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生活保護支援センターのサイトの掲載記事から・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 6月18日(土)10時20分49秒
編集済
  世界の国々の中で、先進国と思われている日本の所得水準は

所得格差の広がる日本の現状では・・・・

日本の人口の6人に1人が相対的貧困とされており、OECD加盟国38ヵ国中日本は28位となりました。

コロナや高齢化などさまざまな要因がありますが、1970年以降もっとも低い順位となっています。

こうしたことが影響してか・・・独身者の一人暮らしの割合も多く、孤独死や自殺者数も

増えています。

これらの人々の支援を行う生活保護支援センターでは、下記の記事を掲載し自立支援を

応援し具体的な相談や支援をおこなっているのでぜひ最下段のサイトに行って学習し

生活の再出発を試みて下さい・・・。

(下記はそのサイトの抜粋です・・・・)

ー---------------------------------------

ネットカフェ難民とは、アパートの家賃が払えずに追い出されたなどの理由で、

ネットカフェに寝泊りをする方たちのことをいいます。

彼らは住所を持たず、1日数千円のアルバイトなどで生計を立てているため、

ネットカフェの宿泊費や食事代を差し引くと貯蓄さえできません。

ではネットカフェ難民やホームレスといった、本当に生活に困窮している方々は

どうして生活保護を受けられないのでしょうか?

その原因は2つ考えられます。

原因①…行政の水際作戦によるもの

法律上では、住所がなくても生活保護は受けられます。今お住まいの地域の福祉事務所に行って申請をすることができます。
ですが、厳しい財政難を抱えている行政側は、少しでも生活保護受給者を増やしたくないため、住所がないことを理由に申請を受け付けないことがほとんどです。
若い世代のネットカフェ難民が申請に行っても、まだ働けるからと仕事を探すように指導されるだけで申請すらさせてもらえないケースが非常に多いのが現状です。

原因②…情報に接する機会が少ない
ネットカフェ難民と呼ばれる彼ら自身も、生活保護に対する情報にとぼしく、受けられるということを知らない傾向があります。
生活保護を受けられる条件は整っているのに、情報を得る機会が少ないために申請にまで至らないというケースが多く見受けられます。
ある40代男性は、所定の住所がないために生活保護は受けられないと思いこみ、2か月近くも公園で生活をしていたといいます。
誰もが生活保護や支援制度の情報収集ができる環境を
ネットカフェ難民やホームレスといった方々が、生活保護を受けるためには、正しい情報を得られる環境が必要です。

ネットカフェ難民のように情報を得られる状態が揃っているなら、それをフルに活用して
正しい情報を得るのも一つの手だと思います。

また、インターネットなどに接する機会のない方々は、お住まいの地域の福祉事務所や

図書館などで情報収集をするという手もあります。

図書館には生活保護に関する本もたくさん置いてあるので、それらを読んで親族に

迷惑がかかるのか?いくら貰えるのか?申請に必要な条件は?などを調べてみるのも

良いと思います。

そして、公共施設で得た情報とともに、自分が今生活をしている地域の福祉事務所に

行って相談をしましょう。

また、自立支援センターを利用することで生活保護を受けずとも、生活を立て直すことが

できるかもしれません。

☆自立支援センター
自立支援センターとは、就労意欲があり、働ける状態にある方を対象とした施設です。
原則として入所後3か月以内で就職決定して、自分の貯金でアパート等が借りられるまでの間となっていますが、最大6か月まで延長することができます。
入所中は技能訓練など様々な自立のための支援が受けられるので、それらを活用して就職に役立てましょう。

このように、福祉事務所では様々な支援施設や生活保護の受付を行っています。

まずは、自ら情報を収集することと、就職先を探すことが先決です。

仕事を探していて、自立したいという熱意が伝われば、少なくとも話を全く聞いてもらえずに追い返されることはなくなるはずです。

これからの行政には、ネットカフェ難民やホームレスの方々にもっと多くの情報を得られる環境を整えることが求められているのではないでしょうか。

以上は 生活保護支援センターの記事を参照掲載させてもらいました・・・
詳しくは下記のURLからそのサイトにいってお調べください・・・。

https://seikatsuhogo.jp/news/netcafe-20140724/

 

最後の日まで

 投稿者:椿  投稿日:2022年 6月 9日(木)22時07分18秒
  私も同じように感じて生きています。

「あ、今日も元気で目覚めることができた・・・」
「今日は、ちょっと遠出したけれど、無事、帰ってこられた・・・」

そして、まだ、あれもしよう、これもやってみたいという意欲があることがうれしい!
読みたい本、聴きたい音楽、作りたいもの、食べたいもの・・・。
この情熱を死ぬ瞬間まで持つことができたら、とても幸せ!

でも、心の片隅で、いつかは、すべてが出来なくなる日がやってくることも、覚悟しながら
毎日こうして楽しく生きていられることに感謝しています。
 

「生」と「死」の観る角度を変えたら人生観が変わった・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 6月 8日(水)21時22分36秒
  いつも「死」は「生」の終わりに来るもので、そのためには生きている時から

正しい「死」を迎えるためには、慎ましく清らかで信仰的にも充実して生きていなければ

決して静寂で威厳のある死に方はできない・・・と思ってきた。

しかしよくよく考えてみると、死がやってくる時期は予測できず、人(ひと)様々で

こういう不確かな「死」であってみれば死ぬ準備とか死ぬ覚悟とかは一般的にいって

できないものであることを最近発見した。

そういう実感がはっきりしたとき、以前とは違った「死生観」が生まれてきた・・・。

それは、「楽天的な、刹那的な気持ちになったわけではなく、ようするに「死」が

時期もその様子も(病死か自然死かそれとも突然の出来事による予期せぬ「死」か も)

全然読めないのであれば、それなら今の一瞬一瞬を精一杯明るく楽しく趣味であるなら

趣味でもいい・・・著作創作活動でもいい・・・音楽や作曲ならそれでもいい・・・

宗教三昧ならそれでもいい・・・とにかく今、自分が一番生きているなぁ~と思えるような

ことに没頭して生きてみたい・・・と思ったのだった。

こうした生き方をしていて予期せぬ「死」が訪れた・・・としても、多分自分は

これでよかった・・・と思うのではないか・・・とふとそう思ったの
だった・・・。

なぜなら「死」はいつ訪れるか予期できないしどういう状態でその最後を迎えるのかすら

まったくわからないのだから・・・こうした想いで日々を送ることにまったく疑問も

猜疑心も湧かない・・・

下記のYouTubeは

はいだしょう子さんの歌われている 「思春期」です・・・

岩崎宏美さんの歌として広く知られています。

https://www.youtube.com/watch?v=bOhIBzoyUEQ

 

すべてに感謝・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 6月 6日(月)11時13分1秒
  はいだ しょうこ さんが 歌う 竹内まりや さん 作曲の

  いのちのうた・・・・

聴いてみましょう・・・・・・・・

下記は そのURL です

https://www.youtube.com/watch?v=GiAlPTtoyCs&list=RDGMEMhCgTQvcskbGUxqI4Sn2QYw&index=3

 

魂を癒す楽曲・・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 5月23日(月)13時21分39秒
編集済
  ヘンデル作曲の オンブラ・マイ・フ です。

下記はYouTyub で聴けるサイトです。

今日は、魂の休息日・ゆったりとした気持ちで木漏れ日の緑の森の木陰で聴きましょう・・・・。

https://www.youtube.com/watch?v=uLjXqy4eOqE

 

音楽のある風景 CDを聴いていて・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 5月21日(土)13時07分48秒
  下段に書いた「ある心理実験をして・・・」の延長線上で燈音舎の「音楽のある風景」の

収録曲を今この曲を聴いている最中に自分の命が絶たれ聴いているのだ・・・という心境で

聴いていると不思議に今までと違った古典名曲の素晴らしさが降り注いできて、こんなにも

バッハの曲が素晴らしかったんだ・・・とかモーツアルトの曲の天上の音楽の意味が魂に

沁みて聴こえてくるのである・・・・。

ああ、きっとこの古典音楽の作曲者たちは、魂の故郷をもとめてさまよい、音の世界で

天上を夢見て作曲していたんだと・・・思ったのだった・・・・

バッハ、モーツアルト、ヘンデル・・・今までただ有名だからなんとなく聴いていた名曲が

まるで作曲者の心情が、そのまま自分の魂に突き刺さってくるような激しさで自分の魂を

ゆさぶってくれている不思議を感じたのである・・・・

先日述べた抒情歌や童謡・ポップスなども、今までと違った音色や歌詞の響きで聴こえて

きたように、この古典音楽も新たな感動で聴ける不思議を実感しているのだった・・・・。
 

ある心理実験をして・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 5月18日(水)21時28分57秒
編集済
  なかなか難しい実験だが数日前から心の底から、自分の命が今夜か明日に必ず亡くなって

しまう・・・・と思いこんで過ごしてみたら、昔、聴いた童謡・抒情歌、流行歌までが

今までと全く違った気持ちで聴いている自分に気づいた・・・・

そして、この歌を聴き自らも歌っていたそのころの自分がよみがえってきて、ああ、あの時

もっと深く歌詞の意味をかみしめて聴いていたら・・・と後悔の念が湧いてきた・・・・

というよりこの歌の意味は・・・・作曲者の訴えている心情はこうだったんだと・・・・

涙ぐめるようになった・・・・。

それと同時に、1970年代から80年代~90年代そして2000年に入って今日まで

の世相と自分が生きた生きざまがなつかしく思い出され、悲しい思い出も、苦しい思い出も

なつかしく、あの時はあの時で精一杯生きてきたんだと・・・・なつかしく、それで

よかったんだと思い出されてきた・・・・。

そして、昨今の世相やコロナ禍の今日のことも、まるで過去のことのようになつかしく

それはそれで生きてきた いい思い出を創り出しているんだ・・・・とそんなにも、楽観的に

この世を見つめている自分に驚くことが多かった・・・・。

ただ、宗教的・哲学的な思いだけは、はっきりとした結論・心情は出てこなかった・・・。

自分の一生・・・・というより、人間の一生は、本当に不確かなことが多く、それぞれの

人生は一体何のため、なんの目的であったのか未だに判然としない・・・・・

しかし、この思いは後悔・・・というよりさっぱりわからない・・・・というべき思いであり

一方でそうであってみれば、それはそれでいいのではないか・・・・と思えてくるのである・・。

この思いに続いて、自分の脳裏をかすめたことは・・・・自分の呼吸がとまり、この世で

いう死に向かった場合自分はどんな心情・どんな感覚・どんな神経の痛み?をもって

死 を迎えるのか・・・・ふと実感をもって感じるのである・・・・。

でも、心の片隅で1985年に洗礼を受け、キリスト教を信じたことが思い出され、その時

の感動と感激がふと思い出され・・・・

そう・・・死の瞬間は、イエス様を仰ぎ復活されたイエス様があらわれたカルバリ湖を思い

出しながらしっかりとイエス様と再会できると信じて信じて信じきって息をひきとり

たい・・・と思ったのだった。
 

そうですね・・・。

 投稿者:椿  投稿日:2022年 5月18日(水)19時05分37秒
  本当に、振り返ってみると、確かにおっしゃる通りですね。
過去の日本にも、アメリカにも、またある時期のヨーロッパの国々にも「悪」は存在したと思います。
人間というものが戦争という悪から逃れられないものだとも思われます。

マリウポリのアゾフスタリ製鉄所の地下の人々がどうぞ助かりますように・・・と
毎日祈っていましたがなんとか脱出することができ、負傷兵もZのバスですが、
地上にでることができ、少しほっとしました。
でも、これからどうなるのか・・・。

最近は悲しい、苦しい出来事が多く報道されるので、
「いつもよろこんでいなさい」の言葉が聞こえなくなりそうです。

読書で、大昔の世界や平和な時代のヨーロッパの国々を旅したり、花の刺繍を
したりして時間を過ごしています。

いいニュースも聞きました。ウクライナの若い音楽家、イリア・ボンダレンコさんが
祖母の地下室から投稿した音楽から始まり、29か国、94人のヴァイオリニストたちが
オンラインでウクライナの伝統音楽を合同合奏し、
それを聴いた坂本龍一さんが楽曲を提供したとか・・・。「Piece for Illia」
苦しみの中にも希望を・・・・

そういえば、ホロコーストのときにも、そんなことがあったという話を
聞いたことがあります。
人間っていったい・・・

ま、ここでなんだかんだ言っていても、何の役にもたたず、申し訳ない気持ちです。
 

国家の方針は宗教の原理に反している時が多いです

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 5月15日(日)11時14分45秒
  国家と宗教については、下段で述べたのでここでは簡単な説明にしますが

現在、ロシア(プーチン大統領)とロシア正教会の関係については、下段で

プーチンと親しいロシア正教のキリル総主教になってからは、プーチン大統領との結びつきが強くなり

他の教会役員とのあいだに、根本的な信仰理念の違いも出てきており、ロシア正教の

一般信徒全員がキリル総主教と同じ立場ではない…とは思いますが、現在ロシア正教会

は、ウクライナとの戦争は肯定していますし、戦況によっては核爆弾の使用もしかたない

との見解を示しています。これに対しローマカトリック教会の主教がキリル総主教と対談しロシア正教会の立場は、キリスト教の立場

と根本的に違っているので、改めるように

強く申し出されました。

こういったいきさつはあっても、かっての太平洋戦争で日本は神国(天照大神の神国)なので現人神(あらひとがみ)であられる

天皇陛下の臣民として、異教の国アメリカと戦うべきであるとして、一方的に真珠湾を奇襲攻撃し日本国民を戦争に巻き込んだのでした。

しかし、戦況が悪化しいよいよ本土(日本国内)決戦となったときも、現人神であられる

天皇陛下のために、1億総決起ををあおり、国民を犠牲にしても1億国民総玉砕を主張したのです。

しかし、キリスト教国であったアメリカは、広島と長崎に原子爆弾を投下し次は首都東京

にも原爆投下・・・という直前あまりの悲惨さに無条件降伏したのでした・・・。

このようにキリスト教であっても神道であっても、結局は政治の世界では利用されるだけで

宗教団体は抵抗する力もなく、当時の国家権力に全面服従してきたのです。

現代ではロシアの行動を非人道的として非難はしていますが、かってアメリカは

ベトナム戦争で北ベトナムに枯れ葉剤(化学兵器)をつかい多くの民を虐殺していますし

キリスト教国と自負するアメリカ・ヨーロッパにおいても、戦争下においては、非人道的、非キリスト教的

行動はどの国においても日常茶飯事のことなのです。
 

ちょっと一休み・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 4月24日(日)23時26分48秒
  このところウクライナの戦争や、世界のコロナの流行のニュースに心が沈みがちな日々ですが

音楽好きな私にとって一番の慰めは昔、好きで歌ったりピアノで弾いていた音楽をもう一度

聴いてみることでした。

日本名曲アルバムのテレビ番組を毎週録画していたので、今夜は久しぶりにそれを聴いて

過ごしました・・・。

その番組が放映された、年月日もわかるのでそのころの自分の心境や生活や心の状態も

蘇ってきて当時と違った印象をその音楽から受けたのでした・・・・

そういう意味では、小説や宗教・哲学書を読み返しているよりもより早くより分かりやすく

心に響いてくるものがあり音楽は一瞬のうちに自分の心をそのころの時間と空間に瞬間移動

してくれるものであることを実感しました。

忘れなぐさをあなたに・・や 中島みゆき さんの 時代 など聴きながらしみじみと

輪廻転生は本当にあるかも知れない・・・と思ったのでした・・・・

下記は YouTyub の 時代 です。

https://www.youtube.com/watch?v=M_WhBstU0g8

 

とにかく 殺すなかれ

 投稿者:椿  投稿日:2022年 4月23日(土)22時31分57秒
  私は報道1930の番組は見ませんでしたが、東方正教会とウクライナ侵攻についての記事をいくつか読みました。

現在のロシア正教のキリル総主教は、聖職者という部分より政治家と
しての部分が多い人物で、プーチンに支えられて総主教の座を手にした
ように書かれていました。
またプーチンとは「ルースキー・ミール」という共通の価値観を持ち、今回のウクライナ侵攻に関しても全面的に協力しているとか・・。

私が今読んでいる平安時代の説話に関する本にも、貴族たちに重用され、
高い位につく「名僧」とひたすら自らの信仰を貫き通し、
人々に奉仕する「聖」とは対立の概念に在り、源信とその母の話なども
紹介されていて、いつの時代でも、宗教と政治権力の結びつきは避けがたく
存在するものだと改めて思いました。

真の信仰を守り抜くのは、本当にたいへんなのですね。
「沈黙」に描かれたように、隠れキリシタンの人々もとてつもない
苦しみを体験しました。

ただ、現在でもロシア正教の心ある聖職者や各地の正教会、ローマ
カトリック教会、英国国教会等が平和への声をあげてくれているのは、
救いです。もちろん仏教界も。

ロシアにどんな事情があるとしても、
今行われている他国を廃墟にし、人々を虐殺するという行為は、
人間として許されることではないと思います。

「汝、殺すなかれ」
ロシア正教会の儀式で、冷水で沐浴したプーチンですが、あまりにも多くの罪なき人々が殺されてしまいました。

 
    (管理人 Angel77) 投稿、感謝します。
カトリック教会の現状について、あまり詳しくないので、テレビを観て感じたままを
書きました。
テレビではロシア正教に詳しい大学の先生もコメントされていましたが、ソ連崩壊の
折は、ロシア国民の信仰と心の平安を取り戻す大切な役割を果たした・・・とも
コメントされていました。ただその後椿さんも指摘されている通り、
ロシア正教のキリル総主教になってからは、プーチン大統領との結びつきが強くなり
他の教会役員とのあいだに、根本的な信仰理念の違いも出てきており、ロシア正教の
一般信徒全員がキリル総主教と同じ立場ではない・・・とのことでした。
また、現在のウクライナの人々は東方正教に所属する方が多く、ロシア正教や
ローマカトリック教会とも考えを異にしているとのことでした。
いずれにしても椿さんがおっしゃるように・・・
キリスト教の原点でもある「汝、殺すなかれ」ですね。
 

BS‐TBS(テレビ) 報道1930 の昨夜の番組から・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 4月23日(土)11時59分34秒
編集済
  報道1930 の昨夜の番組で「戦争と平和」ロシア正教とプーチン大統領を観て

キリスト教(カトリック)の教会も国家権力には絶対服従を余儀なくされていることを

まざまざと知りました・・・。

注)上記のカトリック教会は、ロシア正教の歴史をみて思った事です。
ロシア正教はマルクスレーニン主義による共産主義革命が起きた時、完全につぶされました。ソビエト連邦政府は、ロシア正教の持っていた資産を没収し布教活動も禁止されました。ソ連が崩壊してようやく信教の自由が許され、ロシア正教が復活したのです。
ローマカトリック教会は近年においては、このような政変はなかったので布教と信教の自由は保障されていました・・・。


日本が太平洋戦争に突入した時、キリスト教会は国家の方針により小さく分かれていた

教会を日本組合教会に統一を命じられ、この教会の決議で日本の軍隊に軍用航空機を

教会員の献金から奉納させられることもありました。戦後、日本基督教団はこの事実を

反省し公式にこの献納はキリスト教の教義からみて間違っていたことを公式に発表しまし

たが、現在のロシア正教はこれとよく似た行動をとっていることを知り、キリスト教会で

あっても、その意に反した行動をとらないと存続していくことすら危うくなることを

しりました。そういう意味でこのテレビ報道にもあった、ロシア正教がロシアが核爆弾

を持ちこれを使用することを真っ向から反対できない立場にあることも知りました。

ローマのバチカンにあるローマカトリック教会(アメリカ・ヨーロッパを中心に信徒も多い)

だけは、戦争を批判し反戦の態度を明確にしており、更に核兵器を持つことや使用することを

公然と拒否・批判しているが、ここに属さない東方教会の立場は定かではない。

このように見ていくと、教会はそのルーツであるイエスキリストの平和と人道主義の

根本的な教義すら国家権力には抗しきれないことが明白となる・・・。

さて、個人の信仰者の立場として、今回のウクライナにおける戦争をみて、個々人の信仰と

その組織下にある教会の立場は必ずしも一致しないものだ・・ということを認識させ

られました。

なので、真の信仰を貫くためには、いつも聖書とイエスキリストの原点に立ち、この原点を

みつめていかなければならない・・・と思ったのです。

自分自身の信仰を貫くには国家組織にがんじがらみ にされている教会組織を・教会規約

をみつめるのではなく、聖書とイエスキリストの教えの原点を見つめるべきだと・・・・

思ったのでした。

これは、仏教教団と仏教の信仰についても同じことが言えるのではないかと思います。
 

現在の心境・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 4月 9日(土)22時33分19秒
  ウクライナとロシアの戦争のニュースが毎日・毎夜放映されています・・・・。

世界的なコロナの流行も2020年から2年以上続いています・・・。

学校では習わなかった、現代史を今になってなまなましく学ばせてもらっている

不思議をしみじみと感じます。

そして、日本もウクライナと同様に、70年前にはひどい戦争の真っただ中にいたのです。

そういう意味で、今、私たちは、国家とはなになのか?

宗教のはたしている、役割とはなんなのか?・・・・・・

人間の世界における、善悪・・・とは?

人間の良心とは・・・・・?

生まれ、生き、暮らし、社会に貢献し、家庭を守り、生きた、一人、一人の人生は

一体、どういう意義があったのか・・・・?

沢山の時間と、考えうる、世界情勢の中でゆっくり感じ取り、吟味し、自分なりの

結論をだしておこう・・・・と思ったのです。

この、思いと心情はこれから徐々に書きとどめて、発表してみたいと思いますが

今、そう総論として思いつくことは・・・・・・

日本においては、どの宗教もそれなりに納得のいくものだなぁ~という思いと

本当にそれが信じられたら・・・それはそれで、何も信じない人よりは幸せなのでは

ないかと・・・ふとそう思えたのです。

なので、宗教的に対立し批判し論争していたことが空しく思え、感じられます。

どの宗教を信じている人も、生きることに真剣で悩み苦しみぬいた人生の中で

ようやく見つけ出し自分自身納得できた宗教であり心情であればそれはそれで

いいのではないか・・・と思えるようになってきました。

そして、「ドライブマイカー」の最後のシーン・・・・・・

最後に「ワーニャ伯父さん」の舞台演出者のセリフをラストにもってきて

この世における人生の悲哀をうまくセリフの中で代行させ、この世の生きるための

悲哀を語らせて締めくくっている。

「生きることは、本当に悲しく苦しかった・・・。耐えられぬほどの孤独や苦しみの中で

それでも生き抜いた・・・。でも人生の最後に遭遇したとき次の世(あの世)がどのようで

あろうと、その次の世で出会った人に「私は誠一杯生き、次の世(今の世)の幸せを信じ、信じぬいて

生きたことを、その時会った人に語りたい・・・・」と・・・
 

すばらしい作品のようですね。

 投稿者:椿  投稿日:2022年 3月29日(火)22時16分5秒
  ここ数日、「ドライブマイカー」のアカデミー賞(国際長編映画賞)受賞のニュースで
盛り上がっていましたね。
私は、映画も見ていないし、村上春樹さんの原作も読んでいないので、感想は書けませんが、
YouTubeや、作品紹介を読んで、ぜひ、この映画をみたいと思いました。

若く、豊かで優れた感性の持ち主である監督、そしてその願いを受け止め、表現できる俳優たち、
また、今、この難しい世界に不安を抱きながら生きる我々鑑賞者・・・いいタイミングの受賞で
よかったです。

チェーホフの「ワーニャ伯父さん」は本でも読み、文学座の公演にも行ったことがあります。
その時も、最後の場面でソーニャがワーニャ伯父さんに語りかけるセリフにしみじみしましたが、
長く生きてきた今は、その意味がもっと深く心に沁みてきます。

 

「ドライブマイカー」(アカデミー賞候補映画)を観て・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 3月28日(月)11時22分58秒
  オンデマンドで「ドライブマイカー」を観ましたが、この映画は幅広い人生の悲哀を

うまく、演劇スタッフの日常の日々から表現している映画…だと思いました。

演劇スタッフの生活する日々と、実際に仕事として演じられるロシアの文豪チエーホフの

「ワーニャ伯父さん」の練習ストーリーとは直接の関係はないのだが、小説のストーリー

と主人公(演出家)とその妻との生前の生きざまや、演出家の運転手役を演じる女性ドライバー

の人生を交互に映像化し最後に「ワーニャ伯父さん」の舞台演出者のセリフをラストにもってきて

この世ににおける人生の悲哀をうまくセリフの中で代行させ、この世の生きるための悲哀を

語らせて締めくくっている。

「生きることは、本当に悲しく苦しかった・・・。耐えられぬほどの孤独や苦しみの中で

それでも生き抜いた・・・。でも人生の最後に遭遇したとき次の世(あの世)がどうのようで

あろうと、その次の世で出会った人に「私は誠意一杯生き、次の世の幸せを信じ、信じぬいて

生きたことを、次の世で会う人に語りたい・・・・」と・・・

 

この世の時間と共に生きている人々の言い分・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 3月26日(土)08時09分8秒
  釈迦の無常観やキリスト教の聖職者の生き方や思想について、精神分析医やプラグマティズムを信奉する人たちは私が下段に書いた思いや主張とは異なる思いや見解を述べている。

彼らの主張の多くは、今現在の自分に置かれた立場や職業・社会的使命を考えると、自分個人の感情や意思は遠のき必然的に今、現在置かれている自分の社会的使命や義務観が優先
され必然的にその瞬間・瞬間、を精一杯生きようとすべきだ・・・と主張する。
そうすることが、社会や家庭を支えひいてはその国や世界を支えることにつながると・・・

確かに、現在幸せに暮らせているのは、そうした人達の献身と社会奉仕があって初めて実現
しているのかもしれない。

このような、考えで生きている人々は現代社会の大半の人達の思いでありある意味で健全な
生き方かもしれない。
また、若い人たちの健全な思いとは、青春を謳歌し恋愛しあるいは自分自身の夢に挑戦して
邁進する・・・一日一日が大切な将来のための貴重な時間なのだ。

そういう意味では、宗教的な思いや、哲学的な思想はこうした人々には生きるための足かせに
なってしまうのかも知れない。
 

本当に「幸せな人生」を送るには・・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 3月16日(水)13時12分48秒
     人間の一生を謙虚に見つめてみると、釈迦が仏典で述べられているように

「生まれ、老い、どこか身体に故障ができて、最後は死んでいく」いわゆる

「生・老・病・死」の宿命は避けられないと思います。

そういう意味では人間は生涯にわたって幸せに生きるのはむつかしいのでしょうか?

私は、この答えは条件がつくと考えます・・・・・

それは、「その人の人生をこの世的な思いにドップリと漬かっている以上は・・・」

この宿命からは、逃れられないと思うのです。

では、どういう生き方をすれば、この宿命から脱却することができるのでしょうか・・?

私はクリスチャンを例にとって説明したいと思います。

まず、クリスチャンの第一歩は・・・・

「イエス様の愛を知り、イエスキリストが誠の神であると信じた・・」ことから

始まります。

しかし、クリスチャンになっても、生身(なまみ)で生きている以上、この世の

しきたりに従っていかねばなりません(何らかの職業につき、食べるために働き、

世間体もあるので家庭を持ち、家族の為に生計をたて生活を支えていかねばなりません)」

このときまた、釈迦が言われた迷いが生じるのです・・・・・

それは、生活を続けられるかどうかの不安や病気になって身体がだめにならないか・・の

不安・・そして家族が自分を裏切るのではないか・・の不安・・会社が自分を

解雇するのではないか・・の不安など いわゆる生きるためのもろもろの不安

です・・・」

これらの不安は、「イエス様の愛を知り、イエスキリストが誠の神であると信じた・・」

思いと矛盾していないでしょうか・・?

仏教徒の思いに置き換えても「阿弥陀仏(一切の衆生を救うためにこの世につかわさ

された仏)に一切をゆだね、ただ弥陀の本願におすがりしよう・・・」と決心した

発心(信者となる)」にも矛盾するのは同じことです。

わたしは、他力(キリストや阿弥陀仏おすがりする・・)の本質は、ある意味で信じきること

だと思う時、信心したその時点で、全ての思いをこの世的な思いから

解放させて「イエス様に自分の全て(思考からでる不安・この世への執着・

その他一切の不安と執着)を捨て去ることだと思うのです。

このとき、はじめてこの世の束縛から解放されて、もうすでに、この世に居ながら

らにして、約束された天国に自分の「魂と心」は到達していると思えるのです。

その意味では、もう誰からも奪われない「真の幸せ」をこの時点で獲得し

この世に生きながら「天国の世界」を自分の魂は歩んでいるのではないかと・・・

思えるのです。
 

この世の時間と空間の不確かさ・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 3月15日(火)21時03分7秒
編集済
   私は、ごく最近まで人間は時間のまっただ中にいるので、論理的に

時間の外側に経って、人の世を見たり、この世の実態をながめる・・・こと

などとうていできないものだと思い込んでいた。

しかし、余命いくばくもなくなった方と、話していたり、あるいは正反対に

青春のまっただ中にいる人々にかこまれて過ごしている時、自分との時間の

隔たりを直感的に感じ、自分自身がこの人たちの外側にいて、これらの人々を

冷静にみることが時々できるようになった。

もう少し、わかりやすく説明すると、前者の臨終まもない人との接触の中では

確かに、迫り来る「死」は他人事なのだが、やがてくる自分自身の「死」を

自分の時間の外側からはっきりと見ている自分に気づくのである。

そして、後者の「青春のまっただ中にいる人々にかこまれて過ごしている時」

には、たしかに体験した自分自身の青春のある時期を「垣間見・・・」なつか

しく、まるで映像をみているような錯覚をおぼえ、自分自身がこれらの若者の

時間の外側にいることをを発見するのである。

仏典の「生老病死」や「諸行無常」 ・・・・・・・

平家物語の冒頭の一節・・・・・・

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ

鴨長明の「方丈記」の一節

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、
たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、
これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。
或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。
住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、
二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。
あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。

これらは、こうした、この世の時間の外側に経つことができた人々が体験し直感した

経験をもとに書かれた気がしてならない


私が述べたかったのは、こういうことではありません。

時間の外側に経って「この世をながめる・・・」とは、本当に入り口で

しかありません。

話を、本論に戻すために、もう一度、この世の歴史を振り返ってみたいと

思います。

私が時々感じたことなどではなく、もっと体系的に論理的に時間の外側に

経って「この世を見つめ、この世の無常・虚無感を大きく払拭した方が

おられたのです・・・・。

それは、お釈迦様の教えでした・・・・。

仏陀は、6年にも及ぶ苦行・修行の末に、菩提樹の下で時間の外側に人類と

して初めて経たれ、この世の実相を看破されたのでした。

悟りを得られたとき・・・・

「ああ、奇なるかな奇なるかな・・・一切の衆生は燃えている・・・!!」

この最初の言葉は、色々解説されているが、私はこの悟りをこのように

思う。

苦しい修行の末、自我を捨て、この世の時間の流れのまっただ中で

一瞬、別な次元の世界に自分が移った時⇒(この世の時間の流れの外に

経って、この世を振り返った時、・・・)突然 天地創造の神が創り出した

この世の実相を垣間見たのだと・・・・。

別の言い方をすると、天地創造の神の実相を識(み)た・・・のだと思う。

広大な星座・無限の宇宙マクロの世界・・・そしてひとたび自分の足元では

微細な微細な、しかし精巧な緻密なミクロの世界・・・・・・・

それらは、ただじっと動かず存在しているのではなく、大いなる雄大な力に

導かれて、これらいっさいの衆生は生き生きと、赤々と燃えている・・・・・

こういう天地創造の大いなる力を垣間見た・・・のだと思うのである・

さて、もうひとりの、偉大なお方・・・・イエスキリストはどうであったか

40日間荒野をさまよい、この世の実相を天地創造の神から知らされたイエス

は・・・・

完全に時間を超越されていたお方だと思う。

聖書(史実)によれば、富裕な青年を観て・・悲しい顔をされ・・・

「らくだが針の穴を通るより、富んでいる者が天国に入る事の方が難しい・・」

と言われた。

これを私なりに解説すると、富んでいる(金持ち)が悪い・・・ということではなく

この世で富を得ると、どうしても、見えているもの(地位・名誉・名声・私有している

財産・家族・親族など)に執着がおこり、それら見えているもの、それのみが人生の

すべてである・・・と錯覚をおこす・・・・・。

そういう人生では、人生の外側に経って、この世をながめる・・ことなど、とうてい

不可能である。なぜなら富んでいるものは、決して今、いる現在を越えて人の一生を

見ることができないからである。するとこうした心境でいよいよ、臨終を迎えると

どういうことになるか・・・・・?

「ああ、なんと言う虚しさ、そしてなんという虚無感!、 今の今まで絶対に消えること

がないと思っていた、お金で手にすることのできた、快楽・快感・財物・・・その他一切の

占有物が消えていく・・・!  ああ、なんという虚脱感・絶望感・・・! 永遠に自分の

ものだと思っていたこの身体(健康)お金で買えると思っていたこの財物・・・これら一切が

霧のように消えてなくなっていくのだ・・・・!!

こうした無限地獄・・無限の絶望が死の瞬間絶え間なく続いていく・・・・

あの名作「クリスマスキャロル」の映画の富裕だった実業家のスクルージとそっくりの

終末が訪れるのである・・・。こうした心境のなかでは、とうてい天国に入ることは

不可能である・・・とキリストは言い切ったのである・・・・。

そして、あの忠実で誰よりもイエスを熱狂的に愛していた

弟子のペテロに、「今夜、鶏が3度鳴く前に、あなた(ペテロ)は私の

ことなど知らない・・と言うだろう・・」と予言された。(そしてその通りに

なった)

このような時間と空間をはるかに越えられたイエスキリストの言葉と行動は

数え上げればきりがないが、しかし、悟りに至る第一歩は、いつもこの世の


時間の外側に経って「この世を見つめること・・・」ではないかと思うので

ある・・・・。
 

少し納得

 投稿者:  投稿日:2022年 3月 5日(土)17時41分34秒
  3月3日のコメントを読んだとき、思いました。

私も宗教に戦争を停止する力があるとは、考えていません。
むしろ宗教がそんな力を持っていたら恐ろしいかも知れません。

でも・・・
『いつの世も国と国の戦いは、キリスト教の原点である博愛と人道主義は無視される‥』
なんかそれでは宗教って空しいものだなと思います。
宗教は個人の魂を癒し、安寧に導くだけのものなのか・・・

『あきらめる前に、世界中の国の人々がもう一度戦争の悲惨さや
残酷さを思い返し、やはり武力による戦争はなにがあっても回避しなければ
ならない・・・と自覚することではないかと・・・思うのです。』
ここが大切だと思います!

確かにどの人間の中にも悪しきもの、弱いものが存在するのは否めません。
間違っていると思いつつ行動してしまうこともあります。しかし、
同時に人間は、何が正しいかを見分ける力や理想への憧れも持っていると信じています。
常に神に問いかける人々はなおさらです。

情報戦は入り乱れ、心を澄ませ、注意して見ていく必要はありますが、弱い者
(まして子供など)を危険にさらし、力でねじふせ、自分の思い通りにことを
運ぼうとする今回の侵攻は最悪です。

 

諸行無常を深く感じるこのごろです・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 3月 5日(土)12時50分44秒
編集済
  コロナの流行がおさまらない昨今に加え、ウクライナへのロシアの侵攻と戦争の

激化もあって多くの国民はやるせない思いで日々を過ごしておられることと

思います。もちろん私もその一人ですが最近はこの思いに沈むだけでなく人生の

何かをつかむきっかけに変えたいと思っています。

こういう時だからこそ・・・こういう世界の情勢だからこそ自分自身に平常時

とは異なった感覚・意識・を持ちそうした意識下でこの世の深い部分を自覚し

かみしめていきたいと思うのです・・・。

先日(下段に)国と国との思いは個人の心情や信仰とは異なった行動をとり

異なった思いで、ものごとが進むものだ・・・・と書きました。

今もその思いは変わりませんが、しかし歴史の進み方やこの世のすべての出来事は

その元となる発端は人々の心の底の思いや心情・怒りや反感による対立から

大きな意思のうねりとなり、その怨念のような情感が国家間の対立に発展し

ひいては、戦争に発展するのではないかと・・・思ったのです。

そのように分析していくと、国と国との戦争を回避する方法は、どうにも

ならないと、あきらめる前に、世界中の国の人々がもう一度戦争の悲惨さや

残酷さを思い返し、やはり武力による戦争はなにがあっても回避しなければ

ならない・・・と自覚することではないかと・・・思うのです。

この思いは、仏教やキリスト教の思想の原点でもありますし、宗教は違っても

各国の国民の心情にも合致した思いであると・・・思うのです。
 

世界の情勢と個人の信仰・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 3月 3日(木)14時23分46秒
  世界の民主主義国の思いと個人の信仰については完全には同じだとは思いません。

と言うよりこの問題は近年の歴史を振り返ってみればよくわかることです。

キリスト教国を自認するアメリカやイギリスが第2次世界大戦において、原子爆弾を

広島と長崎に投下したことをみても明らかです。

おそらくアメリカ国民のクリスチャン個人はこの原爆投下を容認したり推奨したりは

していなかったはずです。でも国家と国家の戦いでは、キリスト教本来の、博愛主義や

人道主義は無視されるのです。

そういう意味ではロシアの市民やクリスチャンの民衆は今回のウクライナ進行は容認は

していないと思いますがしかし、国としての方針はキリスト教本来の教えや原理からは

大きく離れていくものです。

このことはかってのアメリカのイラク爆撃や占領にも言えることです。

結局、イラクは大量破壊兵器の原子爆弾は保有してはいなかったし、アメリカ当局も

多分それを承知で爆撃占領した・・・と思えます。

いつの世も国と国の戦いは、キリスト教の原点である博愛と人道主義は無視されることが

あることを今回のウクライナとロシアの紛争をみても明らかだと思えます。
 

キエフ

 投稿者:  投稿日:2022年 3月 3日(木)12時08分31秒
  キエフには行ったことはありませんが、50年前から京都市と姉妹都市の関係です。
人口は京都市の2倍、大阪市と同じくらいです。

私はバレエが好きで、何度かキエフバレエの公演に出かけたことがあります。
踊り手にも音楽家にも伝統と歴史を感じる素晴らしい歌劇団です。
キエフの町が攻撃され、破壊され悲しいです。

日本も難民を受け入れると発表しました。
Tシャツを買ったり、募金もできるようになりました。

ギリシャ正教の司祭とカトリック教会の神父がいっしょに
涙ながらにマリア像に祈りを捧げました。
ローマ教皇が3月2日をウクライナに祈りを捧げる日にしたとか・・・

それにしても、ショパンの国はいつまでも戦争と隣り合わせですね。
ポーランドのショッピングモールは難民であふれています。
 

どうしたらいい?

 投稿者:  投稿日:2022年 2月27日(日)12時26分42秒
  食事をしようと、テーブルについたら、いきなりミサイルが天井に突き刺さりました。
神様、どうしたらいいのでしょう。

東方にキリスト教を持ち込んだのは、聖ウラジミールだとか!!!
 
    (管理人 Angel77) 投稿ありがとうございます。
本当に、ウクライナの人々は大変な日々を送っておられますね。
国と国の問題はそれぞれの国の事情や経済的、政治的問題もあって
個人の信仰や宗教・思想の違いだけの問題でなくなるので事情は
複雑ですね・・・。
でも、世界中の人々が、キリスト教信仰の神髄である、博愛と慈悲
平和を愛する心になってほしいですね。



 

安心立命(究極の安らかな境地)

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 2月18日(金)06時48分16秒
  本当の幸せな人生を送るための具体的な方法を求めてきた私がやっとたどりついた

境地は、死を覚悟した高僧や修道院の神父または修道院の修道士のような心境かも知れないと思いました

よくよく考えてみると、この世の目と耳触覚などで感じる外界とその背景にある政治経済・社会は

刻々と変化し動いています。この動きと自分の感覚を同期している間は、自分の意識は仏教で言う

諸行無常であり生老病死の真っ只中にいて、阿修羅のごとく一喜一憂して のた打ち回っているのが

人生です。

でも、もし、自分の意識を外界の現象を見ても反応させず、自分の祈り信ずる、心の平安に身をゆだねて

いることができたら、生きていて意識があるあいだ中、喜びと平安な心で満たすことも可能だと

悟ったのです。

明日は、そして1年後はいえ、数年後は、いえ死の瞬間まで、そうした平常心でいられたら

平常心即菩提と言われている平安で幸せ感に満ちた最後を迎えることも可能だと思われたのです。

そう、死ぬ瞬間まで、もはや死もなく病もなく生きる憂いもない世界を確信して確信して疑わないで

生き抜きたいと思ったのです。

そうすることが、この世の悲惨な(生きる苦しみ、老いる苦しみ、病にうちひしがれる苦しみ、そして

最後に自分の肉体が滅びて死んで行かねばならない苦しみ、)これらの絶対に逃れられない

生老病死のカルマ(業)から開放されることも可能だと悟ったのです。


そのためには、今、この瞬間から、自分の心を180度転換して、外界の移り変わりに一喜一憂せず
     かたい信仰に支えられて、天国への絶対の確信を持ちやがてたどりつくもはや死もなく病も

なく生きる

     憂いもない世界に移れることを確信すべきだと思ったのです。
 

イエスキリストの十字架上での死の意味

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 2月18日(金)06時41分3秒
  イエス様の十字架上での死は、父なる神が主導でなされた出来事と言うより、

むしろイエス様の受忍(父なる神の全人類を救う唯一の道としての生贄になることを受け入れられたこと)

から始まっていたのです。

なので、その体験は十字架にかけられた・・・・と言うよりイエス様が私たち人間の一番苦しい原罪の負債の返済(死)を

自ら引き受けその方法も一番苦しい十字架上での死という死を味あわれることによって、父なる神と人間の道が開け人間が

エデンの園から追放された出来事をもう一度エデンの園に戻れる道筋を作ってくださったのでした。
そういうわけで、イエス様の死の体験は人間の原罪のもっともつらい部分の体験(味わい)であり、言語に絶する苦しみでも
あったわけです。

それは、肉体的な苦痛だけでなく、神から見放されて滅びていく孤独、魂の悲痛な叫びでもあったわけです。

牧師先生はこのイエス様の体験は知的体験や感覚的体験とはことなり、聖書に書かれているように、人間の原

罪の最後の負債の返済時の

滅びゆく肉体のあわれと、精神的霊的失望そして、これらの言語に絶する苦しみの「味わい」(実体験)であ

ったというのです。

これらのことは、十字架上でのイエス様の悲痛な叫び「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのです

か・・・」に要約されていると思います。

これは、全人類の死の瞬間の思いであり、神から離反し楽園を追放された人間の宿命でもあるのです。

でも・・・・

イエス様の贖罪によって、その十字架上での死を父なる神の天国に帰れる道を造ってくださった「イエス様と

父なる神の愛」を発見し、信じることに

よって狭い門からではあるが天国に帰れる道が示されたのです。

私たちは「死の瞬間」までこの「神の愛」を全身全霊で受けてイエス様に導かれて天国に帰りたいと思いま
す。
 

自分が目指せるのは・・・

 投稿者:椿  投稿日:2022年 2月 2日(水)10時17分22秒
  「いつも喜んでいなさい」
本当に、毎日、このような気持ちを保つことができたら、幸せな
人生を過ごせることでしょう。悟りの境地・・・ですね。

宗教は、いつの時代にも、人間には、苦しみや不安があったから
こそ生まれたものだと思うので、そう簡単に気持ちを転換するのは
難しいと思えます。
だから「絶えず祈りなさい」なのですね。

自分に今、できそうなことは、④と⑥かな?
そして、最終目標が⑤です。おおいに難しそうですが・・・。

少し前の「天声人語」の記事ですが、ゴリラをずっと追っかけ続けて
いる画家阿部知暁さんが紹介され、その最後にこんな一文がありました。
「これを知る者はこれを好む者にしかず、これを好む者はこれを
楽しむ者にしかず」
論語にある言葉。何か一つ好きなものを楽しみ、究める。真に打ち
込めるものを持てば人生はどこまでも輝く。

これまた、難しそうですが、「究める」までは行かずとも「打ち込む」
までは行きたいものです。
 

幸せな日々を送るために・・・

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 1月28日(金)10時06分15秒
  幸せな日々を送るために心を如何に保つべきか・・・!

以前の私の投稿文を参照して今一度、確認・検証してみたい。・・・

これだけ世の中の移り変わりのスビードが早く、また複雑な世界情勢の

中では、どのような思いで日々を送るべきか・・・・難しい選択になる。

世の中の移り変わりや、情勢分析は怠ることはできないが、かといって

長期的な予測や近未来の断定的な判断はいろいろな問題が交錯している

現代社会では断定はむつかしい。

と、すれば具体的に我々はどのような心構えで日々を送ればいいの

だろうか・・・・。結論ではないが下記のような心情と生活態度で

いれば、大きな失望や挫折がおこるリスクは下げることができるような

気もするので、自分自身に言い聞かせるつもりで列挙してみた・・・。

① まず、あまり長期的な予測をたてて動かないことだと思う。
  このことは、複雑な世界情勢の中でどのような突発的なことが
  起こるか予測が立たない現状であるだけに長期予測は意味がない
  ようにも思えるからである。

② 以前に時間の概念について述べたことがあるが、私は現実にある
  のは、この現在の一瞬・一瞬しかないと思えるので、この一瞬・
  一緒の今、この時間を大切に精一杯生きてみることだと思う。

③ 上述の今現在の一瞬一瞬を精一杯生きるためには、悲しみや
  不安をすべて自分の心から追い払って底抜けに明るく・明るく
  楽しい思いを自分の脳裏に埋め込んで思考し行動することだと
  思う。

④ 具体的には今、自分が一番楽しくなれることが、あればそのことに
  全力投球し、楽しい幸せな思いをそのことに集中させることだと
  思う。(音楽家なら作曲や演奏に、画家なら絵を書くことに、作家
  なら、心温まる著作活動に没頭することだと思う)

⑤ 日々の日常生活においては、笑顔を絶やさず、どんなことにも感謝
  して、自分と接点のある近隣の人や家族・職場の同僚とも仲良く
  いい面を認め合って明るく明るく接していくことだと思う。

⑥ 自然の中で、季節の折々の花を鑑賞して、自然を散策したり、
  緑の木々の公園や山々を歩き澄んだ空気をいっぱいにすい、
  小鳥の鳴き声や太陽の暖かさを身に感じながらこうして生かされて
  いることに感謝して幸せな気持ちでこの一瞬一瞬を過ごせたら
  ただ、それで十分だと思う。

⑦ こうした心境になるためには、以前に書かせていただいた
  私自身、まだまだ未熟な信仰生活だが・・・・
  若いころ読んだ聖書の一節・・・・

  「いつも喜んでいなさい」
  「絶えず祈りなさい」
  「どんなことにも感謝しなさい」
 (テサロニケ5章16~18節)
  以上の聖句をそのまま何の抵抗もなく受け入れ、日々の生活に
  活かすことだと思う。

 この御言葉は、上から目線で説教じみて命令している口調の
 御言葉のようにも思えるが、最近はそうでなくこの後に続く聖句

 「これこそ(上記の3つの御言葉こそ)、キリスト・イエスにおいて
 神があなたがたに望んでおられることです・・・・」と書かれている
 意味に気づいたのだ。
 これは、命令ではなくこの世の苦しみや悲しみにもまれて生きている
 私たち人間を本当に哀れみ愛してくださっている創造主(我々人間を
 創ってくださった神)が具体的な幸せな生き方として示し導いてくださって
 いる御言葉なのだと気づいた。
 悲しく苦しいときは、私を支えて生かしてくださっている太陽や家族や
 友人や隣人に感謝し、それを喜びと感じていよう・・・・
 そして、苦しく将来が不安な時には、とにかく祈ってみよう・・・・
 そして、いま現在、なんとか生かされていることに喜び、感謝してみよう・・・と。
 苦しい時には、下記の讃美歌を思い出し口ずさんでみようと・・・・・・。

 (讃美歌 298番)

 安かれ、わが心よ
 主エスは共にいます
 痛みも苦しみをも
 おおしく 忍び耐えよ
 主イエスの 共にいませば
 耐ええぬ 悩みはなし

 安かれわが心よ
 なみかぜ猛(たける)ときも
 父なるあまつ御神の
 みむねに委ねまつれ
 み手もて導きたもう
 望みの岸は近し

 安かれわが心よ
 月日のうつろいなき
 御国はやがて来たらん
 憂いは永久(とわ)に消えて
 輝く み顔仰ぐ
 命の幸をぞ受けん


 

共感

 投稿者:椿  投稿日:2022年 1月26日(水)12時49分9秒
  私もこの考えには共感します。

そこへたどり着く道は、さまざまだとしても、深く行きついた人は、同じようなものを見つけ、感じているのではと思います。時代も住む場所も、言語も、人種も貧富の差も超越して存在するすべてのものを大きな愛で包み込んでくれるもの・・・。



でも、現実世界では、宗教は分断の要因になり、イスラム教でも、キリスト教でも仏教でも、数限りない争いを繰り返して来ました。
人間が持っている本来の性質の中に、争いを引き起こす要因になるものがあるのでしょう。
自分やその考えと異なるものは排して、優越感に浸りたい・・・

でも、一方、それらを克服し、仏教とキリスト教の共存、部分的融合を模索している動きもあると聞きます。争いを繰り返しながらこの地球に生きる人類に、希望の光がほしいですね。



去年発売されたキリスト教思想史研究者の金子晴勇さんの本「東西の霊性思想~キリスト教と日本仏教との対話」の紹介にこんな一文がありました。


「キリスト教と仏教は
「神を信じる人格的宗教」と
「悟りを獲ることをめざす知的な宗教」
という点で相違しているのは確かだが

おそらく教義や儀式といった
歴史的につくられてきた形や
それにともなって生み出されてきた
感覚や感情や思考のあり方を超えた深みに
おりていくことさえできれば
その根底に流れている霊性においては
通じ合っているはずだ
それはキリスト教と仏教にかぎったことではない」
 

世界の宗教はみ~んなつながっている!

 投稿者:Angel77  投稿日:2022年 1月24日(月)12時03分30秒
  下段で浄土真宗とキリスト教の関係を述べたが、シルクロードを通じローマの

キリスト教が西方に伝わり(特にその一派のネストリュース派が)中国に持ちこんだ

と言われています。中国は儒教と仏教(禅宗など小乗仏教)が中心でまだ他力本願の

大乗仏教は少なかったため、その当時持ち込まれたキリスト教は景教・・・として

浸透していったと伝えられています。この景教の教えの中心が中国から見れば西方

(エルサレムで発祥したキリスト教)をさし、この西方からくる神の恵みを信じる信仰が

(熱心に助けを乞う念仏)により救われる・・・と伝わった・・としています。

さらに、もう一つの説では、キリストの12弟子であったトマスはギリシャ・ローマ への

布教は行わず、もっぱらインド西部から中近東にむけて布教活動を行ったとしるされて

います。この時インドやその周辺国はもっぱら釈迦の説いた小乗仏教(まず、自分自身の

煩悩からの解脱)が中心でしたがトマスのキリスト教の布教活動により徐々に他者への

救いや助け合い慈悲の精神を加えることにより、大乗仏教が生まれこの大乗仏教が

中央アジアやタイ・ビルマなどに伝わったとされ、この影響を受けた中国も日本に

大乗仏教を伝えた・・・と言われています。

この意味で宗教はどこかでみな、つながっていて大局的にみればある意味で同じことを

説いているように思えます。

特にインドのヒンズー教の女神はイエスキリストの化身とも言われ・・・・・

飢餓と貧困カースト制度の重圧の中であえぐスードラ(最下層の民)の苦しみを一身に

背負いそれらの民と共に苦しみ慰めようとしている姿が歴史資料からもうかがわれます。
 

ほんとに信じたいですね。

 投稿者:椿  投稿日:2022年 1月23日(日)16時16分55秒
  小雪がちらつく庭の向こうで 姉と弟がバトミントンをしています。
見ていると、なんだか元気が出てきます。

私もあの頃は、心に不安や虚無感など微塵もなかった・・・
明日には、何かいいことがありそう、雪が積もればワクワク、ただそれだけで幸せだった。
きっと神様が心の中に住んでおられたのに違いない。

たくさんのことを見聞きし、体験し、いつのまにか忍び寄った疑いや不安・・・
大切な人が増えるたびに、喜びと共に不安や心配も増える。

でも、残された日々を
「この光り輝く世界(天国)の到来を確信」できるように
「人々に優しく、慈しみと愛をもって接する」ように心がけて過ごそうと思います。

ただ、自分自身の天国行きを願うだけでは、本当に幸せにはなれない気がしますね。
 

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