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もう死ぬしかないと絶望している人に・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2019年 8月 1日(木)16時03分12秒
  世の多くの人が辿る人生は、すざましい生存競争の中で世の荒波にもまれながら

あえぎあえぎ生きているのが本当のところ包み隠せぬ現実かもしれない。

しかし、どのような境遇のなかでも自分の心をこうした人生の荒海にもまれるまま

さまよい漂って、ある時は絶望し、またある時は不幸な現実に押しつぶされながら

息絶え絶えになんとか日々を過ごしているのが現実かもしれない・・・・。

では、我々の人生には逃げ場はなく、息絶え絶えの精神的苦痛の中で生き続けねば

ならないのだろうか?・・・・・

私は、そうではないように思う。否、決して人生はこの世の非情さに押しつぶされながら

生き続ける選択肢しか無い・・・とは言い切れない…と思っている。

それは、そのような絶望的な状況下にあっても、自分の心の持ちよう一つで180度

悲観のどん底から光り輝く別な次元の平安の世界に自分を移行させることができる・・・と

確信しているからである。

それは、人間だけが自分の心を180度転換できる自由意志を持ち「心の持ちよう

一つで この苦境から転換できる自由」が与えられていることである。

どのような絶望的な状況に陥入れられても、この今の現象はいづれ時間と共に

消え去るもの 永遠に続くものではない・・・! と信じ、心に温かい光と温かい想念を

抱き 自分自身の心に向かって、「この厳しい現実は一時的なものでもうすぐやがてすぐ

もはや死もなく病もなく苦しみもない光り輝く世界が現れる・・・と確信し

確信して念じ信じ込むのである。

この心理的な180度の転換が人間だけにはできることを実証した歴史的事実があった。

それは、
ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl、1905年3月26日 ~ 1997年9月2日)は、

オーストリアの精神科医、心理学者であるヴィクトール・エミール・フランクルが彼の著作『夜と霧』に詳しく描かれている。

それは、彼のユダヤ人としてのナチスドイツの強制収容所での実体験をもとに描かれている。

彼は人間の極限状況における心理分析と行動分析を宗教の世界ではなく現実の

人間世界における精神科医としての観察と、するどい 心理分析で人間の極限状況に於ける

行動パターンを紹介している。

この絶対に逃れることのできない強制収容所での過酷な生活において、

投獄された当初は無意味ではあるが、逃亡を企てることに奔走したり何らかの抵抗を

示す ことにより自分の生きるエネルギーを費やそうとするが、間近の仲間が次々に処刑

されていく中で やがて、今までの生きようとする意志がそがれ、虚脱感の中で、放心状態と

なり仲間が目の前で 殺害されても無感動・無感心となって、道徳観や人間性が徐々に

崩壊していく。

そしてこの後は、ただ放心状態で肉体の痛みや苦痛には反応するが人間的な心の喪失が

始まり、 ただ家畜のような動物的反応だけの存在に崩落していく。この極限状況に於け

る人々の大半は このような過程をへて人間性を失い他人の物を略奪してでも生きようと

する精神的飢餓状態となり、ただ動物的本能だけの存在となって、心的には完全な

人間性の喪失・崩落となっていくのである。

しかし彼の観察と体験記録はここで終わっていない。彼はこの絶望的な強制収容所の

中で、まれで数少ないが不思議な光景を垣間見たのである。それはこのような過酷な

収容所生活の中で、虚無感と脱力感にさいなまされながらも、人々を励まし助け

明るい希望の愛の言葉を投げかけている、キリスト教信者の姿であった・・・・。

彼ら自身、極限状況の中で決して逃れることのできない絶望的環境にありながら

無慈悲な看守に対してもおびえず、投獄された仲間に対して「このような現実は

長くは続かない・・・・! もうすぐ心的にも開放され安堵できる世界を見ることが

出来る・・!」  と励まし笑顔をたやさず勇気づけていたのである・・・・。

収容所の中の大半の人々は処刑されるか、身も心もボロボロになり自ら高圧電流の

通っている鉄条網に駆け込み自殺していったが、不思議にも前述の強い信仰心を

もったキリスト教信者の少数の人々は自ら人間性を崩壊させることなく終戦によって

解放されるまで生き続けた・・・・と言うのである。




そして彼らは、あたかもそうした時が今、この今、やってきたように 感じ心から感謝と歓びの想念で

一瞬一瞬を光り輝くバラ色の世界に塗り替えてしまうのである。

この確信は

「もはや死も病もない永遠の光り輝く世界が私を信じる人々には与えられる・・・!」

と言い切ったイエスキリストの言葉の約束を固く堅く信じきることから実現に可能に

なる・・・・・・・・・・。
 

数年前の霊的体験から・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2019年 7月31日(水)22時41分34秒
  数年前の霊的体験から・・・

        何らかの原因で人生に希望が持てず、教会や寺院などの目に見える宗教では

        救いが得られず、絶望と悲哀の中をさまよっておられる方のために・・・


    数年前の、不思議な私の霊的体験を再度投稿致します。参考になれば幸いです・・・。

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

不思議なイエス様との出会いがあり、私の一生にとっては貴重な霊的体験でした。

この手記は、同じような体験をした人でないと理解に苦しむコメントかも知れません。

しかし、現在何らかの意味で(病気や人間関係や仕事や自分自身の孤独などで)

この世にもう何の希望もなく絶望のどん底にある人が一読くだされば、他の宗教では

決して癒されなかった自分の心が開いて明るい希望の光が見えてくるかもしれない

・・・・・と思っています。

私は、この体験により、目に見えない聖霊の働きの不思議さを感じると

共に、およそ真の信仰とは、理屈では説明できない、超自然的な霊の世界での

交わり(聖霊の不思議な働きによる神様との全身全霊での感動)だということを

知りました。

それは、環境的にはかなり孤独な状況と、ある意味では精神的な失意の中での

出来事であったのです。

長時間の真剣な祈りの中で、突然雷鳴のような、感動が全身を走り、うれしさの

あまり涙があふれでてとまらなかったのです。

そして大声でイエスさまにやっと出会えた。イエス様、私は長い間あなたとの出会いを

待っていたのです。・・・・と大声で叫んでいました。

そうすると自分自身の全身があたたかいぬくもりを感じなにか、不思議な空気が私を

包んでいるのを感じたのです。

私は、夢中で「イエス様ありがとうございます~~~ありがとうございます~~~~

ありがとうございます~~~」と叫んでいました。

私は、やっと下記の賛美歌121番で歌われているイエス様にお出会いすることが

できたのです。

それは、教会の説教台の真上にある十字架上のイエス様ではなく、また、高くそびえ

ステンドグラスからまばゆいばかりの大冠をかぶられた権威あるイエス様のお姿

ではなかったのです。この賛美歌121番で歌われている、私たち人間の人生の

底辺をさ迷っている人としてのイエス様だったのです。このような体験ではイエス様は

私と一体でした。

いえ、イエス様が私そのものを抱えて厳しい人生を共に歩んでいてくださったのです。

私にとってのイエス様は、私の絶望そのものであり、私の悲哀そのものであり、私の

肉体の苦しみと共にあり、また、精神的な絶望と乾きと一体だったのです。

私の一呼吸、一呼吸そのものがイエス様と合体していたのです。

それを知った私の喜びと魂のふるえは、いつまでもいつまでも消えることはありません

でした・・・・・・・・・・・・。

     讃美歌121番

馬槽(まぶね)の中に うぶごえあげ、
木工(たくみ)の家に  人となりて、
貧しき憂い、     生くるなやみ、
つぶさになめし    この人を見よ。

食するひまも   うち忘れて、
虐げられし  人を訪ね
友なき者の  友となりて、
心くだきし この人を見よ。

すべてのものを  与えし末、
死のほかなにも  報いられで、
十字架のうえに  あげられつつ、
敵をゆるしし   この人を見よ。

この人を見よ、  この人にぞ、
こよなき愛は   あらわれたる、
この人を見よ、  この人こそ、
人となりたる   活ける神なれ。

(讃美歌 298番)

安かれ、わが心よ
主エスは共にいます
痛みも苦しみをも
おおしく 忍び耐えよ
主イエスの 共にいませば
耐ええぬ 悩みはなし

安かれわが心よ
なみかぜ猛(たける)ときも
父なるあまつ御神の
みむねに委ねまつれ
み手もて導きたもう
望みの岸は近し

安かれわが心よ
月日のうつろいなき
御国はやがて来たらん
憂いは永久(とわ)に消えて
輝く み顔仰ぐ
命の幸をぞ受けん
 

幸せな日々を送るために心を如何に保つべきか・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2019年 5月29日(水)13時04分55秒
  これだけ世の中の移り変わりのスビードが早く、また複雑な世界情勢の

中では、どのような思いで日々を送るべきか・・・・難しい選択になる。

世の中の移り変わりや、情勢分析は怠ることはできないが、かといって

長期的な予測や近未来の断定的な判断はいろいろな問題が交錯している

現代社会では断定はむつかしい。

と、すれば具体的に我々はどのような心構えで日々を送ればいいの

だろうか・・・・。結論ではないが下記のような心情と生活態度で

いれば、大きな失望や挫折がおこるリスクは下げることができるような

気もするので、自分自身に言い聞かせるつもりで列挙してみた・・・。

① まず、あまり長期的な予測をたてて動かないことだと思う。
  このことは、複雑な世界情勢の中でどのような突発的なことが
  起こるか予測が立たない現状であるだけに長期予測は意味がない
  ようにも思えるからである。
② 以前に時間の概念について述べたことがあるが、私は現実にある
  のは、この現在の一瞬・一瞬しかないと思えるので、この一瞬・
  一緒の今、この時間を大切に精一杯生きてみることだと思う。
③ 上述の今現在の一瞬一瞬を精一杯生きるためには、悲しみや
  不安をすべて自分の心から追い払って底抜けに明るく・明るく
  楽しい思いを自分の脳裏に埋め込んで思考し行動することだと
  思う。
④ 具体的には今、自分が一番楽しくなれることが、あればそのことに
  全力投球し、楽しい幸せな思いをそのことに集中させることだと
  思う。(音楽家なら作曲や演奏に、画家なら絵を書くことに、作家
  なら、心温まる著作活動に没頭することだと思う)
⑤ 日々の日常生活においては、笑顔を絶やさず、どんなことにも感謝
  して、自分と接点のある近隣の人や家族・職場の同僚とも仲良く
  いい面を認め合って明るく明るく接していくことだと思う。
⑥ 自然の中で、季節の折々の花を鑑賞して、自然を散策したり、
  緑の木々の公園や山々を歩き澄んだ空気をいっぱいにすい、
  小鳥の鳴き声や太陽の暖かさを身に感じながらこうして生かされて
  いることに感謝して幸せな気持ちでこの一瞬一瞬を過ごせたら
  ただ、それで十分だと思う。
⑦ こうした心境になるためには、以前に書かせていただいた
  私自身、まだまだ未熟な信仰生活だが・・・・
  若いころ読んだ聖書の一節・・・・
  「いつも喜んでいなさい」
  「絶えず祈りなさい」
  「どんなことにも感謝しなさい」
 (テサロニケ5章16~18節)
  以上の聖句をそのまま何の抵抗もなく受け入れ、日々の生活に
  活かすことだと思う。

 この御言葉は、上から目線で説教じみて命令している口調の
 御言葉のようにも思えるが、最近はそうでなくこの後に続く聖句

 「これこそ(上記の3つの御言葉こそ)、キリスト・イエスにおいて
 神があなたがたに望んでおられることです・・・・」と書かれている
 意味に気づいたのだ。
 これは、命令ではなくこの世の苦しみや悲しみにもまれて生きている
 私たち人間を本当に哀れみ愛してくださっている創造主(我々人間を
 創ってくださった神)が具体的な幸せな生き方として示し導いてくださって
 いる御言葉なのだと気づいた。
 悲しく苦しいときは、私を支えて生かしてくださっている太陽や家族や
 友人や隣人に感謝し、それを喜びと感じていよう・・・・
 そして、苦しく将来が不安な時には、とにかく祈ってみよう・・・・
 そして、いま現在、なんとか生かされていることに喜び、感謝してみよう・・・と。
 苦しい時には、下記の讃美歌を思い出し口ずさんでみようと・・・・・・。

 (讃美歌 298番)

 安かれ、わが心よ
 主エスは共にいます
 痛みも苦しみをも
 おおしく 忍び耐えよ
 主イエスの 共にいませば
 耐ええぬ 悩みはなし

 安かれわが心よ
 なみかぜ猛(たける)ときも
 父なるあまつ御神の
 みむねに委ねまつれ

 み手もて導きたもう
 望みの岸は近し

 安かれわが心よ
 月日のうつろいなき
 御国はやがて来たらん
 憂いは永久(とわ)に消えて
 輝く み顔仰ぐ
 命の幸をぞ受けん
 

人生の素晴らしい過ごし方・・・(再投稿)

 投稿者:Angel77  投稿日:2019年 5月27日(月)10時56分19秒
  誰もが自分の人生を有意義に過ごしたいと思ってはいるが、いざ日々の暮らしに役立つ具体的な方法となると

なかなか一言では言い切れいない面もあり、特に文章にするのは難しい・・・。

しかし、具体的でなくてもぼんやりと、こういう思いでいたら多分有意義な日々が送れるかもしれないと思うことはある・・・。

それは、この肉体は永遠には生きられないことなのだが、自分の心の中だけは希望と夢に満ちた思いを一杯に秘めて、

自分の魂(思いは)永遠に希望と夢を一杯抱いて生き続けられる・・・と思うことである。

これは、科学的には自分の肉体の存在は永遠ではないことは事実なので、そういう意味では不可能なことなのであるが、しかし

心は(思いを自由にめぐらすことは)無制限で思うことに制約は無い。

とすれば、最高に明るく希望を輝かせて自分の魂を歓びと希望に満たして生きることは可能である。

そういう意味で「心に太陽を・・・常に希望を・・・魂一杯輝かせて一瞬・一瞬を生き抜きたい・・・!」

さて、しかし現実の自分の命は有限であり、そういう意味では永遠のこの世での生活は不可能なのではあるが

しかし、永遠の命があるつもりで生きることは可能である。そういう意味では、「一日一生」の思いで、今日限りの命であっても

悔いのないように誠一杯明るく明るく、希望を持って死の瞬間まで生きていようと思う・・・!!

聖書やキリストがのこされた言葉の中には、永遠の命や肉体の死ののちにも素晴らしい永遠の世界(天国)がある希望を、自らの

死の苦しみの中から叫ばれていることを思い出し、永遠の命、永遠の魂の輝き(不死)を信じて信じて疑わないでおこうと思う・・・。
 

日本国内での理想的な宗教信者の生き方

 投稿者:Angel77  投稿日:2019年 5月21日(火)11時39分25秒
編集済
  現代の日本国内において、何らかの宗教を信じている宗教者として、どのように人々と接し周囲の人々と

交わっていけばいいのであろうか・・・・。

それぞれのパターンを類型化し箇条書きにしてみた。

(1)その教派の経典や教理が、かなり排他的で他の宗教・宗派の存在すら認めないと言う教派の場合

  一般的に、創価学会やカトリック教会、プロテスタントの中でも大きな組織を持つ日本の
  プロテスタント教会やイギリス・アメリカなどの大国にその教団の本部を持つキリスト教会
  エホバの証人(エホバの王国会館)モルモン教・イスラム教などその他新興宗教の一部

  以上、ざっと見ただけでもかなり多くの教団教派が
  他の宗教・宗派の信仰や教理を共有したり認めは
  していない・・・。

  こうした、教団。教派に所属する信徒は、民間会社や職場においてもその信仰が強く教団教派において
  優等生である場合は、職場における勤務評定は低い場合が多く、離職率も高いと言われている。
  ただ民間会社の場合で、経営者がこの教会教派の幹部である場合は、勤務評価は逆に高く管理職への
  道も開ける場合がある。

  上述の一部の特殊な例を除けば、一般的に宗教を信じることは立身出世と安定的な生活収入を得る
  ことに関してはマイナス要因のように思われる。

  では、宗教が企業や一般社会に浸透していない、日本において、真の信仰を貫き通すには、どのような
  日々を過ごしていけばいいのであろうか。

  私は、下段にも書かせていただいたが、日々の生活費を安定的に得るためには、自分の信仰を外部に

  公にせず、信仰は心の問題だと割り切って、仕事や市民としての日常生活の中に持ち込まず、寝静ま

  った深夜や休日の日に家の中で目立たぬようにお祈りをしたり、賛美の歌を歌ったりして、信仰を

  確かめる程度にとどめるべきだと思う。

  上記の理由は、信仰が試されるのは、病気になったり、親族が死去して一人ぼっちになった時である。

  こういう時期こそ、信仰は自己の奥深くから自分自身を支える手段として堅く信じていくべきだと

  思うのである。それからもうひとつ、人生の晩年が訪れた時、友人も家族も死別してただただ、一人で

  日常の自分の生活を営まなければならなくなった時こそ、自分の持つ信仰が試される時でもある。

  信仰を持たない人は、この時点で孤独に耐えられず、自殺をする場合が多く、他の場合も日常の

  自分の介護が支えきれず家の中は、ゴミ屋敷となり、悪臭と不健康な食事から、病気を誘発し、その

  病気の痛みや苦しみも誰にも支えてもらえず、ただただ、家の中で痛みと孤独にさいなまされて、

  激しい孤独感と恐怖感から孤独死していくのである。現代の高齢化し、核家族化している家庭の

  日本人の多くはこのような、言い知れぬ見捨てられた状況の中で、自分の生涯を終えるのである。

  ほとんど、この孤独死の場合の発見は、死後、何日か経過してから悪臭がするなどの周辺住民の

  苦情から役所や警察が重い腰をあげ、訪問して自然死を発見するのである。

  私は、こうした孤独死を避ける意味でも、教団や宗教団体への所属は必要であるとは思うが、今の

  宗教団体がどれだけこうしたお荷物の信者の支えになってくれるか・・・は疑問である。

  薄情な日本の宗教団体は、今一度日本のこうした状況を把握して、宗教が一番支えてやるべき

  人間の終末期の心のケアーを重視すべきである・・・と思う。

  (次回、各宗教の信徒側からみた、高齢化社会における、信仰の在り方と心構えを述べてみたい)

http://

 

信徒 100人に1人の砂漠のような日本の中で・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2019年 4月16日(火)13時54分45秒
編集済
  キリスト教信徒が100人に1人と言われている砂漠のような、日本の中で

真のキリスト教信仰を貫いて生きていくことは至難の業(わざ)である・・・。

下段(別項目)で書いた似非(エセ)キリスト信者(親がキリスト教徒なので

いやいやクリスチャンとなっているが、日常は仏教徒と変わらない生活を送り、

職場や学校ではイジメや孤独に陥らないため、懸命にキリスト教徒であることを隠している信徒)

を除けば真のキリスト教信者として生きている日本人は700人に1人かもしれない。

では、このように真のキリスト教信徒が生きにくい日本において、信仰を貫くためにはどのような生き方が

あるのであろうか・・・。

以下は私の主張であり、真のキリスト教信者のすべてがこのような生き方・考え方であるとは思わないで頂

きたいが・・・・

まず、この日本において、自分の信仰を貫き通すには、一度、自分の所属している教団の教会規約や信仰心

情をすべて捨て去るか無視することから始まる…と思っている。

このように書くとこの時点その信徒は教会から追放されるか破門されることは必定であるが、なにも書面や

口頭で告白するのでなく自分自身の心と魂の奥深くで自覚するだけでいい・・・。

では、このような信仰でいい・・・と確信するに至った理由を述べよう・・・・。

そもそも、キリスト教会は、4世紀、ローマ帝国の国教となり聖書が完成したことから始まるが、私は聖書

の大部分が真実だと思う反面、教会規約や聖書の解釈は、国を治めるためのものであった気がしてならない

(帝国の政治的反体制思想や犯罪者の抑止のための教会規約)

その後のヨーロッパやロシヤ、アメリカに展開されたキリスト教会諸派も基本的には同じようなその国々の

反体制思想や犯罪防止目的を意識して出来上がった教会規約や聖書解釈であるように思える。

これを証明する歴史的事実をあげれば、きりがないが・・・・

マザーテレサがインドにおいて、異教徒を手厚く介護し大国が小国を支配する戦争に反対した、初期のころ

は、本国のカトリック教会からはたびたび注意を受け破門されるような状況が続いたこと・・・もこれを裏

ずけている。行き倒れのヒンズー教徒をヒンズー教徒の様式で葬儀をし、その土地、土地の人々の絶賛を受

け、その人道的・博愛的な行動が世界の良心うごかし、抑えきれなくなった人気にようやく本国のカトリッ

ク教会もこの行動を容認するようにはなったが、これと同じような真のキリスト教徒・神父・牧師の働きは

当初弾圧されたり、暗殺されたりもした。アメリカにおけるキング牧師の黒人差別反対運動も暗殺事件が起

こるまでは、キリスト教国を自認するアメリカにおいて最初から絶賛されてはいなかったのである・・・。

日本においては、戦前には、戦争に反対する宗教、これを信じる信徒は皆んな、非国民であり思想・信条を

取り締まる特高警察の監視下におかれていたのである・・・。特に戦時中は、「イエス団」の創始者賀川豊

彦牧師は、貧民をたすけ、社会から落ちこぼれた人々を献身的に支えたイエスキリストに近いすばらしい牧

師であったが、無産政党運動に加担し、反体制勢力であると断定され、捉えられ投獄されたことも事実であ

る。

戦後、民主主義となりキリスト教国であるアメリカが一時GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)を東京にお

いていたころ、九州においてGHQに抗議した、手島郁郎牧師が捉えられ一時、投獄されたこともあった。彼

は東京キリスト聖書塾(通称、幕屋)を創設し独自のキリスト教の教えを広めたすばらしい牧師であった

が、当時の日本におけるカトリック教会や日本基督教団のような大きな組織の教団ではなかった為弾圧され

たのである。

このように、キリスト教会は平和主義や博愛精神を表向き掲げてはいるが、政治的圧力やバチカンやアメリ

カ・イギリスなどに本拠をおく巨大教会の意向には、絶対服従なのである。


では、私個人の信仰はこうした勢力に抵抗し上述の牧師のような社会運動を掲げることが真の信仰である

と・・・と主張しているわけではない。

勿論私個人にこのようなパワーや情熱があるわけはなく、本当にか弱い一人の信徒なのである。なので、せ

めて心の奥底だけでも、こうした歴史的事実を心に刻んでおきたいと思うのである。

わたしは、巨大教団の教理や経典だけにとらわれず、常にイエスキリストがとられた行動(異教徒助け、虐

げられた人々の味方となって、病人を癒し、常に争わず平和と無抵抗主義を貫き通された行動)をみつめて

いようと思っているのである。その強い決心に、現存する巨大教会の教理や教会規約は私にとって何の拘束

力も持たないと思っているのである。

具体的に述べれば、イエスキリストが伝導されたそのままを、また十字架にかけられ昇天され復活されたそ

れ以後の12弟子とパウロ(サウロ)の行動と心情・信仰のみをお手本にししたいと思っているのである。

なので、私にはそびえたつバチカンや大国の巨大な教会の権威は必要ないのである。

ただ、ローマの国教となるまでに、活躍したパウロや12弟子のような信仰、その方々に導かれて信徒と

なった、原始キリスト教会(キリストの霊に導かれて集まった信徒の集団)

私にとっての教会は目に見える教会でなく、建物も権威も政治力も富もなにもないキリストの霊に導かれて

集まる霊的集団こそが私の所属する真のキリスト教・教会なのである。
 

続 日本人の心の真相

 投稿者:Angel77  投稿日:2019年 4月 3日(水)23時25分36秒
編集済
  日本のキリスト教信者の深層心理と日本に於ける布教活動の難しさについて・・・

一概に日本人のキリスト教徒といっても、祖父や祖母がクリスチャンで、孫は自分の親の勧めで

幼児洗礼を受けたりして教会員となり一応、キリスト教徒となっている場合もあるので、こうした

キリスト教徒は、日本における、各宗派の檀家(先祖のお墓のあるお寺の檀家=信徒)と変わりがなく

こうした2代目、3代目のクリスチャンは、クリスマスのとき、教会に行くくらいで普段はほとんど

月齢献金(月々の任意の献金)をしているくらいで、ことさらキリスト教に帰依しているわけでもない。

このような信徒はアメリカなどでも同じように1年に1度くらいしか教会に行っていないようである。

私が、一番書きたいことは、こうした2代目、3代目のクリスチャンではなく、なんらかの大きな

人生の転機や人生観を変える出来事があって、イエスキリストの霊を受け入れ自ら進んで信徒となった

クリスチャンのその後の心の変化についてである。

実際によく教会の長老などから聞く話としては、青年時代、受験勉強に疲れすがる思いで、信徒となった

青年や、何らかの病気や家庭内のいざこざがあって、心の平安をすがる思いで、キリスト教に求め、洗礼を

自ら進んで受けた青年たちである。

そうした人たちは、志望大学に入学し思うところに就職できた時点で、教会を離れ、前述の2代目、3代目

のクリスチャンと同じようにほとんど教会には行かなくなり、年1回のクリスマスなどに礼拝に行く程度の

者もいると聞く。このようにこうした信徒は、日本の99%の仏教徒と同じく自分の信仰と社会の矛盾

会社や職場における白い目でみられないように、自分がクリスチャンであることを公表しないことに

より、案外社会人としては、うまく立ち回っている。

こうした、クリスチャンには、日本における信仰生活の難しさや葛藤はほとんどなく、ある意味で

真のクリスチャンと言えないかもしれない。

ただ、私個人としては、こうしたクリスチャンを責める気はなく、この現象は日本におけるキリスト教

の信仰生活の継続がいかにむつかしい・・・かを如実に現わしていると思われてならない。

以下、日を改めて日本におけるキリスト教信仰の継続のむつかしさ、福音活動の難しさを述べてみたい。


 

日本人の心の真相

 投稿者:Angel77  投稿日:2019年 4月 3日(水)13時27分56秒
  最近、日本に長く生きてきて、テレビや新聞、週刊誌、雑誌などをみていて、多くの日本人は、
どのような思いで生き、物事を考え、生活しているのだろうか・・・とふと考えるようになった。
勿論、私も日本人なので純粋に客観的にはみられないが、この地に生きた一人の日本人としては語れる
気もする。

なんといっても、日本人の心に深く関わっているのは、全国各地で見受けられる神社仏閣とそれを報道する
テレビの影響が大きいかもしれない。まず、元旦には各地の神社に大勢の日本人がお参りする。テレビなど
を観ていると、日本人の日常生活の延長線上にあり、テレビ報道もその一環として報じているが、まだ、
宗教に関して潜入感をもたない子供たちに対する影響は大きいかも知れない。

そして、お彼岸や夏のお盆の季節には、お墓参りをする家庭も多く、この時の日本人はタイや東南アジアの
仏教国の人たちと似て、皆、手に数珠をもちお線香をもってお参りする。
そして12月31日の晩には各地でお寺がつく除夜の鐘を聞きながら元旦を迎えるのである。
この12月の暮れと翌正月をテレビでみていると、お寺と神社が共存して日本人の心を広く支えている
ような気もする。

さて、私がことさら、上述の日本の1年間の様子を述べたのには理由がある。
それは、もともと仏教信者であった私が、キリスト教に転じたからである・・・
現在、キリスト教徒であると自認している人たちも、私のようにもともと仏教信者であった人が多いと思う。
ただ、この少数派のキリスト教徒の同胞は、日本において私が感じている孤独感は同じように持って
おられるような気がする。
それは、各地を旅行しても歩いても、神社仏閣ばかりで、歴史史的なゆかりの地もまた、神社仏閣で
埋め尽くされているからである。宗教とはおよそ縁遠いテレビ番組においても、温泉地や観光地は必ず、
金閣寺や平安神宮のように有名な寺院や神社が立ち並び観光客の多くがお参りをしているからある。
こうした日本の地において、偶像礼拝を厳格に守り、神社仏閣をただの石木と思いと通りすぎるのは
よほど勇気のいることである。
カトリック信徒であった、作家の遠藤周作氏がこの辺の日本の事情を知り尽くして色々な著作をされて
いるが、その中の小説「沈黙」は現代よりももっともっと思想統制が強かった江戸時代における日本人の
宗教観について鋭く分析され小説ではあるが、日本におけるキリスト教の信仰がいかに難しいかを
述べられている。
彼の思想の奥底には、日本においてキリスト教信仰を深めそれをさらに広めるためには、
現在の教会は(カトリック・プロテスタントを問わず)日本版に仕立て直して創り上げなければ、
決して理解され広まって行かないだろうと予言されていた。現在その予言通り、日本における
キリスト教信者は全人口の1%に止まっている。(カトリック・プロテスタント諸派を併せ)
この現状は、ここ10年来変化しておらず、かろうじて1%を保っているのが真相である。

(後日、ならば日本のキリスト教徒はいかなる生活態度・福音を述べ伝える作法を身につけなければ
   ならないかの、私見を述べたいと思う)
 

(無題)

 投稿者:雪だるま  投稿日:2019年 1月24日(木)11時00分3秒
  やったあ?
1234番ゲット
感謝します
ありがとうございます
 

(無題)

 投稿者:雪だるま  投稿日:2019年 1月 2日(水)08時46分21秒
  明けましておめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします
幸福の楽園がみんなに愛されるホームページになりますように
エンジェル77さんにとっても今年が良い年になりますようにお祈りしています
 

新年おめでとうございます!!

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年12月31日(月)20時56分56秒
編集済
 
新しい年が幸せなすばらしい、年になりますように・・・!


 

新しい年を迎えて思うこと・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年12月31日(月)20時32分1秒
編集済
 

       新年明けましておめでとうございます!

皆さんはどのような思いで、新しい年を迎えられましたか。私は、今年は世間一般の常識の

世界の範囲でのコメントでなく本音で心の奥にある思いを述べてみたいと思います。

近年は世界はめまぐるしく移り変わっていきます。政治の世界も、経済の世界も自然界も

すごいスピードで移り変わっていきます。しっかり見て判断して生活に反映していかないと

とんでもない失敗をしでかしそうで、不安心理に駆られます。でも、この思いを自分自身の

内面的な心「心理面」にスポットをあてて、振り返ってみるとどうにでもなる、とるにたりない

些細なことのように思われるから不思議です。たとえもうすぐ世界が滅びなくなってしまう

としても、もともと、下界(この世)はそのようなはかないもので、いずれは消え去るものです。

それを、自分自身の身体に当てはめてみても、この身体はいずれ近い将来朽ち果てて消失して

しまいます。

絶対に消えないと思っている、下界(この世・地球)もいずれは消え行くものです。

でも、そうと分かっていても、私たちは目に映る下界(この世の現象として移り行く下界)に

目を奪われがちです。人間の宿命としてこの移り変わりゆく、下界(外の世界)に一喜一憂

させられ、人生における喜怒哀楽もすべてこの下界の様相に右往左往しているのです。

こうした現実を直視するとき、自分の内面の心だけは、いつも下界の影響を受けず平穏で

明るく暖かな心でいたいと思います。文章で表現すると簡単に思えますが、この下界に左右されない

明るい平常心(感謝と今、現在生きておられる喜び、命の輝き)に目覚めたいと思います。

あの聖書のテサロニケ5章16節~に書かれた御言葉・・・・

いつも喜んでいなさい・・・

絶えず祈りなさい・・・

すべてのことについて感謝しなさい・・・

以上の聖句を全身全霊で感じ、100%自分の心と霊に受け入れて、肉体の死が訪れる瞬間まで

信じて実感して・・・信じて体感して・・・生きぬきたい・・・と思うのです!!




 

クリスマスおめでとうございます

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年12月22日(土)01時10分20秒
 
メリークリスマス !!



 

どこかの宗教団体に所属している人に・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年12月 8日(土)00時09分22秒
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  日本において、どこかの宗教団体に所属しているか、またはその団体の僧侶・牧師などの職に

ある人にお尋ねしたいことがあります。前項の所属しているか…云々は一般信者をさしています。

私は、今日までいろいろな宗教団体の方とお会いし長いお付き合いをさせていただいたことが

ありますが、最近思うことですが、その所属されておられる宗教団体の戒律や教理・経典を語る

以前の問題になやむことが多かったです。

具体的に述べると、その教団・教理が排他的な要素を持ちこの教理・経典に忠実でかなり排他的に

なっておられる方とは、あまりお付き合いは長続きしませんでした。なぜなら、お話したり

親交をあたためようとしても、人間としてのマナーや優しさに欠ける方が多かったことです。

私は、宗教の違いや経典教理の違いには寛大に接して来ました。この態度を所属している宗教団

体の聖職者や役職者は快く思わず露骨に批判する方もおられましたが、そういう方とは長く

深くディスカッションしたり親交を温めることもしませんでした。

なぜなら、こうした人間性や優しさ、他の人々にたいする慈しみや、いたわりの気持ちがなく

経典に縛られて薄れている人は、一般の宗教団体に所属していない人たちよりも、別な側面から

見ると、人々に対する愛情が低く別な表現をすると自己中心的な利己的な人に見られる場合が

多いからです。

そういう訳で人と接するときはその人が、どの宗教に所属しているか、どういう教祖の元に

日常の生活を営んでいるかなどは、まったく考慮せず私は、対象となる人を見る視点は

一般の宗教団体に所属していない人と差別は一切せず、先入観も持たず接しています。

このおかげで、どの宗教団体に所属している人でも結構親密に接している場合もあるし

日常の生活の上でも、差別的な視点は持たず、常に人として優しいか否か、他の人々に対する

愛と慈しみの心をどの程度持たれているか…のみに視点を向けて接しています。

この視点での交わりで失望したり、親交が薄れたことはなく、こうした姿勢で異教徒の人々と

接することが間違っていないと確信している今日この頃です・・・。
 

(無題)

 投稿者:雪だるま  投稿日:2018年 9月29日(土)08時41分26秒
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  11万千人突破おめでとうございます
 

孤独に耐えうる人生を送ろう・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 9月27日(木)11時48分23秒
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  孤独に耐えられず人恋しさから悪い人につけこまれたり、悪の世界に

引きずり込まれたり、犯罪の犠牲者になったりすることは

日々の新聞の三面記事でも散見されるが、孤独に

耐え得る人間に成長し、孤独の中にあっても強くたくましく生きて行くには具体的にどのような

心境でいればいいのであろうか。

このことを検証する前に、世界の偉人であるそれぞれの人生をみてみよう・・・。

先ず、釈迦であるが彼は王子の華やかな身分を捨て、6年間ひとり山にこもり修業を続け断食

と瞑想の孤独の日々を続けた。この間における人間としての孤独感は一言ではいい現せない

苦しみであったと思う。

また、モーセもエジプト王の王子同様の華やかな暮らしから突然

ユダヤ人であったことが露見してエジプトを追放されたが、その後40日間砂漠の荒野を

さまよった孤独は言葉ではいいあらわせないほどの体験だったと思われる。

また、イエスも自らの信仰を確かめるために40日間荒野をさまよい

いろいろな誘惑にもめげず、孤独の恐ろしさと怖さを身をもって体験している。

このように、歴史にのこる偉人はみんな偉業をなしとげる前に

大変な孤独に耐えているのである。

私は、現代においてもこうした世捨て人のような環境下に自分を置き

その寂しさと苦しさに堪え得たならば、本当の意味での人生の意味が

わかってくるのではないかと思うのである・・・・。

僧侶ならば多くの財政的基盤の上にあぐらをかき、大勢の信徒や

同僚の僧侶に支えられた日々の暮らしは、およそ孤独感とは縁遠い

ものであるが、一度、檀家や家族から離れた心境でただただ釈迦の辿られた

求道のみちを追い求めることが大事なのではないかと・・・思うのである。

キリスト教徒もまた、牧師や教会員の信徒に支えられて安穏な日々を

ただ感謝して暮らすことが、本当の意味での信仰の向上につながるとは

解釈せず、自らを律しこれらの支えから外されたとしても、微動だにしない

信仰と信念を持ち続け社会的地位もすべてを捨てきっても

微動だにしない信仰を持ち続けられるように、日々孤独との戦いの

なかで自己のゆるぎない信念を育て上げるべきではないかと・・・

思うのである。

本当の意味での孤独を堪え得た人間こそが、この世がどのようなものか、

また、日々の人と人との交わりが、表面的なきれいごとだけでなく

いかにドロドロとした醜悪なものかを見抜き、すべてのこの世の争いが人と

人の利害関係やねたみや恨みによって派生しているかを看破し

孤独の中で孤独に耐え続けてじっくりと人生の実相をみつめられる

人間に成長したいと思う・・・・。

以上、抽象的・観念的な言葉で述べたので具体的に今、宗教団体などに加入して、

信仰生活を送っておられる方のために、私なりの対処法を書き留めてみる・・・・。

まず、教派を問わず、すべての宗教法人は信徒が健康で社会的地位もあり

献金や課せられた奉仕(教団の事務や清掃、集会所の整備や 管理など)を健康で

年齢もある程度若い信徒の場合は、その教団では重宝がられ、役職も与えられ、

その意味では自分自身の信仰を支え深める要因ともななっている。

しかしどの教団でも、それら信徒が病気や家庭の事情の急変などで職を失うとか、

病気して教団の奉仕もできなくなるとおのずと教団役職も解かれ、時がたつと忘れられた

存在となる。財政的事情の厳しい教団としては

こうした落ちぶれた信徒を救う資力も余裕もない現状では一概に教団は薄情で真の宗教的信条

を持ち合わさないダメな教団である・・・

と決めつけるのも一方的な見方かもしれない・・・。

では、こうした現状を十分理解したうえで、入信した当初のような燃える信仰を持ち続けるには

どうしたらいいのであろうか・・・。

それは、信仰とは宗祖の教えに立ち返り、その教えの真の意味を理解することだと思う。

キリスト教の誕生当初は、ただイエスの十字架上での死の意味を理解し、その霊に導かれて

集まり祈っていた。

教会の建物もなければ、財政的支えもない、ただ祈りあつまる霊的集団(エクレシア)だった。

これと似た日本での宗教集団として道元が開祖した禅宗の一派も雪深い福井の永平寺から

座禅し釈迦の原点を学ぼうとした霊的集団であった・・・。

こうした、その宗教が生まれた当初の状態の心境にもどり、その宗教を見直す時、

教会から切り捨てられた恨みや憎しみも消失して本来の宗教の持つ意味が体得できる

のではないかと思うのである。
 

原子爆弾の発明と聖書の創世記の知恵の木の実(リンゴ)

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 8月 9日(木)18時04分34秒
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  NHKBS1で8月12日(日)放映予定の「悪魔の兵器 原始爆弾」は、どうして誰が主導で

原子爆弾が開発されたのか・・・そしてこの、巨大な費用と大勢の科学者が動員される結果になったのか・・を明らかに

していく予定らしいが、結論ではアメリカの国家や軍部主導でなく、最先端の科学者が自ら 開発を主導し完成させた・・・とも言われて

いるのである・・・。

話は変わるが、私は聖書の創世記に記されたかっての人間(神が創造したアダムとエバ)が

エデンの園の楽園で自由に暮らしていた時、たった一つ神から禁じられていたのは、楽園の

中央にあるリンゴの木の木の実(リンゴ)だけは決して採って食べてはいけない・・・と言う

戒めであった。私はこの箇所をあまり深くは解釈せず創世記の最初の部分における神話的な

もの・・・と言う単純な解釈をしていた・・・。

しかし、後の世(1920年8月)に上述の原子爆弾が日本の広島と長崎に投下されて、

数十万人もの命を一瞬のうちに奪ったことを目の当たりにして、前述の創世記の

リンゴの木の実(知恵の木の実)のもつ恐ろしさと、これを食べてはいけないと禁じた

深い人間の創造主「神」の意志(愛)を思い浮かべたのである・・・。

聖書のこの箇所の解説では、人間が神のように神が創造したすべてのものを神に代わって創造することは

有限な知能しか持ち合わせていない人間にとって、将来が見通せず結局とんでもない結果(人間の存在そのものを破壊し

神が創造した地球をも破壊してしまう結果)が良く解っていたからだと思えてならない。

確かに科学は、別な面では人間の生活を豊かにし、別な意味では他の動物を支配下に置き、地球そのものの住みよい発展にも

貢献してきたのだが、感情や動物的闘争本能を捨てきれない人間にとっては、こうした地球をも破壊してしまう兵器を持つこと自体が

今回のNHK BS1で放映される 「悪魔の兵器(悪魔の知恵) 悪魔の原爆」なのであろうと思う・・・。

私もまだ、観ていないのでどのような内容のものかは全容は知らないが、下記のURLを記しておくので興味ある方は10日(日)の

NHK BS1 を観ていただきたい…!私も是非、観ようと思っている・・・・・!(下記にURLを添付しておきます)

      ↓  ↓  ↓

http://www4.nhk.or.jp/bs1sp/x/2018-08-12/11/3063/2409343/

 

NHKスペシャル「在宅死 “死に際の医療”200日の記録」を観て・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 8月 6日(月)22時21分35秒
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  6月10日、日曜日と今日(再放送)放映された、NHK(BS1)スペシャル

「在宅死 “死に際の医療”200日の記録」を観て高齢化社会の日本において

本当に大事な医療に携わっておられる、訪問医や看護師、介護士、ヘルパーさんたちの

日々から人間の尊厳死や地域の連携・家族の介護の大切さが直に伝わって来る気がした。

人間である以上、いずれは近い将来当事者とならなければならいのはわかりきった事

なのだが、実際にこれらの沢山の終末期の人々の実情を赤裸々に映像でみられたのは

今後必ずやってくる終末期の心構えとしても一度は観ておくべきものだと思った・・・。

人間の終末期における心理であるが、現実に迫りくる肉体的な痛みや苦痛よりも、一番

恐ろしいのは、精神的な死に対する恐怖や孤独感・虚無感が問題だと思った・・・。

そういう意味で、終末期を迎えた患者さんに、医師の世話で患者自らが望んだ、

神父さんの臨終前の祈りや、患者の手をとっての癒しなどは、医療よりもより患者の死に

対する恐怖感の除去や臨終時の魂の平安に寄与しているようにも思え、入院患者にも

このような処置を推奨している医師の勇気に尊敬の念を抱いたのであった・・・・。

下記のURLはこのNHKスペシャルの「在宅死 “死に際の医療”200日の記録」の

紹介と主要部分の録画であるが、見落とされた方は一度ご覧になってほしい。日本国内に

於いても社会問題化されつつある、終末期の看護やその医療・当事者の心構えなどについて、

今一度考えてみてほしいと思った次第である・・・。

   下記が そのURL である・・・。 ↓ ↓ ↓

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2393173/index.html

 

環境に左右されず幸せな日々を送る方法・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 7月31日(火)16時16分39秒
  このところ、日本国内においては、地震が続き気候の方も豪雨が続いたかと思うと、例年にない猛暑が連日襲っています。

国外に於いても地球温暖化の影響を受けて天候は不順でギリシャでは大きな被害がでて、さらにアメリカにおいても猛暑による山火事や

河川の氾濫による家屋の被害が続いています。一方経済の面ではアメリカ一人勝ちの状況が続き、中国の通貨、元も下落し、イランや

アルゼンチンなどの急激なインフレと通貨安などが生じています。こうした現象を聖書に忠実なキリスト教徒は聖書に予言されている

終末(この世の終わり)をあらわす前兆であるとも主張しています。

しかし、生きている一人一人のこの世での存在意識は、ひとそれぞれで、中にはこうした下界の動きに微動だもせず、自分の信仰・自分の意識

に忠実に従っているいわば昔で言う、仙人のような悟りに近い意識で生きている人もいます。私は自分のことを自慢するようにも思えるので

あえて、後者の人々の意識と同じであるとは申しませんが、どちらかといえばこれらの私の周りで起きつつある天変地異や世相の激変に

恐れおののいてはいません。むしろ自分の幸せ感は、自分自身の魂の状態や精神の状態に左右されると思っていますので、私自身が

今、何の恐れもなく平穏で穏健で安定した心の状態であることから鑑みて、おそらく私は幸せのオーラの中で感謝と歓びと歓喜をもって

生きていると思っています。あるいは究極的には人間の幸・不幸の感覚や暗さや明るさの感覚、そして希望か絶望かの心情も自らが

日々心の中で創り上げていくもの・・・と思っていますのでことさら、世の中が騒然としていても私自身は微動だもしない平常心でいられる

ように思っています。
 

続 天国とあの世を見た手記・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 7月24日(火)22時25分34秒
編集済
  前回の手記の続編を紹介する・・・・・

個人情報になるので、何故このような臨死体験をしたのか・・・その詳細は公表を差し控えるが前回、あるハプニングにより

意識を失ってからの私が体験した、不思議な世界はまだ続いた・・・・。

上空から眺めた景色は、実際に私がいた、なだらかな丘陵の緑地であり、色とりどりの草花が美しく輝いていた。太陽の光がまぶしく輝いて

おり、こうした美しい光景は、まだ私が体験したことのないようなこの世の不思議な天国のような光景だった・・・・。

しかし、いつしか私の意識は消え空白の時間が流れたようであるが、ふと気づくと私は元いた場所の数メートル上から地面をみつめて

いたのであった・・・。なぜ自分の目線がこのように高い位置にあるのか不思議でならなかった・・・・。しかし身体の痛みや苦しい

感覚は少しも無く、ただ自意識だけがあり、五感もはっきりしていて、私が生死の境をさまよっているような感覚は皆無であった。

しばらくして私は病院の診察台にいることがわかり、医師の「気づかれましたね・・・大丈夫ですか・・・」というやさしい声を耳に

することができたのだった・・・・・。わたしの怪我は頸椎骨折だけで何週間か首にギブスをはめていただけで手術もしないで自然治癒し後遺症も

残らなかったが、ただこの間、1時間ほど気を失っていた間、私自身は後に読んだムーディー博士の「臨死体験・・・かいま見た死後の

世界・・・」の体験者の体験談とほとんど寸分たがわず同じであることに驚いた・・・。ただすべての臨死体験者がこのような美しい

天国に似た体験をしているわけではなく、かなり多くの人は怪談映画のような恐ろしい身の毛もだつような怖い体験もしているのである・・。

その体験は、暗い暗黒の世界で、得体のしれない幽霊のような魔物に襲われ、暗闇の中をのたうちまわっている赤裸々な感覚を伴う恐ろしい

体験だったり、その体験者が犯した他人への悪行を責め立てられ、生前に被害者となった因縁のある人々から、ありとあらゆ罵倒の声や

反撃を受け、そのした責め苦にさいなまされる光景だったりした・・・と言う・・・。

私はこの「かいま見た死後の世界・・・」を取材執筆したムーディー博士の書物を読んで、私自身が大した善行もしていないのに、なぜ

このような素晴らしい臨死体験ができたのか・・・・本当に不思議に思うと共にこの出来事があってからの私は、より強く人の死後は

「無」ではなく、生前に意識していた魂のエネルギーに見合う光景が与えられることをハッキリと意識したのであった・・・・。

この日を境に私は、宗教者として生涯を幸せな天国に行ける福音を広くこの世の人々に語り告いで行こうと決意したのである・・・。

私は多くの医師の報告による臨死体験者の体験記録である「死後の世界」を信じます。

特にムーディー医学・哲学博士の著書「かいま見た死後の世界」に記された多くの臨死体験者の体験記を深く信じたいと思います。

それによれば、臨終の時には頭上で光に包まれた不思議な雲状の渦巻きに身体ごと吸い込まれていくといいます。

そして、それらの不思議な臨死体験者は全て信仰の持ち主であったと言われています。

彼らは皆な臨終の時まで天国を信じ希望を持ち続けました。そして何よりも一番の共通点は生前に於いて人々に対する温かい思いやりと

つきることのない愛を持ち続けていたと言われます。この一点が彼ら臨死体験者の共通点となっているのです。

したがった私の信仰もここから出発したいと思います。

(聖書にも、キリスト教の最初の殉教者 ステファノが殉教したとき、「天が開いて、人の子(イエスキリスト)が神の右に立っておられるのが見える」と言っている。(使徒言行録 7章 56節)



まず何よりも、人生は肉体の死で終わりだと信じないこと。苦しく、どうしようもない試練に立たされたときでも、

イエス・キリストがカルバリの丘に十字架を背負い登られたあの苦しみをを思い起こすこと。

キリストは言われました「おそれるな私はいつもあなたと共にいると・・・・」

あなたの十字架(人間が死ななければならない原罪)は私があなたに代わって受けたのだ。

あなたは私に従っていれば何の心配もいらないのだ!そしてこのキリストの十字架の贖いを証明ずける聖書の言葉

「神(ヤーヴェの神)は、そのひとり子を賜ったほどにこの世を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者がひとりとして滅びることなく永遠の命を得る為である。」と

さらに十字架の上のイエスが、救いを求めたもうひとりの十字架上の重罪受刑者(イエスの左右に二人の受刑者がいたがその一人)に言われた言葉


「まことにあなたに告げます。あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」と


このように十字架上の重罪受刑者であっても彼自身が願い告白した臨終の一言

「イエス様あなたが御国の位にお着きになるときには私を思いだしてください」との控えめな信仰告白によって

彼は天国に入ることを約束されたのです。

(このできごとは、親鸞の浄土真宗の教えの真髄となっている「悪人正機説」・・・・善人が救われるなら

一番強く助けを求め悔い改めようとしている 悪人が救われないはずがない・・・とする説の 歴史的証明で
もありあます)

私たちは、この十字架上の受刑者より恵まれた時間を持ち、臨終の時まで心の準備もできる立場にあります。

この意味で残りの時間をより強くキリストを信ずる信仰に生きたいと思います。


次に 最後の審判(さばき)の問題に対する私の思いを述べます・・・。

最後の審判(さばき)の問題(仏教では閻魔様のさばきに置き換えている)も救われるか(天国に行けるか)否かの問題も、

私は前述のキリストの言葉にヒントがあるような気がしてなりません。前に述べた臨死体験者で信仰を持たない人が、

恐ろしい光景をかいま見たり、地獄の体験をするのも、その人自身がかたくなに持ち続けた、

この世への異常な、執着心やねたみ、うらみ等によるもので、エネルギー不滅の法則に従ってその人が生前にイメージした

暗く恐ろしい虚空の世界が死後に於いても展開されるのではないでしょうか。

また、神も仏もあるものか、金と欲と快楽のみが人生の全てである、と信じて疑わなかった人には、

肉体の崩壊により、金が消え欲も快楽も味わえなくなった時点で底知れぬ空虚感とどうしようもない虚脱感・飢餓感に

襲われるのではないでしょうか。自業自得といえばそれまでですが、エネルギー不滅の法則に従わされたといえば納得できるかも知れません。

しかし信仰者は肉体の消滅時に同じ様な苦痛を一瞬味わうかも知れませんが、肉体への執着以上に、日頃から

臨終時の魂の肉体からの解放を望んでいる意志(エネルギー)を持っています。

それ故に、死を一時的な現象ととらえ、その肉体の死後に来るキリストとの再会、天国への凱旋に強く執着し

キリストの十字架の贖いによる救いを信じて疑わない故に「あなたの信仰があなたを救ったのです---その通りになる様に---」

と言われた如く死後の世界ではこのように明るい渦巻き状の光(聖霊)につつまれて天国へと導かれていくのです。

その信仰が強ければ強い程、エネルギー不滅の法則に従って明るく慈しみと愛に満ちたエネルギーに包まれて

バラ色の天国へと凱旋できるのだと思います。


だからその日のために、日々神に感謝し人に感謝して慈しみの心と愛に満ちた明るい心で過ごしたいと思います。

どんな困難に出逢っても希望を棄てずキリストの再臨と天国への凱旋を夢見て明るく明るく、ただ幼な児の様な

無垢な心で生きていようと思うのです。

この困難な信仰生活もキリストの再臨の約束と天国に入れることの神様との固い約束があって初めて可能なことなのです。


 

天国とあの世を体験した手記・・・!

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 7月17日(火)23時23分4秒
編集済
  天国とあの世を現実に見た人は臨死体験をした人だと言われている・・・・。

勿論、私もその一人なのだが、本当に私が体験した記憶が天国だったのかどうかは客観的には証明できない。

でも、私があえて天国を見た・・・と証言できるのは、多くの臨死体験者が記述している証言とほぼ同じだからである・・・。

医学博士のレイモンド・ムーディー氏がその著「かいま見た死後の世界」で、多くの臨死体験者と面談し書き留めた記録(体験談)と

私の体験がほゞ一致するからである。

私は一瞬、自分が意識を失ったとき、ふと気づくとかなり高い位置に自分が浮かんでいるのに気付いた・・・・。

おそらく、地上から30mほど高い位置から地上をながめていたからである。

緑の木々が眼下に小さく見え、夕暮れ時の太陽がまぶしく輝いていたのをはっきり覚えている。私はどうしてこんなに高い空の上に

いるのだろう・・・と思ったがそのことを少しも不思議には思わなかった。

そして私の身体の感覚はほとんどないのだが、しかしかなり高所から下界の景色を美しいと感じ眺めていたのである・・・・。

私がこの体験をし後、キリスト教の洗礼を何の疑問もなく受け入れ、その後私の人生は大きく

変わっていったのである・・・。(後日この続きを掲載します・・・)

下記にムーディー医学博士・哲学博士の「かいま見た死後の世界」の著書のユーチューブと

救急救命医療に携われている東大病院の先生の「人は死なない・・」のコメントを参考にして

いただけたら・・・と思いそのURLを記載した。興味ある方は是非そのサイトでこの問題を

深く掘り下げて考えてほしい・・・・・。


 ↓ ↓ ↓

https://www.youtube.com/watch?v=zX0X_PGLP_Q

 

人類最大の宿命を解き放ったイエス!

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月24日(木)11時23分16秒
 
約2,000年前かねてから人類最大の解けない宿命であり、人類に課せられた

「死」(聖書ではこれを神から課せられた原罪と記されていた・・・)を

自らの十字架刑と言うもっとも過酷な刑罰に進んで挑み、その壮絶な苦しみと

孤独の中から、悲痛な叫びにも似た、創造主「神」への許しと原罪(死)からの

解放を懇願し神の許しを勝ち取ったイエス。この犠牲により神から3日目に蘇生(復活)

の恵みと全て人間の「もはや死もなく病もなく永遠の安息の日々の続く天国への帰郷が

許された・・・」

この恵みと驚くべき神の恩寵を「馬鹿げたたわごと・・・」と一笑に付し、残された

わずかな人生を、死に向かう恐怖(年老いて死に直面していく恐怖)とこの世の快楽消失や、唯

一のよりどころであった、自らの肉体の朽ち果てる様(さま)に恐れおののきながら死を迎えるか・・・・

前述の輝かしい、「イエス・キリストの十字架の贖いによる、それを信じる信仰による

救い(天国への凱旋)を信じ安心立命の境地で肉体の「死」を迎えるか・・・は

個人の自由であるが、私はあの偉大な科学者パスカルの後世の人々にのこした・・・・・

「天国があるか、救われるか救われないかは、コインを投げて裏(ない)がでるか

表(ある)がでるかは、わからないが、私は表(おもて)神の国があり、イエス・キリスト

の贖いによりこれを信じることにより、天国への凱旋が約束される・・・とする表(おもて)

に賭ける・・・と・

以下(ウキペディアによる参照事項)・・・・

パスカルの賭け(パスカルのかけ)を信じたい。これは、フランスの哲学者ブレーズ・

パスカルが提案したもので、理性によって神の実在を決定できないとしても、

神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す、

という考え方。
 

カトリック信徒のマリア信仰と日本人の観世音菩薩信仰や阿弥陀如来信仰

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月22日(火)14時58分7秒
  カトリック信徒のマリア信仰と日本人の観世音菩薩信仰や阿弥陀如来信仰

聖書のキリストの母とされるマリアについてプロテタスタントの初期の神学では

下記のようにマリア信仰は偶像礼拝である・・・というような極端な論調は

なく、著名なプロテスタント神学者ルッターやカルヴァンも初期神学において下記のような

見解をとっていた・・・。

初期プロテスタント神学

初期のプロテスタント神学者にはマリアへの尊敬を表した者がいる。マルティン・ルターはマリ

アを「最も気高い婦人」、「私たちは決して十分に彼女に栄誉を与えられない」、「マリアへの

崇敬は人間の心深くに刻まれる」、またクリスチャンの「すべてが彼女を尊敬する」べきである

と言った。

カルヴァンは「否定しようもないのは、神がマリアを選んで定め、彼女に高い栄誉を与えたこと

である」と言った。ツヴィングリは「私は神の母を尊敬する」と言った。ここで見られるように

初期プロテスタントはマリアへの尊敬と栄誉を退けなかった。

しかし、現代においては、マリア信仰は偶像礼拝と決めつけるプロテスタント教会も多く

見解の分かれるところであるが、私の思いは、前回、下段に述べた日本の歴史上に大きく影響し


カトリック教会の貢献は日本人として決して無視すべきものではない・・・と思われる。

従って私自身は、心情的にもキリストの母であるマリアを尊敬することが罪になる・・・とは思

いたくない。

このような日本人の心情をうまくとらえ、小説化したカトリック信徒で著名な作家である

遠藤周作氏は、それぞれの小説の深い部分で日本人の信仰心の土台となっている、母への

思慕、崇拝、愛着、の心情を浄土真宗の信仰の原点である阿弥陀如来崇拝心や

仏教信仰の観世音菩薩の救済心などを引き出させて、キリスト教信仰との重複・同化を

意図的に試みたのではないかと・・・思われるのである。

彼の著書「深い河」や「沈黙」はその現れのよくわかる内容であり、安土桃山時代に

日本の当時の人口の30%近いキスト教信者がいた歴史的事実と併せ、彼は現代における

クリスチャン人口の復興を心から願ったのではないかと・・・思うのである。
 

日本人のキリスト教に対するイメージ

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月21日(月)22時41分38秒
  日本人は仏教寺院の宗派や寺院については、知識も豊富で詳しいが

キリスト教会についてはどのようなイメージを持っているのだろうか・・・

日本史に登場するキリスト教は、ほとんどカトリック教会であり、長崎など

にのこされた教会は世界遺産に指定されたり、観光の名所としてもよく知られている。

更に今年に入り、九州の五島列島の島々に点在する教会が建物の外観でなくその周辺の

隠れキリシタンをも含めた歴史遺産として包括的に世界遺産として認定されたいきさつもありど

ちらかといえば、カトリック教会のイメージがキリスト教のイメージとして

伝わっているような気もする。

これは、プロテスタント教会が敗戦後アメリカや西洋諸国の主導で広まっていったいきさつが

うかがわれることに起因するも知れない。そして、今一つ日本で古い歴史をもつカトリック教会

歴史は中学や高校で詳しく学んでおり、

その歴史に登場する安土桃山時代の華やかな教会や、その後のキリシタン禁令による幕府の

迫害の歴史、特に島原の乱や26聖人の殉教・それらの歴史を赤裸々に描いた作家遠藤周作氏

による「沈黙」の小説・映画化など私達日本人にはキリスト教のイメージとしてはすぐに

浮かんでくるものである。

私は、教理・経典からではなくこうした日本人のキリスト教に対する本能的な共感としては

遠藤周作氏が描こうとした浄土真宗的なキリスト教に対する共感のほうが受け入れやすいような

気がしてしてならない。

それは私がいつも主張している、イエスキリストの復活後約300年あまり続いた弟子たちにる

命がけの伝道活動が、日本における約300年近く続いた隠れキリシタンによる命がけの

集会や礼拝と相通じるものがあるからである。今回、形ある教会の建物や遺跡ではなく、無形の

九州の五島列島を中心とする隠れキリシタンの存在を、無形の世界遺産として世界に認定されたされた

ことも大きな意義のあることだと思うのである・・・。
 

中東情勢の緊迫化とその行方の一考察

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月13日(日)21時44分27秒
  昨日イスラエルはシリアのイラン軍施設を攻撃したが、これはイラン軍のミサイル発射に報復し

た結果だと報じた・・・。

中東では1980年代以降、クーデターや革命、外部からの侵攻、代理戦争のような紛争はあって

も、主要国が直接対決する戦争は起きていない。しかし今日ではシリアを舞台にイスラエルとi

イランが直接対決する戦争のリスクが高まっている。

イスラエルのリーバーマン国防相は「イランが設けようとする拠点はことごとく破壊する」とロ

ンドンを本拠とするサウジ系新聞エラフに語り、イランの現体制は「末期的な状況にある」と加

えた。一方、イラン革命防衛隊のサラミ副司令官は、イスラエルに向けて「10万発のミサイルを

発射する準備が整っている」と述べ、イスラエルの「壊滅と崩壊」を招くことになりかねないと

テヘランから警告した。

米国のイスラエルの米国大使館をアラブ側の猛反対をおして、エルサレムに移すことを

決定したことを、中東はきな臭い不穏な動きとなってきた矢先であり、先日の米国大統領のイラ

ン核合意廃棄と相まって中東情勢はシリアを舞台に一触即発の状況となってきた。

以上、海外の報道文を一部引用したが、私はこうした対立の背景には、キリスト教圏と

イスラム教圏の根深い対立が底辺にあり、近年長い期間にわたって論じられてきたことでもある。

一部のキリスト教徒の間には、聖書で予言されている「ヨハネの黙示録」の序奏が始まった

とする説が秘かにささやかれ、中東戦争をきっかけに、第3次世界戦争が勃発し、

いよいよ世の終わりが訪れる・・・と秘かにささやかれたりもしている。

これが「キリスト千年王国」の始まりなのかは、キリストの再臨の「前キリスト千年王国説」に

あてはまるのかは、定かではないが、聖書の予言通り、近年突然、イスラエルの国が

復活したことも考え合わせると、着々と聖書の預言が実現されつつある感がするのも事実である
 

この世は力(ちから)と力(ちから)の支配する世界

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月 9日(水)09時57分31秒
  米国はイラン核合意を廃棄した。一方で北朝鮮とは和平の方向で動いている。かってイラクや

リビアは核兵器を持たない国だったのに、徹底的に米国にたたかれ国を滅ぼされた。

しかし、北朝鮮は米国に届く大陸間弾道弾(ICBM)をほぼ完成し米国を悩ませる現状を

造りだした結果、事態は急変しあれだけ罵り合っていた、両国首脳が対談を決意し和平に

むけて動き出した。両首脳はノーベル平和賞受賞候補の声も聞こえている。

こうした現状をつぶさに見るとき、社会の構造は、資本主義・共産主義に関係なく、

力(ちから)=戦力、特に現代は核戦力をもつことと、資力、資源・金融力、技術力

を持つものがそれを持たない者を支配し服従させている現状を痛感するのである。

やはりこの世はイエス・キリストが予言したように善意や愛が支配する世ではないような

気がする。イエスは常に「私は世に属していない・・・」と断言されていた・・・。

私達(イエスに従う信徒)は、国籍は天(天国)にありやがてくる最後の審判(世の終わり)の

時までじっと耐えて信仰を貫き通し生きることがイエス・キリストの信徒としての務めでは

ないかと…思うのである。
 

日本の多くの人々のつぶやき・・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月 8日(火)22時09分3秒
編集済
  現代の若者のつぶやき・・・


幼少のころの思い出は本能に導かれて父や母に自分の欲望をそのまま

ぶつけて生きてきた・・・そのため、自分自身が何のために生まれてきたのか

何のために生かされているのかもよくわからなかった・・・・。

しかし、中学・高校と成長するにうちに、色々考え事が多くなったが、しかし

受験勉強や日々の学校での授業などに追われ自分自身の足元を見つめ、なぜ

今、生かされているのかも本当のところよくわからなかった・・・。


現代の青年のつぶやき・・・


学校を出て就職し仕事についたが、しかし学校で教わった世の中の仕組みや

世間の様子は現実の職場とは大きく異なっていた。

これはおかしい・・・と思ったこともそのまま反論など決してできない厳しい

現実があり、正義感から内部告発したり反論したりする同僚は、ほとんどその職場から

除外されていった。

そうした現代の世相は近隣との付き合いや友人どおしにおいてもその延長線上にあり

決して自分の憤まんやるかたない気持ちを吐露し慰めあうことも不可能であった。


現代の壮年のつぶやき


こうして幼少から青年へと生きてきたが、気づいてみればいつのまにか、職場では責任の

重い仕事につき、家庭に於いても子供の親としての責任が課せられ、日々の暮らしはひときわ精

神的にも経済的にも厳しくなっていた。

こうした時に、自分の根本をみつめることのできる心の余裕は見いだせずただ、ひたすら

職場と家庭と子供達への重責に耐えて生き抜く以外にはなかった。


定年退職後の初老の人々のつぶやき


こうして壮年期を経て仕事からも解放され、やっと自分自身を見つめなおすことのできる

初老を迎えたが、しかし多くの人は仕事・仕事で押しつぶされるような人生を歩んできただけに

この間、人生を見つめなおす哲学や宗教の思索はほとんどしたことがなかったため、突然

訪れた定年後の自由な時間もほとんどどのように過ごしていいのかただぼんやりと脱力感

だけが自分を大きく包み込んでいることに気付くだけだった・・・・・

人生の最後に直面して・・・

こうした、脱力感の抜けきらない、老年期をぼんやりとすごし気づいてみれば、自分の

周りには、かっての友人も先立たれ少なくなっていた。また、唯一の心のよりどころで

会った親や兄弟ももうこの世にはいなくなっていた。

そうした孤独な状況の中で、ぼんやりと自分はもうすぐこの世を去るんだと・・・・自覚

できるようになった。

この時初めて、今まで真剣に考えたことのなかった、「死」の意味や「生」の意味、そして

「死後」のことを考えめぐらすのである・・・。

でも、深く宗教にも接せず、哲学的な人生の思索も真剣にしなかった人々には、突然訪れ

ることになった自分自身の「死」の問題に対してただただ唖然・・・とするしかない現実を悟る

のである・・・・。

以上が、現代の日本に生きる人々の大半の人生模様であり、誇張のない本音の社会や人生に

対する吐露であろう・・・と思われる。

ここで、いつも私が論じている、イエスの教えはこれらの人々にどのように作用しまた

受容されるのであろうか・・・・。

確かに、実社会で生き抜いていた壮年時代においては、イエスの教えは出世や仕事をこなす

上で妨げになったかもしれない・・・・。

特に日本国内においては、仏教徒が多く自分の家の菩提寺やお墓を守るためには、親族が

同じ思いで結束しなければならない日々も多かったであろう。

この意味において、よほど死ぬか生きるかの瀬戸際で、キリスト教の洗礼を受け信徒と

なった人以外は、私が先日書いた、「日本のクリスチャンの多くは二重人格とならなければ

実社会では生きて行けない・・・」という現実も納得できるような気がする・・・。

しかし、これらは実社会の人々と交わり、親族も多く周りにいた年齢に於いて・・・である。

自分自身が、余命いくばくもない状況となり、たった一人きりでやがてくる自分の「死」と

向き合わねばならなくなった時こそ、こうした二重人格の衣は脱ぎ捨て、

「人間の「死」が創造主の神から課せられた「原罪」(生まれ来てこの地上で地を這うように

働かせられ、その結果として体力・知力も衰えていき、老いる苦しみを負わせられ、

そしてその終着点は病に落ち入り、身体は朽ちて死の苦しみを味あわされながら

のたれ苦しんで死んで行かねばならない・・・・)この神から課せられた「原罪」

は重くのしかかっているのである・・・・。

しかし、人間の創造主である神は、歴史に於いてただ一つの救いの道を開いていて

くださったのである・・・。

それは、神ご自身の一人子(イエス)をこの世につかわし、この原罪(死んで行かねば

ならない宿命)をイエスを信ずる信仰によって救おう・・・とされたことである。

その信仰の真髄は「イエス自身の十字架の贖い(私達人間の罪のために身代わりとなって

自ら進んで神の許しを乞うために死なれた・・・)を信じることにより、イエスが天にのぼられ

たように私達も原罪(死ななければならない宿命)から解放され、創造主の神のもとへ

もはや「死」もなく「病も」「老いること」もない世界(天国)に行けることが約束

されているのだ・・・・と堅く堅く信じていこうと思うのである。
 

一般的で平凡な世界史の検証

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月 3日(木)00時18分11秒
編集済
  私個人の主観的なイエス像については、この掲示板の過去の随所で述べてきているので

今回はあえて自分の主観や信念を主張せず、ごく一般の世界の(特に日本の)人々が

思うであろうイエス像について書き留めてみた・・・・。

彼は確かに下段の「世界史を変えたイエス・キリスト・・!」で述べているように

不思議な復活などの出来事により後世にのこる事実をつくりあげているのだが

しかし、ここには内面的な彼(イエス)の信念や思想は語られていない。

後世の世の人々が彼の名をここまでおしあげ人類の脳裏の奥深くまで浸透させた原因は

別なところにある・・・と思う人が多いのも事実である。

最近、話題になっている I CAN の活動や思想の背景には平和を主張し続けたイエス

そしてイエス自身が自分の命を投げ打っても主張した人類の平等思想や病人や社会的弱者

に対するつきることのない愛などが影響しており、国連の人権擁護の基本的立場や核戦争

の廃絶思考や難民(弱者)救済の根本的施策など全ては小規模であったが約2000年前

イエスがその布教活動において主張し実践してきたことと一致するのである。

そして、最終的にはすべての人間が背負わなければならない宿命(年老いて死んでいかねば

ならない)人間本来の死の問題に対して、勇敢にも自らの罪なき罪(十字架刑)を進んで

受けその苦しみの中で人類を創造した神に対しての許しを・・・・・十字架刑と言う

もっとも苦しい残酷な場で自ら全人類の死んでいかなければならない宿命の許しを
創造主に乞い願ったことであった・・・・。

その後、先日下段に述べたような死後3日後の復活の事実を目撃し、このことにより

イエスが伝道中に弟子たちに語りさとしたイエス自身の十字架の贖いがこれを信じる全人類に

伝えられ生老病死の宿命をもつ全人類の希望として受け入れられあるいは語りつがれて

来たのである・・・と確信するのである。

参考までに讃美歌121番を掲載します。

       この人を見よ

          一

馬槽(まぶね)の中に うぶごえあげ、

木工(たくみ)の家に  ひととなりて、

貧しきうれい、 生くるなやみ、

つぶさになめし この人を見よ。

         二

食するひまも  うちわすれて、

しいたげられし ひとをたずね、

友なきものの  友となりて、

こころくだきし  この人を見よ。

         三

すべてのものを  あたえしすえ、

死のほかなにも むくいられで、

十字架のうえに  あげられつつ、

敵をゆるしし  この人を見よ。

        四

この人を見よ、 この人にぞ、

こよなき愛は  あらわれたる、

この人を見よ、 この人こそ、

人となりたる 活ける神なれ。

参考事項

ノルウェー・ノーベル委員会は2017年のノーベル平和賞を核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)に授与すると発表しました。
 
 

続 世界の歴史を変えたイエス・キリスト

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 5月 1日(火)10時59分6秒
編集済
  先日のコメントで世界が核戦争や悲惨な生物化学兵器で何故滅びなったのか・・・・

その理由を述べたが、しかし人々はイエス・キリストが現代の国々の信じられて

いる宗教や常識を既成事実として認めた場合は納得いくかもしれないが、2000年前の世界の

情勢や国々の実情を詳しく分析していくと、人類の歴史の実情とは全く違った不思議な

事実が浮き彫りにされてくる。

今回はこの不思議を現代の科学や政治学・歴史学の立場から検証してみたい。

まず、現代の常識として我々現代人に認識されているイエス・キリスト像やその知名度など

もろもろの彼に関する知名度であるが、現代人はなんの不思議も感じないまま、とびぬけた

著名人として受け入れている。これはキリスト教信者であるかないかにかかわらずである。

しかし学術的に世界の歴史を振り返るとこんな不思議があっていいのかどうか、知識人で

あればあるほど困惑するのである。私の随想「希望の光」でものべているが、彼(イエス・

キリスト)が世で活躍した期間はたったの2年たらずである。それも当時の世界史では

ほとんど名も知られていないローマの支配する片田舎の属国(ユダヤ)の小さな小さな

町(エレサレム)近郊においての地味でささやかな活動だけなのである。

この間の事情を、私のこのホームページ「幸福の楽園」の中の「希望の光」のコメントを

引用しながら検証してみたい。

先ず、世界の年号となっている2018年の現在の年号はAD2018年とされ、このADの意味は

ラテン語の「AD」が使われている。ADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、

「主(イエス・ キリスト)の年に」という意味である。(西暦紀元、キリスト紀元ともいう)

また紀元前はBC(before Christ)キリスト誕生前の年号とされている。

さて今から約2000年前、その年号の出発点となったADの1年には一体何が起こったのか・・・。

AD 1年12月25日にイエスキリストは、今のイスラエル(ユダヤ)の国のベツレヘムに誕生した。

当時ユダヤはローマの支配下にあり、ローマ帝国からみれば片田舎の

小国であった。その後歴史によれば、イエスキリストは十字架にかけられ処刑された。

しかし彼が当時のユダヤ教の洗礼者ヨハネから洗礼を受け、独自の宗教活動をしたのは

わずか2年にすぎない。そしてその前の成人するまでの約30年間については、彼の記録は少なく

大工ヨセフの子として育った・・・と記されているのみである。

そして布教活動した2年間もエレサレム近郊のみであり、アレキサンダー大王のようにヨーロッパ

大陸を縦横無尽に活躍したわけでもない。本当に当時のローマの属国であった片田舎

での小さな小さな布教活動に過ぎなかった。では何故この小さな世界の片隅で行われた

イエス・キリストの布教と彼の活動が世界の歴史を変えることになったのか・・・

それは彼が十字架に処せられた後、三日後に甦(よみがえ)られた事に始まります。

一度死んで甦った人は、世界の人類史上で彼一人です。この死からの甦(よみがえ)り、

即ち復活の事実は、彼の死後500人もの人々が証明しています。

しかし、もう一つの大きな出来事は、当時イエスが十字架に架けられた直後は弟子の

失望は大きくほとんど弟子たちは離散しそれに従っていた大衆も失望し、この時点では

イエスの教えは、壊滅状態に近く彼の十字架上の死をもって世界の歴史からも忘れ去られる

はずでした。そしてイエス・キリストを取りまいていた12弟子も、イエスの処刑後、逃げ去り

キリストの教えそのものも消え失せようとしていたのです。

さて、この様にほとんど壊滅状態であったイエスの教えと離散した弟子と大衆が、何故再び、

力強くキリストを証しする証人として立ち戻り、大衆を再びイエスの教えに耳を傾けさせるほどの

不思議な事態が起こったのでしょうか。

それは、三日後に、イエスはたびたび12弟子の前に現れ、12弟子の一人であったトマ

スには彼自身に槍で突かれた脇腹の傷口に手を通うさせ確かめさせいます。また、その後、

一カ月余りの間に多くの人々の前に現れ、彼を目撃した者は述べ500人にも及んでいま
す。

即ち、500人もの人が彼の復活を証言しているのです。そして何よりも不思議な出来事は、

イエスの死後逃げまわり、あれだけ弱気になっていたペテロが、イエスの復活を目の当りに見るや、

まるで人が変った様に力強くイエスの教えを広めて行ったことです。

そして今ひとつ、不思議な出来事はイエスの死後イエスに従っていた弟子や大衆を逮捕する目的で

迫害にまわっていたパウロが、突然雷の様な光に打たれその後イエスの声を聞き一転して

力強くイエス・キリストの福音を述べ伝える弟子に転身したことでした。

一般の人々の中にはパウロはもともとイエスの弟子であったと錯覚しておられる方もあるかも

しれませんが、パウロは離散したイエスの弟子達や信者をとらえ当時の国教であったユダヤ教に

立ち帰らせる為につかわされた役人だったのです。

私はこのイエスの死後に起った数々の不思議な出来事を知るにつけイエスキ・リストは

彼の死後、何等かの方法で当時の人々に霊的心的な影響を与え勝利したはずのユダヤの為政者達へ

脅威的な打撃を与えたと確心できる様になりました。その後AD400年頃まではローマ帝国の為政者達

による言語に絶するキリスト教徒の迫害があり、決してトントン拍子の布教活動は、

出来ませんでしたが、暴君ネロ皇帝のコロセウムでのキリスト教徒の処刑(生きたライオンを

コロセウムに放ち逃げまどうキリスト教徒をおそい食い殺させる処刑)などを経て遂にAD 392年には、

イエス・キリストの教えは、ローマの国教にまでなったのでした。

十字架の処刑により一時完敗したイエスは彼の復活によりAD392年に於いて逆転完全勝利へと

状況は一変したのでした。そして今、彼の誕生後2000余りを迎える現代に於いてもその誕生は

全世界で祝われアジアの仏教国であった日本に於いてもクリスマスの日はケーキが食卓に並べられ

ローソクの灯のもとに「メリー・クリスマス」の言葉と共に家族揃ってその誕生を祝うまでに

なったのです。こうした不思議な歴史的事実を知る時、彼の復活が医学的・肉体的復活(蘇生)で

あったかどうかは私にとって問題ではなくなりました。

諺に「結果よければ全てよし」「結果が全てを物語る」と言う言葉がありますが当時の為政者で

あったユダヤの祭司やパリサイ人との戦いに於いてイエスは十字架上で処刑され完敗となったが

その三日後の復活と一ヵ月余りの人々の前での蘇生の証明により事態は逆転したのです。

「いかなる世界の歴史におけるよりも、聖書の中には、よりたしかな真理がある」・・・・

アイザック・ニュートン・・・・著名な科学者 ニュートンの言葉が ズシリ と 重く 胸に響きます。
 

世界の歴史を変えたイエスキリスト !

 投稿者:Angel77  投稿日:2018年 4月26日(木)23時41分13秒
編集済
  人間が地球上で現在、動物や植物などの生き物を支配し、その他の地球資源も、その知恵と能力により支配しているが

これは、ひとえに人間が他の生き物と比較して頭脳がすぐれ知力を持ったからだと言われている。

落雷などで発生した火も人工的に造りだし、他の動物以上に人間同士の意志の疎通を容易にする言語を話し、またそれを文字にして

あらわし後世にのこすこともやってきた。

そうした人類史をひもとけば人間の頭脳のすばらしさが今日の人類による地球支配・万物の支配を可能にしたとも思われる。

しかし、この人類史を別の観点から検証してみると、人間は破滅を招くかも知れない試練を何度も経てきている。それは

第1次世界大戦もそうであり、特に第2次世界大戦では、原爆が使われ、生物化学兵器も実際の戦場で使用できる段階まで

研究がすすめられていた。第2次世界大戦後もアメリカと旧ソ連の対決があり、キューバ革命を経て一触即発の核戦争が勃発

する危険もあった。

しかしこれらの危機が乗り越えられたのは、イエスキリストの人類の平和を説く教えが全世界に伝えられて、人間の脳裏の奥底に

深く刻み込まれたおかげではないかと・・・思える。

また、アメリカ合衆国の歴史をみても、黒人や原住民と白人の対立は長く続いたが、イエスキリストの教えや活動の中で人種や男女の

差別を優しくつつみ平等を主張した教えや行いが、人々の心の中に深く定着しこれらの争いのなかにいつも平和と平等を意識する思いが

埋め込まれてきたからではないかと思える。

正直なところ人類は自滅に至るべき世界戦争(核戦争)を思い留め、また奴隷のように虐げ人間以下の扱いで重労働を強いられた黒人、

また女性は権力者のなぐさめ者の扱いを受けてきた、当時弱者と思われた人々も

イエスキリストの教えの根本である人類平等思想によって救われ、今日のような人権が擁護される

世界に変えてくれた気がしてならない。

もし、2,000年前にイエスキリストが現れなかったら、人類史は大きく変えられていたであろうと想像できる。あるいは、核戦争や

各地での悲惨な生物兵器をつかった争いによりこの地球上に人類は消えていたかもしれない・・・。

世界の歴史を振り返る時、私たちはイエスキリストが与えてくれたあたたかい人類愛と平和主義を深く心に刻み歩んでいかねば

ならないと思うのである。

 

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