ホントに泣けます!彼女にとっても”歌がいのち”だったのですね。

Amazing Grace は英国で今年2月に映画化/公開され、日本での公開は未定
だそうです。もと奴隷商人ジョン・ニュートンが英国国教会の司祭となり、
弟子たちに人間の尊厳について説き、弟子の中にウィリアム・ウィルバーフォース
という人物がいて、後に政治家になり、丁度200年前に奴隷貿易を廃止する法案を
通したそうです。映画ではウィルバーフォースが主役ですが、ニュートンも
彼の師として出ています。

来るべき映画の公開に先駆けて、本田美奈子さんのAmazing Grace が出たこと、
彼女が骨髄バンクのキャンペーンに貢献していること・・・
何か不思議な神の意思を感じられないでしょうか?

さあ、ピーメンとしても頭が混乱していますが・・・
Amazing Grace は英国でできた歌ですがアメリカの”第二の国歌”と言われて
いるそうです。”愛の讃歌”は・・・ピーメンは個人的にフランスの”第二の国歌”
であるべきと考えています。ラ・マルセイエーズの”殺せ!殺せ!”よりも、
”あなたのためだったら祖国も裏切ってみせるわ”というフレーズを国歌にすることは
フランス人らしく”エスプリ”が効いていて粋ではないかしら?

結論は・・・
”歌・音楽には癒しの力がある!”ということです。
”歌”に生きる力を与えられた女性たちの物語を知ったわけです。
歴史的にも”教会”が賛美歌を歌うことにより人々の健康や生命力を
高める役割を果たした、という説もあるそうです。

本田美奈子さんが歌っているAmazingGraceの岩谷時子さんの詞の一節を
最後に置いておきます・・・

♪光輝く幸せを 与えたもうた あなた
 大きなみ胸にゆだねましょう 続く世界の平和を

http://pimen20040410.seesaa.net/

 

映画「愛の讃歌」

 投稿者:のどか  投稿日:2007年10月 8日(月)22時18分27秒
  先週「愛の讃歌」を見てきました。とてもよかったです。

1、壮絶な人生
「愛の讃歌」という曲が生まれた「ピアフと彼女が最も愛した恋人、世界チャンピオンのボクサー、マルセルの飛行機事故による死」というエピソードは知っていましたが、それ以外、彼女の人生について詳しい知識はなかったので、その凄まじさに衝撃を受けました。
誰かがレビューに「もし、あなたにピアフの才能をあげるから、彼女の人生を生きるように・・と言われたら、すぐに逃げ出すだろう。」と書いていたけれど、そのとおりかも知れません。短い47年の人生を、彼女は世の中に存在するあらゆる貧困、裏切り、病苦、中傷、また才能、富、名誉、など両極端の状況をもろに体験しながら、生涯を通して、愛に飢え、それを求め続けて生き抜いたのです。その真実な体験がそのまま、歌となって彼女の身体を通して響き渡り、人々の心を揺さぶる、それがピアフの歌の凄さなのだと感じました。
マルセルを失ったあと、たび重なる自動車事故や薬物中毒で、ぼろぼろになったピアフに最後の力をふりしぼらせたのは、やっぱり「私は歌わなければ、生きる自信が持てないの・・」という歌への執念でした。シャルル・デュモンが「水に流して」を持って彼女の部屋に訪れ、演奏を始めると、半病人だった彼女の目が急に生き生きと輝きます。

いいえ、 ぜんぜん
いいえ、私は何も後悔していない
私に人がしたよいことも 悪いことも
何もかも 私にとってはどうでもよい
いいえ、ぜんぜん
いいえ、私は何も後悔していない
私は代償を払った、清算した、忘れた
過去なんてどうでもいい・・
・・・・・・・・・
ラストに近いシーンで彼女が歌う「水に流して」を聴きながら、自分の人生にも重ね合わせ、涙があふれてきました。

2、マリオン・コティヤールの演技
私はピアフの映像もいくつか見たし、写真も何枚か持っていました。映画を見ていて1963年に亡くなったピアフが生き返って映画に出ているのではないかと思うほどびっくりしました。特に晩年のピアフは本物にそっくりでした。歌は数曲をのぞき、ピアフの音声を使っているようですが、マリオンはピアフの歌い方、身体や舌の動かし方、そして特に息遣い、どこで息をしているかをメモするなどして徹底的に研究したそうです。マリオンはまだ32歳のフランスで人気のある長身の美しい女優さんですが、亡くなる前の薬物中毒やリュウマチでもう70歳を超えたおばあさんのようになったピアフを見事に演じきっています。凄い女優さんだなあと感心してしまいました。

3、映画の手法 時間軸
はじめに現在が映し出され、過去へ遡るというのは、よくあるのですが、この映画は過去と現在が何度も何度も交錯し、始めは見ているうちにちょっと頭がこんがらがって来ます。ピアフの年譜を頭に入れて見なくちゃ・・・と思ったのですが、あとで考えると、これは実に自然な描き方だったのだと気がついたのです。自分が昔のことを思い出すときには、時系列に思い出すわけではありません。20代の頃を思い出すとき、それに関連して5,6歳の頃を思い出すこともあり、そこからまた現在に戻ってくることもあります。映画の中でピアフとともに生き、彼女の人生を体験し、彼女の気持ちと同化する、そんな状況を作り出す手法として効果的だったのではと納得しました。

今までにもエディット・ピアフの主な20曲を収録したCDをときどきかけて聴いていました。よく響き渡るいい声でさすがイブ・モンタンの師匠・・・と心地よく聴いていましたが、映画を見てからは、背景にパリの街角が見え、彼女の人生の悲喜こもごもな思いが感じられるように思います。
監督がこの映画を撮ろうと思ったきっかけは、少女の頃のピアフがモンマルトルの丘に駆け上がる姿を捉えた一枚の写真を見たからだそうです。その少女とあの大ピアフをつなぐ架け橋になる映画を作りたかったとか。でもこの映画にはストリート歌手として歌い始めた15歳から20歳でルイ・ルプレに見出されるまでの5年間はあまり詳しく描かれていません。ピアフのそんな時期がもうちょっと覗いて見たいと思いました。
 

パウェルさんへ

 投稿者:のどか  投稿日:2007年10月 7日(日)23時33分1秒
  3日連続で終日出かける用があって、出て来られずおそくなってすみません。
私の質問に丁寧に答えていただき、ありがとうございます。
AGAPAOとFHILEOの語の意味についてこのような見解を伺ったのは、初めてでしたので、とても勉強になりました。今後もまたいろいろ教えてくださいね。

金曜日には、友人とコスモス畑に出かけ、写真をたくさん撮ってきました。
ちょうど見頃のコスモスが青空のもと、風にゆれてとてもきれいでした。
でも、私の写真では肉眼で見たほどの美しさを表現できません。
 

映画と音楽

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月 6日(土)19時48分22秒
   Angelさん、みなさんに

 タイトルの本題に入る前に
 Angleさんのコメントを読んで、「アガペ」を哲学概論で学ばれた、とあり私自身の疑問はほぼ解決しました。アガペは哲学のある部門での「述語」なのですね。
 それならば、何の問題もないです。
 混乱するのは、述語アガペを用いて、聖書でのアガペが述語の定義の愛である、と論じているように私には聞こえたことです。これは反対で聖書で説かれている愛がアガペである、ですね。
 一般用語が専門用語としても定義されていることがありますからね。
 私は理科系の出身で、哲学などまともに学ばなかったもので、気がつきませんでした。

 Angelさんの思い出された映画のリストを見ていて、ほとんど見たことのある映画なので懐かしく思いました。
 音楽の点で言えば、「禁じられた遊び」と「第三の男」です。
 禁じられた遊びのテーマ音楽、ロマンスはスペインの民謡が原曲のようですが、今は亡きナルシソ・イエペスのギターの演奏が私をとりこにしました。映画は、最初の場面で戦乱を逃れて逃げていく人々に戦闘機が機銃掃射を浴びせ、主人公の両親の上に弾痕がついた場面が今でも印象的です。
 音楽は、映画を見る前からギターの響きで私をとりこにしました。その後イエペスの来日もあったりして、学生時代はギター・アンサンブルのクラブを結成して、かなり弾きこみました。と言っても所詮素人の域をでませんでしたが(ギターで飯が食えたらなあと夢見ましたが、到底かなわぬ夢でした)。その後は、もっぱらギター音楽は聴くのみで、FM放送からギター音楽を片っ端から録音し、まとめてCDに焼いては楽しんでいる愛好家です。ギターも壊れてしまってから買い換えてないので触れてません。
 青春時代の私を夢中にさせたものの1つです。
 「第三の男」は、チターのテーマ音楽で有名です。ギターと同じく撥弦楽器です。弦の数はとても多くて演奏は極めて困難だそうですが。
 テーマ音楽はもちろん大好きですが、映画は最近著作権の期限切れで廉価版で出ているDVDを購入して、娘と一緒に見直しました。もっとも、娘にとっては始めてですが。
 大戦直後のウィーンの街の光景は、子供の頃を思い起こさせ、それだけでも身近に感じさせました。闇の商人ハリーとその友人の話ですが、取引はペニシリン(しかも、品質の悪い命に関わるもの)だったと推測しています。子供の頃に、「ペニシリンがあれば…」という親たちの会話を聞いたことがありますし、とても高価だったようで、半分は当時の日本を思い出しながら、見ました。
 日本とウィーンと、全然違う舞台ですが、時代と言うものは地理的条件を超えた共感を与えるのでしょうね。

 廉価版のDVDと言えば、禁じられた遊びその他ももう一度見たいと思い購入してあるのですが、「積ん読」状態です。毎日に追われ、落ち着いて見られないのが実情です。
 

「愛」と「音楽」と・・・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2007年10月 6日(土)11時26分0秒
 編集済
  パウェルさん「愛(アガペ)」に関するコメントありがとうございます。
私も、昔、「哲学概論」の講義を受けていて、アガペやロゴスについて
勉強したことがありました。しかし、今は記憶としてアガペの愛は・・・
「神がその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが
一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3−16)・・・・・
この聖句で語られている、崇高な愛(神の愛)がアガペである・・程度の知識しか
のこっていません。
それから、ピーメンさんがコメントしてくださった、本田美奈子さんのAmazingGrace
この歌の内容については、以前にもコメントしましたので、新たに書き添えませんが
信仰と音楽・・・・人生と音楽・・・・は、一対(?)のような気もします。
最近、映画も人生の凝縮されたもの・・・と感じることも多く、多くの人生の疑似体験を
するには、多くのいい映画を沢山、観ることかもしれないと思うようにもなりました。
そういう意味で、過去の映画の中で、音楽とストーリー(映画)が一体となった映画を
思い浮かべてみました。
私の、印象にのこっている映画で、その映画の題名を思い出すと同時に、自然に
その映画の主題曲が脳裏に浮かぶのは・・・・・・・
「禁じられた遊び」「鉄道員」「第三の男」「太陽がいっぱい」「ロミオとジュリエット」
「旅情」などです。これらは、あまりにも有名なのでコメントの必要はないと思いますが
もう少しマイナー(?)な映画では「シェルブールの雨傘」があります。
この映画は、ミュージカルでありながら、ストーリーがはっきりしていて、映像と主題の
音楽がほんとうによくマッチした名画だったと、今でも、ときどき思いおこすことが
あります。
ストーリーは、ごく平凡などこにでもあるような内容ですが、登場する人物がそれぞれ
優しさを内にひめた、ごく普通の市民であることが、映画をみたあとのさわやかさを
のこしてくれた要因かもしれません。
日本映画では、「砂の器」でしょうか。人間の生い立ちと生涯を深くとらえた名画ですが
この映画の主題曲も哀愁をおびて、生きる事の悲しさ、はかなさをメロディーでうまく
表現していたように思い、いつまでも心にのこった要因かもしれないと思えます。
 

アガペーに対するのどかさんのコメントに対して

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月 5日(金)22時03分44秒
  のどかさん
 ご質問の件について私の意見を述べます。
 >1、 聖書を改ざんしようとしている聖書訂正学者の意図について

 > 「同性愛を認める聖書へ、フェミニズム、エコロジー神学だのに適合する、
 >内容にするべく、聖書を改ざんしている。」
 >と書かれていましたが、愛の言葉の意味を厳密に区別することと
 >どうつながっているのか・・・・。

 この部分はよく分かりません。推測するに、ある意味での教会改革運動みたいなものがあって、それに対する意見だと思います。
 聖書の改ざんの意味ですが、原典の改ざんではなくて、翻訳を変えようとしているのかも知れません。
 それ以上のことは言えません。
 ですから、愛の言葉の解釈とどうつながっているのかはわかりません。

 >2、 イエス様とペテロの会話の中にギリシャ語では、
 >AGAPAOと PHILEOが混合して出てくるようですが、これらの言葉には、
 >実際、何のニュアンスの違いもなかったのか、もしそうだとしたら
 >どうして同じ言葉を繰り返さなかったのか・・・・。
 >など、ちょっとよく理解できませんでした。

 この部分はルカ11:43と20:46の部分ですね。
 私はギリシャ語に詳しいわけではないので、明白な裏付けをもって話ができませんが。
 確かに、2個の動詞 AGAPAOとPHILEOは別の語なので多少のニュアンスの違いはあるでしょう。
 英語ではどちらもloveと訳されてますね。日本語では「好き」となっています。
 11:43の文脈でアガペーが使われていると言って、神に対する至高の愛をもって挨拶されることを好む、と解釈するのは無理があると思います。
 だから、ここでのAGAPAOは単に「好き、好む」でよいと思います。言い換えると、AGAPAOにはここでは、至高の愛で神を愛する、あるいは、神が愛すると言う意味はないと言うことです。
 ですから、このような使い方からしてAGAPAOもFHILEOも大きな違いがないと考えて良いと思います。

 私が言いたかったことは、アガペーの特定の文脈における通常の解釈の内容(神の崇高な愛)についてではなくて、アガペーと言う単語はこの意味以外無い、そして、ギリシャ語では愛を異なる単語で厳密に区別していると言う主張がおかしいと思ったからです。

 ちなみに、手元の聖書を日本語訳と比べて調べてみると、例えばマルコ12:13の中に「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」とありますが、ここでの愛せよは「アガペーセイス」が使われています。
 また、ルカ6:32の「自分を愛してくれる者を愛したからとて」の部分の愛するはやはりアガペーが使われています。
 これらの文脈では、日常生活の中の周りの人々との関係について述べています。このような他人に対する愛も、神の至高に愛が要求されているのでしょうか。そうは思えませんね。

 直接のきっかけは、プロポーズしている絵に付けられたキャプションで「アガポー、古典ギリシャ語ならばアガパオー」と言っていることです。それは私の常識、アガペー=至高の愛、に反したので、常識が間違っているのではないかと思い、結論としては、アガペーと言う単語がそんなに意味の固定した語ではないと思ったことです。

 >…今まで語学を勉強する一番の喜びは、言語を異にする人々と
 >コミュニケーションがとれることだと、思っていましたが、
 >パウェルさんのコメントを読ませていただき、こういう楽しさもあるのか・・・
 >と気づきました。

 残念ながら、私はオーラルコミュニケーションが得意でなくて、百万本のバラをその意味を味わいながらロシア語で歌えますが、ロシア人の前に立つと一言も言えなくなり、会話を楽しむなど夢のまた夢です。
 ただ、書いて主張することはできるので、紙の上だけの語学になっています。ちょっぴり残念ですが。
 

本田美奈子さんのAmazingGrace

 投稿者:ピーメン  投稿日:2007年10月 5日(金)03時37分29秒
  http://jp.youtube.com/watch?v=GINSTfZSrs4&mode=related&search=minako%20honda%20amazing%20grace%20%E6%9C%AC%E7%94%B0%20%E7%BE%8E%E5%A5%88%E5%AD%90

Angelさん、のどかさん、パウェル兄
ピーメンも話題を変えて・・というよりもとに戻してすみません(ーー;)
どうしても皆さんと分かち合いたいことができまして・・・
昨日は賛美歌”Amazing Grace”ともかかわりの深いバプテストの玉木先生に
お会いして来ました。来週はパウェル兄も同行してもらう予定で先生も
楽しみにして下さっています。

そのAmazing Grace ですが、ピーメンはこの歌を讃美するためにクリスチャンに
なったといっても過言ではありません。そしてこの讃美に強烈!な影響を今さっき
与えたひと・・・故 本田美奈子さんです。

youtubeのアドレスを置いておきますが、もし開けないようでしたら、
”youtube 本田美奈子”で検索してみて下さい。・・・泣けます!!!
もうピーメンは本田美奈子さんを思わずにAmazing Graceを讃美することが
できなくなりました。(もちろん新垣勉先生やレーナ・マリアさんも思いますが)

Angelさん、のどかさん、パウェル兄、みなさん、
一緒に泣いて下さい!!

http://pimen20040410.seesaa.net/

 

わからないところ

 投稿者:のどか  投稿日:2007年10月 4日(木)22時59分31秒
  パウェルさん、私もアガペ、エロス、フィロスの言葉を冒頭の説明にあったように、思っていました。パウェルさんの解釈と紹介していただいたサイトを読ませていただき、そうなのか・・・と、とても勉強になりました。

サイトに書かれていた中で、よく理解できないところが、二つありました。教えていただければ、嬉しいです。

1、 聖書を改ざんしようとしている聖書訂正学者の意図について
 「同性愛を認める聖書へ、フェミニズム、エコロジー神学だのに適合する、内容にするべく、聖書を改ざんしている。」
と書かれていましたが、愛の言葉の意味を厳密に区別することとどうつながっているのか・・・・。

2、 イエス様とペテロの会話の中にギリシャ語では、AGAPAOと PHILEOが混合して出てくるようですが、これらの言葉には、実際、何のニュアンスの違いもなかったのか、もしそうだとしたらどうして同じ言葉を繰り返さなかったのか・・・・。
など、ちょっとよく理解できませんでした。

それにしても、そうした原語の意味合いを捉えないと聖書の正しい解釈ができないというのは、たいへんだなあ・・・と感じてしまいました。今まで語学を勉強する一番の喜びは、言語を異にする人々とコミュニケーションがとれることだと、思っていましたが、パウェルさんのコメントを読ませていただき、こういう楽しさもあるのか・・・と気づきました。
 

ギリシャ語「アガペー」について

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月 3日(水)19時58分32秒
  みなさんに
またまた、話題を変えて申し訳ありません

 愛と言う言葉は、古典(聖書)ギリシャ語では3種類あり、アガペーと言う語は男女の愛などとは異なる普遍的(高尚)な愛を意味する、と言われています。他の二つはエロス(男女の愛)、フィロス(親しいもの、友人)と言われています。
 このような言い方をすると、ギリシャ語では愛を厳密に区別しているように聞こえます。実際私はそう思ってましたし、ひょっとするとこのスレッドで以前に、知ったかぶりをしてそう書いたかも知れません。どこかに書かれていたことの受け売りで。

 しかし、語学のテキストの挿絵を見ていたら、花束をもった男性がプロポーズしているその場面に対して「アガポー(アガペーの動詞・一人称現在)」と書いてあります。この場合明らかにアガペーは恋愛ですね。
 また、会話の中で、「アガピ・ム」と言っています。アガピは現代風の発音でアガペーで、直訳すれば、愛しい人よ、となります。ムは、私の、です。意味は「あなた」とか「おまえ」位で、夫婦の間や家族間の間の言い方のようです。

 そこで、辞書を調べて見ました。
 古典ギリシャ語と銘打った英語版の辞書では、愛(love)、特に友情(brotherly love)、慈善(charity)、神の人に対するかつ人の神に対する愛(the love of God for men and of man for God)とあります。
 現代ギリシャ語の日本語の辞書では、(広い意味で)愛、(男女間の)愛、とあります。

 古典ギリシャ語から現代ギリシャ語に変化する間に、言葉の使い方に変化が生じたのかも知れませんが、私には、ギリシャ語では愛をことさら区別したと言うようには思えなくなりました。
 言葉は広い意味で用いられ文脈で意味が確定するのが普通です。ですから、アガペーが聖書で説かれている愛ならば、そんなに狭い意味ではないと思います。

 ついでに、アクセントはガの上にあるので、日本語にする場合には「アガーペ」の方がよいのではと思います。現代語ではエの発音が文字はそのままイになります。

 これを書いてから念のためインターネットで検索して調べ直してみました。用語は4種類あるとしてあるものもありましたが、私の主張には影響しません。
 それよりも面白いサイトが見つかりました。私の見方が妥当だと補強するものです。
   http://www.geocities.co.jp/Outdoors-River/7540/b39.html

 また、アガペーの意味を特別に解釈するのは、日本独特の観念優先の傾向かと思ったら、外国でもそのようですね。
 ギリシャ語のアガペーが他の愛を表す言葉とは別の、高貴な愛を表す特別の単語、と言うのではなくて、聖書の特定の文脈ではイエスの愛を意味する、と言うのならばわかりますが。

 反省点としては、安易な受け売りをするな、と言うことですね。恥ずかしいことです。
やはり、自分で裏を取って納得して自分の言葉で喋らないといけないですね。
 だからと言って、ここで書いた私の主張が正しいと言っているわけではなくて、現時点では私はこう理解し考えると言うに過ぎないのですが。
 

教会で”たいせつなひと”

 投稿者:ピーメン  投稿日:2007年10月 2日(火)14時20分9秒
  教会を遠ざかっていたピーメンですが、ひょんなことから教会で聖歌を歌ってくることが
できました。最近身についた3オクターブの声を試すことができました。テナーのパートが手薄だったので、テナーに入りました。聖歌指導の神父夫人も”良い声出てたよ!”
と褒めてくれました。

キッカケというのが、近くの酒屋さんでルーマニア産のワインを見つけたことです。
教会に献品を申し出ましたら、丁度ルーマニア女性との結婚を控えた男性の洗礼式だった
ので、結婚式の日にご当地ワインを使ってもらえそうです。

教会で聖歌を歌うことには意味があります。ピーメンが行っている正教会は礼拝で楽器を用いず、アカペラの混声四部合唱で、”歌いっぱなし”の祈りをします。そのためにお互いのパートの声を聴きあってハーモニーを作ることになります。それでピーメンは即興でハモれる特技が磨かれたんですけれども・・・

また、音が人の肉声だけですので、深い呼吸をして軽く良く通る声を
出さなければなりません。これが”呼吸法”になるんですよね。
高齢の信徒さんも多いので、アカペラコーラスがお年寄りの健康維持・増進にも
一役買っていると思います。

今日は礼拝後に”敬老会”ということで75歳以上の信徒さんのためのお祝いをしました。
ギターを持参していたピーメンは、”歌のプレゼント”として、
さだまさしの”たいせつなひと”を弾き語りしました。

♪あなたの存在だけが 他の全てより秀でてる 星や月や花や鳥や
 海や空よりも 際立っていて いとおしくて たいせつなひと

・・・この部分を聴いてもらいたかったんですよね。

♪天より主をほめあげよ・・・
と世界を造られた創造主をほめ称える聖歌を歌ったあとで、
創造主の神様が一番たいせつに思って下さる方々へのメッセージ。

お年寄りをたいせつに思う気持ちを歌に乗せることができました。
そしたら敬老に達していない、若い女性信徒さんからも
”ステキな歌を聴かせてくれてありがとう”と言ってもらえました。

エルムの浜崎久美子さんと同様に感じてもらえたようです。
・・・やはり”歌を主役にしたのが正解”と感じたピーメンです。

http://pimen20040410.seesaa.net/

 

いいお話ですね。

 投稿者:のどか  投稿日:2007年10月 2日(火)11時18分16秒
  パウェルさんのお話もピーメンさんのお話も、なるほど・・・と考えさせ
られるものがありました。お互いが話をしないでも気持ちを理解し合える
までには、相当の年月がかかります。「あの人はこう言っているけれど、
本当はこういう気持ちなんだ・・・」とわかるのは、親子や長年一緒に
過ごした夫婦くらいのものでしょうか。

もちろん真実の気持ちを表現するのは、言葉だけではありませんから、
いろいろな面から人の気持ちを感じ取ることは、大切ですが・・・。
言葉は、かなりその人の姿を表現するということは、日頃感じています。
こうしてお会いしたことのないネット上でのおしゃべりにも、ピーメンさんが
パウェルさんのお人柄を伝えてくださっているのに近いイメージを持っていま
したし、Angelさん、ピーメンさんにも、現在進行形ではありますが、
あるお人柄のイメージを持っています。また私についても同じことが言える
と思います。

 ピーメンさんのおかあさまとお姑さんのお話は、とても参考になりました。(笑)
人は得てして自分を理解してもらうことを望みがちですが、相手の気持ちを理解
しようとしなければならないこと・・・。忘れないようにしたいと思います。
 

自分に向かって感謝してくれる人

 投稿者:ピーメン  投稿日:2007年10月 2日(火)02時04分23秒
  Angelさん、のどかさん、みなさん

”感謝”ということの本質に迫ってきたような気がしますね。
手前味噌になりますが・・・
ピーメンの”代父”パウェル兄はとても”シャイ”な人なんですね。
恩着せがましいことを言わない人なので、”自分のためにしてくれている”
ことがわからない時期がピーメンにもありました。

ピーメンが正教会に導かれた直後、神父が「同じ福音派出身だから気心が知れるだろう。」
ということで”代父”につけてくれまして、それ以来何かと面倒をみてもらっています。
しかしパウェル兄はピーメンに対して恩着せがましいことは何一つ言わず、むしろピーメン
が”お礼に”と思ってしたことに対して感謝してくれるのです。

聖書には、「自分を愛してくれる者を愛したとしても何になろう」という聖句がありますが、ピーメンはまず、「自分を愛してくれる人に対する感謝を忘れてはならない。」と
思っています。自分の方が感謝したいのに自分に向かって感謝してくれる人・・・
・・・玉木先生もそうです。”感謝”のお手本をいつも示して下さっています。

亡くなったピーメンの母も良心的で他人に尽くす人でしたが、ひとつ重大な勘違いをしていました。それは、「人は恩に着せられる=感謝を要求されるよりも感謝されることを喜ぶ」
という視点が欠けていたことです。それで姑(私の祖母)といつも”恩着せ合戦”をして
意地の張り合いに明け暮れていました。お互い”自分を認めて欲しい”というサインを
送っていたのに、ついぞ”相手を認める””相手に感謝する”ことなしに悲惨な死に方をしました。お互い一言でも”感謝”を口にすればよかったのに・・・

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。あらゆることに”感謝”しなさい。
(テサロニケ)
”喜び”と”祈り”と”感謝”が一体のものであることを聖書は説いているのでは
ないでしょうか?

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言葉に表すこと

 投稿者:パウェル  投稿日:2007年10月 1日(月)22時06分17秒
   のどかさん、Angleさん、ピーメンさん、みなさんに

 のどかさんは、「お陰様」を辞書で調べられたとのこと、そんな当たり前のことを思いつきもしなかったのでびっくし、かつ、感心しました。日本の辞書にも「神仏から受けためぐみ」とあったそうで、ヨーロッパでも同じですね。
 娘のその話をしたら、外国人でも、「無神論者」と名乗り挙げている人の中には、意図的の神の恵みを表す言葉を避け、別の言い回しをする人もいる、とのことです。

 また、Angelさんと違って、私は挨拶として「おかげさま」と言うのに抵抗があったので、自己流の解釈にこだわり、世間に合わせていく、と言う消極的な考えでした。
 でも、私は神に生かされているのだし、自分でやったつもりになっていることでも、よく考えると、神の働きのおかげ、と感じることもよくあるので、そんなに構えることなく、すなおに「お陰様です」と言えるようにしたいです。

 ピーメンさんが紹介された、ありがとう、もよい話ですね。

 私も、出来る限り「ありがとう」を言うようにしていますが、忘れることもありますね。我が家では(今は子供達は独立したので普段は一人暮らしですが)、親子の間でも、必ず「ありがとう」を言うようにしています。
 これは気障にみえるかもしれませんが、二つの個人的な体験から来ています。

その1
 私の父は(20年前に病気で亡くなっているので、こんな話をしても出てきて文句を言わないと思いますが)、昔の人間なので、家族の間でお礼を言うのは水くさい、と言って、実際に言いませんでした。しかし、母も人間ですから、夫の反応がはっきりと表現されないことには精神的にかなり参っているように見えました。
 それを子供の私は見ていたので、父を「反面教師」にして、その流儀を克服しようと決心しました。

その2
 私も、昔風の文化の中で育ったので、「不言実行」と言うことで、何も言わないで良いと思うことをするべきだ、と思っていました。そして、子供ながら、そう努力してきました。
 しかし、自分がよいと思って「不言実行」しても、返ってまわりからいやがられたり、非難されたりすることがありました。それは、精一杯努力しているつもりの本人にはとても悲しく、くやしいことでした。
 そんな私を見て母は言いました。「おまえは良いことをしているつもりかも知れないけれど、黙ってするからいけない。黙っていると周りの人には分からない。言葉にしないと伝わらない」と。
 この言葉はずっと私に残っています。自分がよいと思っても、周りの人に理解してもらう努力をしないと、反対に不快にさせることもある、と。 それ以来、自分の考えてることをできるだけ相手あるいは周りの人に伝えるようにしています。
 また、相手に期待することが在る場合にも、はっきりとそれを口に出して言うこと、日本流に黙っていて、「以心伝心」で相手に伝わり自分の期待に応じてくれるのを待つようなことはしない。それは相手に対して負担を追わせるだけであるから、いけない、と思っています。

 こうは言っても、やはり「ありがとう」と言いそびれることも多いです。自戒の言葉にします。
 

名医の”ありがとね!”

 投稿者:ピーメン  投稿日:2007年 9月30日(日)16時58分21秒
  http://homepage3.nifty.com/primelife/fukushima.htm
Angelさん、のどかさん、 パウェル兄
丁度タイムリーな話題です。TVで見た”スーパードクター”
脳神経外科の 福島孝徳先生のHPです。

福島先生は実現不可能に見える症例の手術を成功され、
賞賛と感謝を受けている名医なんですが・・・
TVを見ていましたら、この先生の口癖が”ありがとね!”なんですね。
スタッフや周りの人たちに対して小さなことでも”ありがとね!”

逆に全快した患者さんがお礼に訪ねてこられると、
実に嬉しそうな笑顔で”良かったね!”

「”あ”の字が最初に来る言葉を唱えると運命が好転する。」
という本をくれた友人もいまして、ピーメンも”ありがとね!”を
口癖にしようかと思っています。

Angelさん、のどかさん、みなさん、
ステキな場所を作って下さって、ピーメンやパウェル兄をいつも暖かく迎えて
下さって・・・・”ありがとね!!”

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「おかげさまで・・・・」 「ありがとう・・・・・」

 投稿者:Angel77  投稿日:2007年 9月30日(日)07時42分45秒
 編集済
    パウェルさん のどかさん ピーメンさん みなさま

パウェルさんんの「おかげさまで・・・」のコメントありがとうございました。
私の「おかげさまで・・・」の言葉は、信仰を持たなかった頃は、あまり使って
いなかった気がします。
やはり心から「おかげさまで・・・」と 他人に言えるようになったのは
神を信じ、神様の愛のもとに生かされている・・・!と 実感しはじめたころからの
ような気がするのです。
「おかげさまで合格しました・・・・」とか「おかげさまで病気がなおりました・・・」
とか「おかげさまで元気に暮らしています・・・」といった言葉のなかには、いつも
「神様にお願いして祈ったので・・・おかげさまで合格しました・・・」であり
「神様にすがって、祈り祈って助けていただいたから・・・・おかげさまで病気が
なおりました・・・」であったような気がします。
そして、「いつもイエスさまとともにいて、神様の御手(み手)のなかにあってこそ
・ ・・・おかげさまで元気に暮らせているのです・・・・」のような気がするのです。

それからもう一つ、私の好きな言葉に「ありがとう・・・・・」があります。
この言葉は、昔読んだ、高僧の著書の解説に・・・・・・・・
何億もの人間のなかで、会えた不思議・・・何千年もの時間の経過の中で時間と
空間を共有できた不思議・・・・」こうした天文学的な偶然の中で起こった
出会いや友情や助け・・・に対して・・・
ありえないこと(有りえ難いこと)―――――>有り難う・・・・! となった
と言うのです。私は、「ありがとう・・・・」の語源はやはりこの高僧が言われる
ような意味が込められているような気がしてならないのです。
「神に生かされている・・・不思議!!」「神に守られている不思議・・・!!」
「不思議な縁で時間と空間を共有させていただいている偶然・・・・・」
これらは、本当に「有り難いことーーー>有り難う・・・!」になるような気がして
ならないのです。
 

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